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第5話
「うわっ……!」
「邪竜」がいきなり崖の上からひらりと舞い上がったから、驚いて叫んだ。
片翼ではあるが、いくらか飛ぶことができるらしい。翼を揺らすだけで辺りの砂塵が舞い上がり、風圧でこちらは立っているのもやっとだ。
(片翼なのに飛ぶとか、ありかよ!)
これではとても逃げられない。素手で戦って勝てる相手とも思えず、胃の辺りがキュッと締めつけられる。
もはや少しも動けずにいると、「邪竜」はそのまま圭の目の前に降り立った。
顔をじっと見据えられ、恐怖で体が震え出してきたが――――。
「……ハア、まったく。俺もたいがい嫌われたものだな」
「っ?」
「おまけに食わないでくれ、とか。俺は肉より、野菜のほうが好きなんだがなぁ」
「……?」
深いため息と、ぼやくみたいな声。
圧のある見た目とは真逆の発言に虚を突かれ、思わずまじまじと顔を見つめると、「邪竜」が親しげな表情を見せて言った。
「初めまして。人間の雄だな? 名は?」
「……っ、け、圭だ」
「ケイか。迷い人に会うのは久しぶりだ。どこから来たんだ?」
何やら気安い問いかけに当惑する。
だが目の前の竜人は、「邪竜」と呼ばれるような存在だ。もしかしたら親しげに見せて、こちらを何か試しているのかもしれない。そうでないとしても、ここまで来て上界の役人とやらに引き渡されては、半日逃げ延びた意味がない。
とにかく慎重にしなければ。圭はぐっと拳を握って言った。
「……マルーシャ」
「何……?」
「マルーシャという竜人の男を、探している」
声が震えぬよう腹に力を入れてそう言うと、「邪竜」が微かに目を細めた。
「そうなのか? その男に、なんの用だ?」
「言えない。ほかの誰かには、話せないんだ」
圭の言葉に、「邪竜」が考えるふうに小首を傾げる。
それから何か探るようにこちらを見て、ゆっくりと切り出す。
「何か事情がありそうだな。だが、おまえは誰からその名を聞いた? ここには彼を知っている者はほとんどいないぞ?」
「彼を、って……、あんたは知っているのか、その男をっ?」
ようやく手がかりを得られた嬉しさで、思わず勢い込んで問いかける。
すると「邪竜」が軽く頷いた。
「ああ、知っているといえば知っている。だが、彼は……」
「邪竜」が言いかけた、その刹那。
突然圭の全身にゾクリと悪寒が走り、ドキドキと心拍が跳ね始めたから、驚いて目を見開いた。
いきなり、どうしたのだろう。目の前の「邪竜」の姿が明滅するほどに脈が速くなって、呼吸も荒くなっていくのがわかる。
うろうろと視線を泳がせると、遠くの地平から何か圧迫感のようなものを感じることに気づいた。視線を向けると、地平から細い月が昇ってくるのが、雲越しに見えた。
「ううっ!」
へその下辺りがギュッと締めつけられる感覚に、呻いてしまう。ここへ来て以来、なるべく考えないようにしていたが、腹の底の竜の卵と、もしや何か関係が――――?
「……おい、おまえまさか、卵を抱いているのかっ?」
「っ!」
「邪竜」にあっさり言い当てられ、さっと下腹を手で押さえる。
圭の腹の中に埋め込まれた、竜の卵。
それに何かが起こっているのか、衣服の上からでもそこがジンジンと熱くなっているのがわかる。腹を突き破って何かが出てきそうな不安で叫び出しそうになっていると、「邪竜」が何か納得したような顔で言った。
「巫女だったのか、おまえは。竜宮から逃げてきたのか? 番は?」
「……な、にを言ってっ……? 巫女って、俺は男だぞっ?」
彼の言葉の意味がわからず、混乱しながら問い返す。一瞬すべてが夢物語なのではと思いもしたが、腹の違和感は誤魔化しようもない。
焦っていると、「邪竜」がこちらに近づき、腹を押さえる圭の手ごと、大きな鉤爪の手でシャツをつかんでまくり上げてきた。
「っ?」
圭の引き締まった下腹で妖しく明滅する、毒々しい紫色の紋様。
卵を埋め込まれたときに、そこにそれがあることの印のように浮かび上がってきたものだが、そのときは光ってなどいなかった。
何もしていないのに皮膚が光るなんて意味がわからない。一体何が起こって……?
