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もしも、きみが

 間に誰も居なかったわけではない。  それもあってか、泳ぐように人の間を縫って近寄ろうとした孝也には、数秒が永遠のように感じられた。  間に合え、間に合え、間に合え!  それだけ一心に念じて、驚く通行人たちの隙間から腕を伸ばして。  健吾と三村の間に入ろうとして。  届いたと、思った。  事実、健吾の脇に体を差し入れたのだ。  だが、孝也より三村の手前に体を投げ出したのは、賢だった。  通行人たちには、賢の背に三村が倒れこんだように見えたかもしれない。その前から見ていた人には、どうして人を掻き分けてまでその二人がそこに行ったのかが判らなかったかもしれない。  ただ、淡いグリーンのシャツの腰の辺りに突きたてられた果物ナイフに最初に気付いたのは、三村が身を隠していたショップの女性店員で。彼女の金切り声で、ようやくその場に居た殆どの者が、事態に気付いたのだった。  自分の背に凭れかかってくる温もりに、孝也は戦慄きながら、ゆっくりと顔を捩った。 「孝也……」  間に合ったとでも言いた気にふわりと微笑む賢に、あれどうしてと、孝也は息を呑んだ。  何処も痛くない。  しかし、賢のすぐ向こうに三村の怒りも顕わな顔があり、腕を必死に引こうとしている。  賢は、それをさせじと、腕を後ろに回して彼女の腕を渾身の力で押さえているのだった。  誰か、警察! と周りが騒いでいる。いや、救急車だ、それよりまずは警備は。  騒然としながらも、少し遠巻きにされて、それでようやく孝也も今の状態を把握した。 「放してよっ、この!」  後ろ手には通常のようには力が入らないのだろう。しかも刺されているのは本人だ。苦悶に顔を歪めながら、それでも三村の手だけは放そうとしない賢と、どうにかしてナイフを引き抜きたい三村の攻防が続いていて、孝也は三村に手を放させようと、その手首の関節の辺りをぐっと握り締めた。 「放せってば!」  三村だって必死だろうが、孝也だってもう周りが見えなくなるくらいに切羽詰まって、火事場のクソ力でぐうっと指先に力を込めた。  捻られたら大変だということも頭の隅で思っていたから、とにかく放させなくてはと、その一心だった。  ようやく三村が手を放したが、その顔は憤怒に染まり怨嗟の声が甲高く響いた。 「どうして邪魔するの! あんたたちなんなのよ! 健吾くん、わたしの健吾くん、ねえ、どうして逃げるの。わたしから離れて、どうしてあちゃなんかとここに居るの。  ねえ、あなたはわたしのものなのに!」  髪を振り乱して叫ぶ三村の目には、もとより健吾しか映っていなかった。  よろりと体重を掛けてくる賢の体を孝也は受け止め、背後に回されていた賢の腕が、力なく垂れた。  恐怖に竦んだままだった健吾の視線が賢の背に刺さったままのナイフに落ちて「どうして」と声もなく問うていた。  獲物のなくなった三村は、それでも健吾ににじり寄り、じりじりと逃げようとしている浅尾には目もくれずに、晴れ晴れとした笑顔で健吾を見上げた。 「ねえ、どうしたらわたしだけのものになってくれるの、健吾くん」  じり、と三村が前に出た分だけ健吾が下がり、その背に手摺りが当たる。  ふふ、と凄みのある笑みに押され、それでも逃れられない健吾の背が、手摺りから宙にむけてしなった。その胸元までにしか身長の足らない三村に気圧されているのだった。  それを視界の隅に捉え、ぐったりとした賢を胸に抱き締めたまま、孝也は振り向いた。  背後では、今にも手摺りの向こうに落ちそうなほどに健吾が仰け反っている。  周囲では、警備は警察はまだかとざわめいているが、誰もが少し距離を取っている。  不安げに視線を彷徨わせる孝也の顔を見詰めていた賢は、ゆっくりと瞼を下ろした。 「賢……ッ」  それまで、この腕をどうすればと力を入れたり僅かに抜いたりとしていた筋肉の反応は、そのまま賢には伝わっていた。  それでも、悔いはなかった。  もしも孝也が── 「賢、しっかりして、目を開けて」  孝也は、抱き締める腕に力を入れる方を選んだ。  ぼやけた視界に、ようやく到着した警備員たちが、健吾と三村を保護する姿が入ったのだった。

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