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峠の先 9

「さぁ乗って」 「……クシュン」  車の中で柊一は小さなくしゃみをし、そのまま気まずそうに窓の外を見つめた。最初に君を車に乗せた日も、そんな暗い表情を浮かべていたな。  俺は我慢出来ず、一度エンジンを停めてライトを消した。もう遅い時間で、職員用の病院の駐車場に人はいない。  だから君の顎を掴んで唇を重ね、俺の熱を直に伝えてやった。   「ん……っ、あ……あの、駄目です。こんな場所で」 「こんに冷えて……今のは取りあえずの応急処置だ」 「か、海里さん」  柊一は鼻の頭だけでなく、頬も目元も赤く染めていた。  こういう初心(うぶ)な所は、最初と同じだ。柊一は世間ずれしていない、汚れのない心、つまり初心(ういごころ)を持つ男だ。   「参ったな。そんな顔をしては駄目だ」 「ごめんなさい。雪也には言わないで下さい」 「ふっ、可愛くて優しいお兄さんだな、君は相変わらず。雪也くんはもうぐっすり眠ったよ。だから安心して」  教えてあげると、柊一は胸を撫で下ろした。 「良かった。ありがとうございます」 「だから次は君を寝かしつけよう」  ****  その晩は、桂人がハッシュドビーフを用意してくれていたので、温め直して食べた。  色がどす黒かったので心配したが…… 「あ、美味しい……!」 「よかった! 旨いな。どうやら桂人は腕をあげたようだ」 「くすっ、きっとこれも瑠衣直伝ですね」 「良かった。やっと笑ったな」 「あ……桂人さんのいれたあの紅茶を思い出してしまって。こんなの失礼ですよね」 「いや、いい。あの日の君は最高に可愛かったよ」 「それを言うのなら……あの日のテツさんは大変でしたね」  和やかな雰囲気で夕食を済まし、先に柊一を風呂に入らせた。 その間に寝床を整えてやり、風呂上がりの柊一をベッドに誘った。   「あ、あの」 「おいで、流石に今日は何もしないよ。俺も手術を控えているしね。さぁ風呂に入ってくるから、寝床を温めておいてくれないか。それからこれは先ほど雪也くんから預かった手紙だよ」 「雪也から? 緊張しますね」  何が書いてあるのか分からないが、俺は雪也くんを信じている。  君は柊一を悲しませない。  柊一をベッドに潜らせて、俺は一旦風呂に入るためにその場を離れた。  急いで戻ってくると、柊一は手紙を胸に抱きしめ天を仰いでいた。 「柊一、どうした?」 「海里さん、この手紙は僕へのラブレターでした」  参ったな、またまた可愛い言葉を。 「一緒に読んでいただけますか」 「いいの?」 「はい! 海里さんにも伝えたいです」  ……  兄さまへ  改めてお手紙を書くのは、緊張しますね。兄さま、きっと今宵は眠れない程、緊張しているのでは? いつも僕のことを第一に考えて下さる兄さまだから……心配です。  あのクリスマスの日は大泣きして、兄さまにもひどい言葉をぶつけてごめんなさい。僕はこれからはもっと自分に素直になりたいと思います。   ……  1枚目を読んで、ドキリとした。  この先は何が書いてあるのだろう。  雪也くんの素直な気持ちとは?  ……  兄さま、大好きです!  物心ついた時、いやその前から、僕は兄さまが大好きです。  もちろん、今もこの先もずっとですよ。    大好きな兄さまを深く愛して下さる海里先生も大好きです。  ふたりとも大好きだから、僕の今の気持ちを伝えたくなりました。    いつか僕にもチャンスを下さい。  僕にもおふたりを守らせて下さい。  その日のために、手術がんばります。   「兄さま、兄さま……」    手術が終わったら、真っ先に呼びます。  兄さまも呼んで下さいね。僕の名を――  ****  いい手紙で、もらい泣きしてしまいそうだ。  柊一に甘えて、甘えて……それでいて、いつか守らせて下さいか。 「柊一、雪也くんはかっこいいな。将来モテそうだ」 「はい、我が弟ながら、きっとそうなるかと」 「俺たちは見守ろう……彼の健やかな成長を。俺も明日の手術、全力で臨むよ」  柊一が俺の手を優しく握りしめた。 「海里さん……あの……あなたの手に魔法をかけても宜しいですか」 「ふっ……いいよ。頼む」  おとぎ話が好きな柊一らしい言葉に、俺の心も和んでいく。 「どうかこの手が余すことなくお力を発揮して、雪也の手術が成功しますように」  厳かに落とされる願いのキスは、流れ星のように真っ直ぐに煌めきながらやってきた。 「大丈夫だ。頑張ってくるよ。さぁもう寝よう」 「あの……今日は手を繋いでくださいますか」 「もちろんだ、俺からそう願おうと思っていた」    この手で明日、雪也くんの胸を開く。  彼の命を、委ねられる。  だから万全を期して、臨みたい。 「柊一の存在が、俺に力を与えてくれるよ」   俺に力を―― 「僕の存在がお役に立てるのなら……」  ふたりは手を繋いで、眠りに落ちた。  大切な明日を迎えるために。

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