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峠の先 10

「雪也、入るよ」 「……んっ」  大好きな兄さまの声が、カーテン越し聞こえた。今朝は6時半に体温と血圧を測るために起こされたが、その後やることがなく、またウトウトと微睡んでいたようだ。 「もしかして寝ていた?」 「はい、少しウトウトと」 「昨日眠れなかったの?」 「いえ、昨夜は海里先生が子守唄を歌って下さったので、ぐっすりと眠れましたよ」  そう答えると、兄さまは意外そうな顔を浮かべた。   「海里さんが歌を?」 「とてもいいお声でしたよ。兄さまにも是非お聞かせしたいです。そうだ、僕が退院したらピアノの伴奏をしますので、是非歌っていただきましょうよ。テツさんと桂人さんも呼んで、お茶会をしましょう」 「退院したら? うん、いいね、ぜひ聞かせて欲しいな。楽しみだよ」 「はい! 約束します。兄さま指切りしましょう」  僕たちは幼い頃のように指切りをした。この約束は必ず守りたいから。 「しっかり約束しましたよ。手術が終わったらやりたいことが沢山出来て大忙しです」 「そうなの? 雪也がやりたいことが見つかって良かった」  兄さまのお優しい顔を見つめていると、穏やかな心地になる。 「雪也……あのね、昨日は手紙をありがとう。とても嬉しかったよ。手術が終わったら必ず名前を呼ぶよ」 「それも約束です」 「ゆきっ……」  兄さまが僕を宝物のように抱きしめてくれる。僕は両親が亡くなって確かに寂しかったが、兄さまがいつもこんな風に抱きしめてくれて守ってくれたので、心強かった。絶対に兄さまを悲しませない。 「もうすぐ時間だね」 「お父様の分もお母様の分も僕を愛してくれる兄さまの元に。必ず戻ってきます」  実はアーサーさんが来日した時、二人で病気や手術について話し合う時間を持てたんだ。 『アーサーさん、僕は来年大きな手術を受ける予定です。アーサーさんも2年前に大変な手術をしたと聞きました。その……怖くはなかったのですか」  手術を受けたことがある人に聞きたかったことを、思い切って訊ねてみた。するとアーサーさんは、当時を思いだしたようで、ふっと微笑んでは切ない表情を浮かべた。   『雪也くん、よく聞いてくれたね。手術は大人でも怖いものだよ。だから怖いと思う気持ちを無理に隠さなくていい。不安も悲しみも痛みも、全て手術を受ける本人しか感じられないものだ。だから不安で落ち込んだり、悲しくて泣いたり、痛くて暴れてもいいのだよ。それが雪也くんが生きたいと思い、今を生きている証拠だから。どうも君はいい子過ぎるな。感情を爆発させるのが、もしかして怖い?」  図星だ。両親がいた幼い頃は、痛い怖い不安だという気持ちを母にぶつけていたかもしれないが、今は兄さまに必要以上の負担をかけたくなくて、セーブしていた部分がある。 「まぁ、君もきっと手術前に一度吐き出すだろうな。皆、君の思いを受け止めてくれるよ。君を嫌いになんてならないから安心しろ。ただ怖さに押しつぶされるな。退院後何をしたいか考えれば頑張れるよ。君はまだまだこれからだ。俺と瑠衣が出会ったのは17歳の時だった。君もその頃、生涯の恋をするかもしれないぞ。楽しみだな」  恋する相手にはまだ出会えていないが、出会いたい。桂人さんが予知してくれたように、僕の未来は必ず存在するのだから。 「雪也くん、入るよ。さぁ……手術の時間だよ」 「海里先生!」  海里先生自ら、病室まで迎えに来て下さった。 「兄さま、行ってきます。頑張ってきますね」 「ゆき! 応援しているよ」 「雪也くん、俺に委ねてくれ。全力を尽くすから」  きっぱりと言い切る海里先生の横顔は、どこまでも凜々しかった。  僕の大好きな兄さまを深く強く愛して下さる人が、僕の身体にメスを入れ、僕を大人に成長できる身体にしてくれる。  こんなにも、ありがたいことはない。  信じて、信じて……信じています。 「海里先生、どうぞよろしくお願いします」  

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