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だから、今度こそ

 鍵が開いていて、孝也が玄関ドアを引いた途端にひゅうっと風が吹き抜けた。  ただいまと上がると、ベランダに洗濯物が干してあり、奥の部屋からひょこっと健吾が顔を覗かせて、おかえりだけ言って引っ込んだ。  滅多に洗濯なんてしないくせに、と竿ではためくシーツを見てようやく気が付いた。  なーるほど。昨日汚したシーツまでは俺に洗濯させられなかったってわけ。  どうせテレビゲームでいいところなんだろう。ゲーム以下の俺の立場って一体、と呟きながら、炊飯器を開けると保温状態の白米がある。即行でプチッと消してプラグも引っこ抜いた。  いつから置いてんのか知らないが、保温したら電気代勿体無い上に味と匂いがおかしくなるっつーの。  健吾が炊く訳ないから女だろう。  多分三村で間違いない。寧ろ今他の女だったらびっくりする。  それでも、二人の居場所というか自分の聖域を汚されたような気がして悔しかった。  減るもんじゃないけど、炊飯器だって孝也の私物だし、勝手に使われるのは面白くない。米に至っては完全に減るものだ。消耗品だ。勝手に食うなと言いたい。ルームメイトの健吾だから、自分が炊いたものを分けたり、一緒に食べたりしていたのだ。  そういうのもきちんと話し合わなくちゃなと思ったら、溜め息が漏れた。  昨夜は、片山の手持ちのプリントをやったり雑談をしたりして割と早目に就寝した。早起きの片山に倣って一緒にジョギングもしたのに、その後シャワーを借りている間にまた食事が出来ていて驚くやら恐縮するやらと忙しく。日曜日の明日、十時に図書館で待ち合わせて一緒に勉強しようという約束をしてから、官舎に送ってきてもらったのだった。  残っているご飯は全部握って、土産に持って帰った梅干や昆布の佃煮を具にする。  麦茶を入れて二人分テーブルに置くと、先刻からちらちらと窺っていた健吾が顔を出すから手招きした。 「ちょっと、内林健吾くん、座んなさい」  いきなり改まってフルネームで呼ばれ、それでも殊勝な顔をして健吾は対面に腰掛けた。  コホン、とわざとらしく咳払いして、精一杯真面目な顔を作って孝也は口を開いた。 「時に健吾くん、この官舎は部外者出入り禁止ってご存知でしたかね」  きょとんと目を丸くして、「あ、そうなの」なんて呟いている。やはり知らなかったらしい。 「もう遅いかもしれないけど、もしも昨日誰かを泊めて朝帰りなんてさせたんだったら、それ舎監に見咎められてたら上司から懲戒食らうかもしれない。ついでに俺も連帯責任かもしれない。それ覚悟しといて」 「えー、マジで。そんな厳しいの」  あのですね、一応下っ端とはいえ俺たち国家公務員だから。生活の乱れは仕事の乱れ扱いされるのですよ。そんな風に説明したら、うう、と唸って項垂れた。 「それ昨日言ってくれてたら」 「言ってたら彼女そのまま帰してたのかよ。人の留守に連れ込みやがって、それならそれで帰ってくるまでに済ませとけよな。ここは二人部屋なんだから」  言ったらその場で絶対に彼女に恨まれていたと思う。俺が悪いんじゃない、規則が悪いんだ。知らないよ。そんな言葉通じるわけない。まあ、しかもこれって片山に聞いた内容だから、あの時には知らなかったわけだし。だからあの女好きの中田だって、官舎にはお持ち帰りしないだなんて、昨晩孝也も初めて知ったのだ。  でもそんなの教えてやらない。  ただ、ショックだったようだから、もうここには連れ込まないだろう。それなら一度くらい一緒に叱られてやってもいい。  それが健吾にしてやれる、孝也にしか出来ないことだろうから。  そんな風に落ち着いて考えられるのも、片山のお陰なんだろうなと、ふっと笑みが漏れた。  訝しげに見られて、誤魔化すようにお握りの皿を押しやった。 「どうぞ。彼女の手料理には劣るだろうけどな」  ぱくりとかぶりついた健吾の顔が綻ぶ。孝也も一つずつ食べたけれど、後は全部健吾の腹に納まってしまった。 「朝飯そんなに早かったのか」  呆れて眺めていると、指先についた米粒を舐め取りながら、健吾は目を細めた。 「いや、まだそんなに時間経ってねえよ。こっちんが美味いもん」  そ、と軽く応えながら、内心ではぐらりとしていた。  いや、これは具の漬物が美味いって意味なんだ。お握りなんて誰が作っても一緒なんだ。塩しか使わないんだから。懸命に自分に言い聞かせて、それ以上変な勘違いを起こさないようにと自分の部屋に引っ込んだ。  とはいえ、暑いから閉め切るわけにもいかなくて、早く健吾も自分の部屋に行けばいいのにと気が気ではない。なんでこっちを見てるんだろう。他に何かあったっけ。  ぐるぐる考えて、そうだ図書館に行こうと、昨日放りっぱなしだった手荷物を押入れに仕舞ってからリュックサックの中に勉強道具を詰め込んだ。  今日は約束はないけど図書館に行こう、そうしよう。冷房も効いているし、またうっかり彼女を連れ込まれても会わなくて済む。  我ながら良い思いつきだと嬉しくなり、水筒に麦茶を入れようとまたキッチンに戻る。  空になった皿とコップを洗っていると、後ろから腰に腕を回して抱き締められた。 「ちょっ、暑いんだけど」  まさか今したいんだろうか。有り得ない。  意識を失うまで何度でも求めるくせに、もしかしたら彼女には優しくしようとして満足できなくて、足らない分を自分で補おうとしているんだろうか、と悲しくなる。  したいとき以外にこんな風に甘えるような仕草なんてされたことがなくて、だから余計にドキドキしてしまう。  くん、と健吾が鼻を鳴らした。 「シャンプー、違う」  そりゃそうだろう。何しろ片さんのだし。そう冷静に指摘する自分と、慌てている自分とがいる。 「そりゃあね。まさか自分の家で寝られないなんて思ってもみなかったし」 「何処泊まったんだよ」 「それ、健吾に関係ない」  嫌味を言っても、ゴメンの一言もない。  謝って欲しいわけじゃないけど、ありがとうもごめんもなしで通そうだなんて、長年連れ添った夫婦じゃあるまいし信じられない。  どんどん黒く塗り潰されていく自分が嫌だった。こんな自分は醜い。これ以上負の感情を抱きたくなくて、尚更早く出て行きたくなる。  それなのに気分を害したと思うのに、健吾は腕を解かないで、首筋に鼻を埋めてきた。 「やだ、出掛けるんだから、離せよ……」  出しっ放しだった蛇口を閉めてから手を引き剥がそうとすると、何処に、と耳の中に声が落とされる。  ぞくぞくと腰の奥に響く疼きを無視して、懸命に腕から抜けた。もう既に涙が滲み始めた大きな黒い目で、キッと睨み付ける。 「何処だっていいだろ! 自分だっていつも無断で出掛けてるくせにっ。今度からちゃんと土日の昼間は留守にしてやるよ。こっそり連れ込んでバレたって、俺は出掛けていたから知りませんってちゃんと言い訳してやる! だからもう俺に触るなよ! 彼女とやってろ」  最初に突っ込まれて仕事に差し障りが出たとき以来だった。孝也は穏やかな性格で、怒鳴るなんて余程のことがないとしない。  意表を突かれて立ち尽くす健吾が立ち直る前に、もう水筒は諦めてリュックと鍵を掴んで孝也は飛び出した。

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