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峠の先 7

 目指すものがある時……時間というものは、とても早く過ぎてしまうようだ。クリスマスから大晦日、そして小正月も過ぎ……いよいよ明日が雪也くんの手術日となっていた。  「海里先生、お茶でもどうぞ」 「あぁ、ありがとう」 「少しピリピリしていますね」 「君には分かってしまうな」 「それはもう海里先生には長年お仕えしていますからね」  この病院の婦長とは長い付き合いになる。最初に俺が研修医として赴任した時からだ。 「あの小さかった雪也くんが中学3年生とは早いですね。いよいよ明日、手術に臨むなんて感慨深いですね」 「あぁそうだな」 「3歳で病気が発覚し、ずっと病弱で可哀想でしたね。でも……この世にこんなにお幸せなお子さんがいるかしらと思うほど、恵まれた環境で」 「それは昔のことだよ」 「あ……失礼しました。ところで、そろそろお帰りになった方がいいのでは? 明日は朝から手術ですよ」 「そうだな。じゃあ帰るよ」    婦長に背中を押され職場を離れたが、雪也くんの顔を見たくなり個室に向かった。  面会時間も終わり、一人で寂しがっているだろう。 「雪也くん、入っていいか」 「海里先生……!」 不安そうな声が個室に響き、胸が切なくなった。 「今の俺は主治医ではなく、君の家族の海里だ」 「あ……はい」  そう告げると、雪也くんは嬉しそうに微笑んだ。 「なんだか緊張して眠れそうになくて……」 「まだ消灯まで時間があるし、病院内を散歩でもしてみるか」 「え? いいのですか」 「特別に魔法の国に行ってみるか」 「まほうのくに?」  柊一によく似た顔に、途端に生気が宿る。ふっ、おとぎ話が好きなのは柊一譲りだな。 「さぁ、おいで」  病院の長い廊下に、俺と雪也くんの影が伸びる。まだ少年の雪也くんの影は細くひょろりとしていて心許ない。だが手術を終えたら、ぐんぐん成長するだろう。今まで封じていたものがきっとあふれ出す。だからこそ成功させる! 「あの、この廊下……懐かしいですね」 「ここだよ」 「え、ここって……」 「覚えているかい?」 「はい……もう手放してしまったお部屋ですが、ここはかつて僕の使っていた部屋でした」  その通り、ここは雪也くんが使っていたあの特別室だ。 「開けてごらん」  扉を開けると、当時のままの内装が綺麗に蘇っていた。 「え……どうして?」    中学の制服が出来たと嬉しそうに話してくれた雪也くんの笑顔。傍らには優しそうな母親、そして執事服をビシッと着こなした瑠衣の姿も見える。  まさに幸せを絵に描いたような光景が、ぶわっと浮かび上がった。 「だから魔法だと言っただろう」 「一瞬、お母様のお姿が見えました」    雪也くんが部屋を見渡して、うっとりした声を出した。   「不思議です……ここは……僕の手を離れて全く別の部屋になったはずなのに、あの当時のまま再現されているなんて! 当時の面影なんてないと思っていたのに、信じられない」     実は俺が秘密裏で手配したのだが、君には伏せておこう。 「足長おじさんが、再現したそうだよ」 「そうなんですか。あぁ、まだ夢見心地です。この淡い水色のソファにお母様と腰掛けて診察を受けましたよね……部屋はふかふかのベージュの絨毯で……本棚には本もぎっしり、もう、何もかも昔のままです!」    昨年秋に父親が亡くなり、次男の俺にも相続が発生した。森宮の屋敷を兄に全て渡すのと引き換えで、まとまった現金を得た。  認知されていなかった非嫡子の瑠衣には一銭もいかないのが納得出来なかったが、森宮の禍々しい血の歴史を汲んだ金を得ても、生贄の血を引く瑠衣には何も良いことはないだろう。それに今の瑠衣はアーサーによって何不自由ない生活をしている。万が一英国で困ったことがあれば、兄である俺を頼れと言ってある。父が認知しなくても、瑠衣は永遠に俺の実の弟だ。  ただそうは言っても、俺も生贄の犠牲の上に存続してきた森宮家の金を自分のために使う気にはなれず、何か役立てたいと考えたのさ。  そんなある日、かつて雪也くんが使っていた特別室の内装が老朽化し倉庫にするという話を耳にし、思いついたのさ。俺が密かに足長おじさんとなることを。  部屋を雪也くんが使っていた当時のように修復し、小児病棟の子供達のための図書館にしてくれと手紙を添えて多額の寄付をした。今の病院長は慈悲深く私服を肥やすような人でないと知っていたから、その願いを見事に汲んでもらえたというわけさ。 「雪也くん、今は……亡くなられたお母さんを偲んでいい。幸せな思い出に……わざわざ蓋をすることはない」 「いいんですね。お母様を想っても……」  雪也くんがソファのクッションを抱きしめて、思慕した。 「優しくて、あたたかくて、お母様はよく入院を不安がる僕を抱きしめてくれました。今は……天国から抱きしめてもらいます」 「そうだ。ちゃんと見守ってくれているよ。君の手術の成功を祈っている」 「あの……もしかして……ここは図書館になるのですか」 「よく分かったね。病気の子供のための図書館に生まれ変わったのだよ」  本棚が増えたことに、雪也くんは気がついたようだ。 「この部屋が、誰かの夢と希望に繋がるのなら、幸いです。僕の読み終わった本も持って来たいな」 「あぁ、退院したらぜひ沢山寄贈して欲しいよ」 「はい! なんだか忙しくなってきましたね。僕……手術を頑張らないと!」 「よし、その意気だよ」  雪也くんを少しでも元気づけられたのなら、良かった。  どうか頑張って欲しい。  君の生きようと思う強い気持ちが、俺には必要なのだ。 「海里先生、僕……生きます……生きたいから、生きます!」    

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