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峠の先 8
海里先生は、すごい!
僕に夢と希望を与えて下さった。手術が終わって動けるようになったら、またあの特別室に行って良いと約束も。自宅にある読み終わった書物を寄贈していいと……あぁ忙しくなりそうだ。
先程まで、僕はひとり病室で怯えていた。
今はあの不安は嘘のように消えて、僕の周りにいて下さる大切な人達の顔がはっきり見えて来た。
「雪也くんが寝付くまで、傍にいるよ」
「せんせ……クリスマスパーティーたのしかったですね」
優しくて頼り甲斐のある海里先生が大好きだ。どん底に沈みゆく兄さまと僕に手を差し伸べて下さった命の恩人だ。
「あぁ、テツと桂人も加わって賑やかだったな」
「はい、厳かで、とてもあたたかなムードでしたね」
「皆が皆のために選んだプレゼント交換も良かったよ」
「そうだ、あの万年筆で手紙を書いたのです。兄さまに持って行って下さい」
「わかった」
目を閉じると……あの日の光景が隅々まで蘇ってくる。
あの日……馬鹿みたいに泣きわめいてしまった。ずっと迷惑をかけてはいけないと、不平不満は言わないようにしていたけれども……爆発してしまった。しかし誰も嫌な顔をせず、受け止めてくれたのが嬉しかった。
あぁ……本当にみんな大好きだ!
絶対に元気になって、皆の元へ戻りたい。
「雪也くんのピアノの音色が心に染み入ったよ。あの日弾いた曲は賛美歌で『あぁベツレヘムへ』だったな」
「はい……」
「雪也くんの歌声は天使のようだった。地上に舞い降りた天使だよ」
「あの……せんせ、おかあさまはいつも僕が眠れない時、子守歌を……うたってくれました」
今日の僕は甘えん坊だ。
手術が成功したら一気に大人になるから、せめて今日だけは……。
「ふっ……全部は覚えていないが、俺の母はクリスチャンだったから、毎年クリスマスには礼拝に行ったよ」
わ……! 歌っていただけるの?
海里先生の歌声って、初めて聞く。
……
ああベツレヘムよ、小さな町。
静かな夜空に またたく星。
恐れに満ちた 闇のなかに
希望の光は 今日かがやく。
マリアを母とし 生まれたみ子
星々かがやけ、語り告げよ。
みつかい歌え この喜び、
「神にはみ栄え、地に平和」と。
人はみな眠り 気づかぬまに
めぐみの賜物 天よりくる。
心低くし 主を迎えよ、
罪ある世界の 救い主を。
ああベツレヘムの きよいみ子よ
今こそわれらは 心ひらく。
すべての罪を とりのぞく主、
共に宿る神、インマヌエルよ。
……
※ 出典『ああベツレヘムよ』O Little Town of Bethlehem
讃美歌21 267 より引用
す、すごい……海里先生、素敵だ。
深く低く響く声が心地良い。
ゆったりとした眠りの波がやってくる。
優しく僕を手術の朝まで、預かって。
「おやすみ、雪也くん」
****
久しぶりに賛美歌を歌った。
気恥ずかしかったが、雪也くんには良い眠り薬になったようだな。
安定した寝息を立てていた。
さてと遅くなってしまったが、家で柊一が心配しているだろう、早く帰ろう。
コートを着て駐車場に向かって歩くと、車体の前で人影がゆらりと動いた。
まさか……
灰色のコートにマフラ-をした柊一が、鼻の頭を赤くして白い息を吐いていた。
「柊一? そんなところで何をしているんだ。もうとっくに帰ったのでは」
「すみません。面会時間を終えたのですが雪也の傍にいたくて……だから、せめて海里先生がお帰りになるまではと留まってしまいました」
馬鹿なことを……そんなことをしたら君が風邪を引いてしまうのに。
叱ろうと思ったが、俺にはこの健気な兄を叱ることが出来なかった。
その代わりに、温めてやろうと思った。
ここではなく、家で……今宵は君の冷え切った身体を抱きしめて、眠りにつこう。
柊一も怖い夢を見ないように、兄としていつも頑張る柊一を、幼子のように抱いて……明日を迎える。
それは俺自身も癒やすこと。
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