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庭師テツの番外編 鎮守の森 55
テツさんも疲労困憊だったようで、すぐに規則正しい寝息が聞こえて来た。
彼の心臓の鼓動と寝息を子守唄に、おれも早く眠ってしまおう。
中秋の名月が夜空に見えてくる前に、躰を休めておきたい。
月がこの地上から夜空に見えている間が、儀式の時間だ。
おれは当初の予定では、今頃……身を清めて、白い装束で森宮の社に籠り、雄一郎がやってくるのを待っているはずだった。そして夜が更けるまで、あいつ身を委ねて、何重もの契りを結び、生贄としての生涯を全うするはずだった。
儀式が終えたら、自決するつもりあった。
あいつも道連れに……
だがそれを、全部反故にしてしまった。
テツさんと生きる道を選んだのは、おれ自身だ。
おれの意志だ……全部!
だから行かない、逝かない。
その気持ちを貫きたい。
さぁ早く寝ないと、悪い白昼夢を見てしまいそうだ。
もう寝落ちると思った瞬間、空気がいきなり澱んだ。
「あっ……」
『桂人、お前は一体そこで何をしているの? そんな場所でそんな男に抱かれているなんて……あなたに託した私の使命を忘れたの? あなたはもう死んでいるのも同然なのよ。誰が死の淵から救ってあげたと? そんな温もりを知ってしまうんなんて許さないわ。幸せになるのは許さない。 私の目的を阻害した、この男を許さない! 」
美しかった女性は、今は鬼の形相だ。
「や、やめろ! テツさんには手を出すな!」
「じゃあ、行きなさい。穢れた身体でもいいから、とにかく行くのよ! さぁ早く! さもないとこの男の命を奪う! 」
「駄目……駄目だ! やめてくれ、それだけは!」
テツさんの命……それはおれが何よりも大切に想う人の命で、絶対に守るもの。
そうだ……おれは15歳の夜に死んだはずだった。
あの日……男だとばれて怒りを買い、土地の地主に両足の腱を切られ、社に放置されたまま、出血多量で死んでいくはずだった。
傷ついた身体から離脱して、赤い曼珠沙華の咲き乱れる三途の川の手前で出会ったのは、美しい女性だった。そこで彼女の今生での恨みを晴らすことを託されてしまったのだ。
彼女が1本の深紅の曼珠沙華を差し出したので受け取ると、流れ落ちたはずの血が躰に戻り、おれの心臓はまた規則正しく動き出した。虫の息だったのに、気を取り戻した。
あの時、生き返ったのか。
それとも今まで生かされていたのか……
結局、社に生贄となりに行くしかないのか。
でもこれは……俺自身の意志だ。
「うう……っ」
「桂人、どうした? うなされて……」
「テツさん……おれ、喉が渇いた。また紅茶を飲みたい」
「ん? もう渋くなってしまったぞ。新しいの物を取って来ようか」
「いや、このままでいい。そうだ、今度はおれが淹れてやるよ」
後ろを向いて、紅茶に忍ばせたのは白い粉。
ごめん……テツさん……許して欲しい。
あなたの命を奪われたくないんだ。
あなたがこの世にいないのでは、生きている意味がない。
「……やっぱり苦いみたいだけど、飲んでくれるか」
「ありがとう。桂人の淹れてくれた紅茶なら何でも嬉しいよ」
視界が滲んできた。
悟られないようにおれは必死に微笑み返した。
もう……今生で見納めだ。
「今度は柊一さんにちゃんと淹れ方を習うから……許してくれよ」
「あぁ期待しているよ」
許してくれ……
そんな日は二度と来ない。
テツさんがゴクリと紅茶を飲んだ。
「苦いな」
「ふっ、やっぱり? テツさん……ごめん」
「お前、どうしてそんな悲し気な顔を……んっ……急に眠気が……」
ここでお別れだ。テツさん……
あなたは生きて──
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