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峠の先 11

 雪也くんをナースに委ねた後、俺は手術衣に着替えるために更衣室へ向かう。  その前に、柊一にメモを渡した。 「手術終了まで時間がかかりそうだ。柊一は、ここで待っていてくれ」 「ここは?」 「君が好きなおとぎの国だ。きっと天使がやってきているよ」 「先生……ありがとうございます」    柊一は、黒いロングコートを片手に深々と会釈した。  こんな時にもスーツを着てくる君が、君らしくも心配だ。  あまり思い詰めるな。 「最善を尽くす」 「どうか、どうかお願いします」  泣きそうな顔。  今すぐににでも、抱きしめたくなる―― 「森宮先生、お早く!」 「あぁ、すまない」  手術室は清潔区域なので、入室の際には下着以外の着衣を脱ぎ清潔な青い手術衣を着用することが求められる。それから帽子とマスクも着用する。俺は長髪なので毎回鏡の前で頭髪が全て覆われていることを念入りに確認している。  淡い色の髪は封印しマスクで鼻と口をキッチリ装着すると、執刀医としての意識がぐっと高まった。手にグローブをはめ、いざ手術室へ。  手術台の上に寝かされた雪也くんの横に立つと、俺にすぐに気付かず……怯えたような瞳で天上を見つめているのが切なかった。  感傷的になりすぎるな。俺は主治医だ。現状に堂々と向き合わねば……。   「冬郷雪也さんですね。本日執刀させていただきます外科医の森宮海里です。よろしくお願いします」 「はい、先生……僕、頑張ります」 「あぁ、一緒に頑張ろう」  目を細めて見つめると、雪也くんも微笑んでくれた。  よしっ、雪也くん、生きてくれよ! 俺もベストを尽くすから。  続いて麻酔科医とナースによる最終確認がおこなわれ、麻酔の準備に入る。   「森宮先生、大丈夫ですか。まさかコンディションが悪いのでは?」 「いや、大丈夫だ。すまない」  しっかりしろ! 雪也くんは俺を信じてくれている。留学経験も豊富で、手術の執刀経験も豊富な俺なのに、まるで初めて手術に向き合うかのように緊張していた。  メスを持つ手が震えたのには、驚いた。  駄目だ……思い出せ!  昨夜、柊一にかけてもらった魔法を。  この手にどうか力を――  麻酔科医から『それでは今から眠たくなります』という声が雪也くんにかけられ、点滴から静脈麻酔薬が投与された。 「……」    雪也くんの澄んだ瞳が瞼に覆われ、深い眠りに落ちていく。   「よし、麻酔は効いたか」 「はい」 「では始めよう!」  **** 「この部屋なの?」 海里さんに渡されたメモを頼りに辿り着いた扉には『てんしとしょかん』と書かれていた。 「図書館? でも、ここは確か……」  扉を開けて驚いた。  まるで光の洪水だ。  窓から燦々と冬の日差しが射し込んだ、サンルームのような部屋には、小さな子供が沢山いるように見えた。皆、パジャマ姿で思い思いにくつろいでいる。  だが、もう一度瞬きすると、誰もいなかった。  幻?  改めて見て納得した。ここはかつて雪也の特別室だった場所だ。  両親が亡くなって初めて病院に付き添った時、あまりに豪華な作りに驚いて……結局使用料が払えず、手放してしまったのに……不思議なことに当時にままの内装だった。 「あ、雪也……!」  ソファに座る母親と男の子が、次に浮かび上がってくる。 「お……お母さま!」  雪也に本を読み聞かせている婦人は……僕のお母さまだ。お優しい横顔、忘れるはずがない! 『柊一ね。あれから、ずっと……ありがとう。雪也を守ってくれて……大丈夫、今日は応援にきただけよ。連れて行かないわ。あの子は長生きするのよ』  あぁ、駄目……駄目だ。涙が溢れてしまう。  夢、幻、なんでもいい!  僕が見たかった光景、僕がかけて欲しかった言葉だから! 「お母さま、ありがとうございます」 「柊一も、ちゃんと幸せになるのよ」  ふっと姿が消えてしまったが、そこには暖かい日だまりが残っていた。  ここで待とう。  手術が終わるまで祈っていよう。  神のご加護がありますように――  小さな雪也の手術が成功しますように。

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