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夕凪ロマンティック 1

「喉渇かない?」  (さとし)の提案に、隣できょろきょろと店内を見回しながら歩いていた孝也は「渇いた!」と頷いた。  久し振りに街でデートをと、恋人の賢とやって来たショッピングモールは、以前訪れたものよりもっと近場でしかも規模が大きい。もう出来てから数年が経過しているが、県外暮らしで賢とは遠距離恋愛をしている孝也にとっては何もかもが目新しくて、気持ちも体もあっちにふらふらこっちにふらふらと忙しかった。  珈琲で有名なチェーン店が二つ入っていて、少し割高な方へと足を運ぶ。  梅雨が開けてこれから夏本番という時節、店内は空調が十分に効いているものの、やはり夏らしく生クリームのたっぷり載ったフラペチーノが飲みたい。孝也は甘いものが大好きだ。賢はそれほどではないものの、愛想よくいつも付き合っている。  二人とも有休を使って三連休にしており、平日だから少しは店内も空いている。それでも珈琲ショップには軽く列が出来ていて、おおさすが、と二人は唸った。  孝也はいつも山間の過疎地で年寄りの相手ばかりしているから、たまにこんな街中に出てくると何もかもが新鮮で楽しいらしく、少しくらいの行列もへっちゃらだ。  賢の方は、そんな孝也を眺めているだけで幸せだから言わずもがな。  並んでいる間にメニューを見て、これもあれもトッピングしようと瞳を煌かせている孝也を賢は頬を緩ませて見つめている。  今日はひとつ、目的があってここに来ているのだけれど、それはまだ孝也には告げていないのだった。  注文を済ませて奥へと進み、カウンターから呼ばれるのを待っていると、一つのメニューを二人で覗き込み選んでいるカップルが目に入る。女性はゆったりとしたワンピースを着ていて、もしかしてあれはマタニティーなのかなと思いながら、ぽやっとそれを眺めている孝也を、賢はそっと見下ろした。  出会った頃より、精悍で男らしく引き締まった顔の形。でもくりっと黒目がちな二重の目はあの頃のまま、少し細長くなった顔のパーツの中でも目立っている。  付き合い始めてからも、月にニ、三度週末を共にするだけだから、何年経っても新鮮な気がする。  カップルの男性の方が顔を上げ、一瞬だけ孝也と視線が交錯した。少しどきりとしたのが、その目を見詰めていた賢にも伝わり、すうっと視線を動かした。  栗色というほどでもないが、真っ黒ではない少し癖のある髪を長めにしている長身の男だった。優しそうな面差しの、俳優ですといわれても即納得するような美形である。  雰囲気が何処となく二人の知人に似ていて、それでかと賢は少しだけ胸が痛んだ。 「綺麗なままの思い出にしてもいい?」  あの日、孝也が落とした涙は、誰のためだったのか解っていても。  く、と唇を噛み視線を戻した賢の前で、孝也が目を瞠った。あ、という声に導かれてもう一度視線を遣ると、メニューを閉じてカウンターに向かった女性と目が合ってしまった。 「あ」  三人分の声が重なり、レジで注文していた男性だけが、少し丸めていた背を伸ばして二人を省みた。  その時、二人が注文していた飲み物の名前を告げる店員の声が響き、互いに視線を絡ませながらも、取り敢えず二人は飲み物を受け取ってから空いている席へと移動したのだった。  多分来るだろうなと思い、奥のソファー席に場所取りしていると、注文を終えた女性がゆったりと遣って来て腰を下ろした。お腹を下から支えるようにしていて、やはりこの服はマタニティーだったのかと二人は納得する。テーブルで隠れてはいるが、姿勢を変えるとやはり腹部が目立つ。 「久し振りだね」  ふんわりと微笑む女性は、二人にとっては元先輩に当たる。孝也が異動になり、暫くは手紙での遣り取りも続いていた、忘れられない存在であった。いつの間にか途切れた手紙、そして転職したという知らせ。その後は音信不通だった。  だが、いま。変わらぬ笑顔で二人の前に居る。しかも身重だった。  なにをと考える前に、二人揃って「おめでとう」と言っていた。 「ええと、水上さん、じゃないよね。なんて呼べば」  孝也が首を傾げると、「小野になったの」と嬉しそうにしている。  そっか、小野さんか。なんだか変な感じ。何度も小さく口の中で呟いて確認する孝也の横で、「最近見掛けないなと思ってたんだけど」と賢が口を開いた。  ずっと市内に居る賢は、たまにこのモールを利用する。転職先はこのモール内だから、何回かは姿を見掛ける事もあったのだ。 「うん、体力仕事だから、妊婦は働けないの。今無職」  さらりと言って、昔と変わらない黒くて艶やかな短い髪の襟足を撫でている。 「旦那さん、凄くかっこいいね」  孝也がおずおずと言うと、そうなの、と頬を染めて笑った。 「私なんかには勿体無いよ~。