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庭師テツの番外編 鎮守の森 35

「兄貴っ」 「海里か」 「どうしたんです? こんな朝早くに、こんな場所から出て来るなんて」 「……よく分からない。最近少し調子が変なんだ。いよいよ夢遊病かもな」  いつもは威厳のある兄なのに、今は顔色も悪く明らかに意気消沈していた。  しかも兄貴からは飢えた獣のような澱んだ匂いを、微かに感じた。   「何か足りないのですか」 「え……」 「いや、何かに飢えているように見えたので」  率直な感想を述べると、兄は乾いた笑みを浮かべた。 「海里、お前はいいよな。自由になれて、この屋敷から飛び立てて」  意味深な事を言われたので、問い詰めてしまった。 「教えて下さいよ! 兄貴は一体何を背負ってるのですが。それはこの家に纏わる逃れられない歴史ですか。森宮の血を存続させるために、一体何をするつもりですか」 「ふっ……お前には到底分からない世界だ……もう聞くな」 「ですが!」 「もう……遅い」    去って行く背中が寂しかった。  生まれながらに背負った過酷な運命は、順風満帆に見えた兄貴にもあったのか。  人というものは、本当に計り知れなく、難しい。 ****  鉄道の秋田駅からバスを乗り継ぎ1時間以上。  俺が故郷を出たのは15歳の春……もう20年も前のことだ。  貧しい農村で、弟や妹を育てるためにも中学卒業と同時に東京に働きに出る事が決まっていた。いや、待てよ。決めたのは誰だったのか。自分でそう決めたのか、それとも行けと言われたのか……今となってはもう朧げな記憶だ。  海里さんには話せなかったが、仕送りや電話は許されていたが、故郷へ帰る事だけは、許されていなかった。  それは何故だろう?  俺は何か大切な事を忘れているのではと、急に胸騒ぎがしてきた。  とにかくこの住所を訪ねてみれば、きっと何かが分かるだろう。  雇用契約書の住所を確かめながら、足を速めた。  桂人の両親は健在なのか、兄弟はいるのか。  桂人に関することなら何でもいいから知りたかった。  桂人を救いたい、愛したい、大切にしたいから! 「おかしいな。この辺りのはずだが」  見渡す限りの田んぼ……懐かしい景色だ。 「あそこは何だったか」  田んぼの真ん中にこんもりと木が茂っている場所があった。  木々は荒れ放題ではなく端正な姿を保っており、誰かに毎日丁寧に手入れされてきたのが伝わってきた。  もしかして……これは桂人、君が…… 「まさか、ここなのか、君の家はどこだ? 君の家族は一体どこにいる?」  木々を抜けると鳥居があり、境内にはお稲荷さんや石碑が並び、木造の社が建っていた。 「……まさか、本当にここなのか」  震える手で書類の住所を確かめると、確かにここだった。  何故だ? だって、ここは神社だ。  桂人の家族が住むような場所ではない。  目を凝らすと、一番奥に小さな社が見えた。  人ひとりが入れる程の小さな社。  木板に書かれた筆文字に、血の気が引いた。  『森宮神社』  森宮って……あの森宮だろう。  そう直感した。  同時に遠い昔、封じ込めた記憶が突然舞い戻ってきた。 『テツはこの神社に奉納される。生憎どこをどうみても体格のいい男だから龍神さまの生贄にはなれそうもないな……仕方がない。この人と一緒に行け。二度と故郷に戻るな! 生涯……しっかり奉公せよ!』 『さぁ行こう。今日からお前はわしの弟子だ』  俺の前を歩いていたのは、庭師の師匠だった。  今になって漸く思いだした。  俺は……まるで生贄のように、森宮の家に連れて来られたのだ。  その時、背後の茂みがガサガサッと揺れた。 「誰だ?」  

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