王子様みたいなの」  手をパタパタと振りながら臆面もなくそんなことを言うから、二人の方が照れてしまって、誤魔化すように揃ってストローに口を付けた。  空気が動き、「何を仰いますやら」と両手に飲み物を持った男性がやって来て、テーブルに置きながら静かにソファに腰を下ろした。 「今も昔も、俺は雪子姫の下僕ですよ」  白い手を取り指先に口付ける仕草があまりにも自然すぎて、二人は吹き出すことも出来ずにぽかんと見詰めてしまった。 「はじめまして。以前の同僚さんかな? 小野慎哉です」  やだ慎哉くんったら、と言いながらも恥ずかしそうに微笑むだけの雪子の隣で、慎哉は二人に会釈した。 「あ、昔お世話になっていました。片山賢です」 「同じく吉木孝也です」  ぺこりと続けて頭を下げる二人を「一つ下なの」と雪子が説明している。  ああじゃあ俺の方が下なんだ、と会話している慎哉に、なんだか劣等感を煽られる二人。  雪子は昔から清楚な美人で引く手数多だったが、慎哉と揃っていると一幅の絵画のように美しく、ここに居るのが甚だしく場違いな気がしてならない。  なるべく早く席を立とうと焦るあまりに下の凍った部分で喉が冷えてしまって、孝也は咳き込んだ。 「大丈夫か。ゆっくり飲めばいいのに」  そう背を撫でられて、噎せながら涙目で見上げる孝也に、場所も弁えずに賢は体の奥が疼いてしまって自分を戒めた。  ああ、ここが自分の部屋だったらなと思う。けれど今日の目的を果たさずには帰宅できない。三連休の間にいちゃつく時間はたっぷりとあるんだから、落ち着け、俺。  そんな心の葛藤など知る由もなく、孝也は手の平を当てて喉を温めると、底の方は後回しにして上に載っている生クリームを掬って食べ始めた。  はい、とスプーンを差し出されて、反射的にそれをぱくりと口に含み、あ、しまった、と賢の動きが止まる。  テーブルの反対側でいちゃつきながらソイラテとアイス珈琲を飲んでいた二人の視線がなんだか生温い。 「相変わらず仲いいんだね」  なんて雪子は微笑ましげにしてくれているが、その隣の慎哉はお腹いっぱいの顔をしている。  ドン引きしていないのは助かるけれど、なんでそんな反応なんだろうと、賢は不思議そうな表情になる。  孝也は気付いていないのか一口ごとに賢にも食べさせようとするから、手の平でやんわりと断った。  今度家でやってもらおう。寧ろスプーンじゃなくて肌に載せちゃえばいい。  一瞬過ぎったエロい妄想だけは孝也に勘付かれたらしく、「何か今変なこと考えただろ」と唇を尖らせた。  可愛い。いや、いかんいかん。デレている場合じゃない。  視線で慎哉に問い掛けると、あーと唸りながらくしゃくしゃと後ろ髪を掻き、腕時計をちらりと見た。 「なんていうか、耐性あるから大丈夫。そろそろ時間だから、ここから外見てたら解るかも」  はい? と首を傾げながら、賢も自分のアイス珈琲を飲みながら、全面ガラス張りになっている壁から外の植え込みとロータリーを眺めていると、すぐ近くで窓掃除用の道具を持った作業着の青年がインターロッキングを移動しながら作業しているのに気付いた。  言っては悪いけれど、なんだか幸の薄そうな線の薄い人だった。スポンジの付いたワイパーのようなもので窓を水拭きして、その後をスポンジなしのやつで水切りしている。  その人がちらりと腕時計を見て、周囲を見回した。  次の瞬間、朝顔の花が早朝に咲くように、ゆるりと顔が綻び、すうっと細まった目線の先を見ると、白と青の警備の制服を着た青年が大股にやってくるところだった。  黒い髪を短く整え、制帽姿がしっくりと馴染んでいる。そのまま足早に作業着の青年の傍にやってくると、そっと屈んで頬に唇を落とした。  は? と声にならない声をあげて呆然としていると、視線に気付いたのか作業着の方の青年が真っ赤になり、それから警備員も中を見たものの、雪子と慎哉がひらひらと手を振っているのを見てにやりと口角を上げてからまた青年に話し掛けている。  えーと、と体の向きを戻してまた珈琲を飲む。孝也も二人のあれこれには気付いたらしくて、いいの? とばかりに目で賢に問うている。  いいのか、それで。それは賢が問いたい。  二人ともここが職場なんじゃないだろうかと思うのだが。  ちらりと横目で窺っていても、二人の周りにだけピンク色の結界が出来ているようで居た堪れない。一応人目につかない位置ではあるが、例えばこちらからは丸見えなように、隠せるものではない。 「な、俺も警備やってるんで。そんな日常にはなれっこなんで」  今日は非番、と付け足して、慎哉は苦笑していた。  このショピングモールは、大層寛容な場所であるらしいということが判ったな、と、賢は一人納得するしかなかった。

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