「まだ番が決まっていないのか。だが、この卵を抱く巫女はとうに決まっていたはず。なぜおまえがこれを……?」
言いかけて、「邪竜」が不意に何かに気づいたように顔を顰めた。
「そうか、先日から上界が何やら騒がしいのには気づいていたが、まさかユタが……?」
「! そ、そうだ、あの子はそう名乗っていた。知っているのかっ?」
ユタを知っているのなら、やはりマルーシャの行方も知っているのではないか。圭はすがる思いで言った。
「なあ、頼むよ! マルーシャって男の居場所を知ってるなら教えてくれ。俺はその男に、コイツを渡さなきゃ……、うぅ、あ、ああっ!」
いきなり腹をぐにゅぐにゅとかき回されるみたいな感覚を覚えたから、たまらず叫ぶ。
まさか卵が孵ってしまったのか。恐怖でパニックになりそうだ。
「な、なんなんだこれっ、どうなってっ……! あぁっ、うう……!」
膝の震えが激しくなり、立っているのがつらいと感じた途端、体がぐらりとよろめいた。
すると「邪竜」がさっと圭の体を支え、小さくため息をついた。
「……やれやれ、どうやら本格的に発情し始めているようだな」
「は、はつじょうっ?」
「腹の卵が番を求めているんだよ。子種を注いでくれる雄をな」
「な、んっ?」
「邪竜」の言葉にいよいよ混乱してしまう。
哺乳類である人間の男の自分が卵を、しかも竜の卵を抱いているというのが、もうすでに常軌を逸しているが、番に子種となるといい加減思考を放棄したくなる。
だが、体が徐々におかしな感覚になってきているのはひしひしと感じる。血圧が上がったみたいになって全身が震え、呼吸もますます乱れていくのだが、これは体調不良というより、別の感覚に近い。
こんな状況なのに認めたくないのだが、これは性的興奮ではないか――――?
(……嘘だろ。俺、なんで勃ってっ?)
間違ってもそんな場面では絶対にない。
なのに、男性の証が頭をもたげ始めているのに気づいて頭が熱くなる。早くマルーシャという竜人を見つけて卵を腹から出さないと、何かとんでもないことになってしまうのでは……。
「仕方がないな。とりあえず、それをおさめようか」
「え……、っ、ンんっ?」
やおら体を抱き寄せられたと思ったら、何かで口唇を塞がれたから、驚いて固まった。
大きく目を見開き、何が起こっているのか確認すると。
(……キ、ス……されてるっ?)
昨日までその存在すらも知らなかった竜人、しかも男に、キスをされるなんて。もはや今まで生きてきた現実のほうが幻だったのではと思えるくらい、衝撃的なことだった。
抵抗したいのに、たくましい腕で抱えられていて身動きも取れない。うーうーと唸り声を上げ、せめてもの抗いを示していると、やがてヒヤリとしたものが口腔に滑り込んできた。
「――――――――!」
それはどうやら「邪竜」の舌のようだった。圭の体温よりもいくらか冷たいそれが口腔をなぞり、こちらの舌に絡まってくる。
普通に考えたら、おぞましさでどうにかなりそうだが。
「……ん、ん……、ふ、ぁっ」
無意識に口から洩れた甘ったるい吐息に、自分でも驚いてしまった。
どうしてかわからないが、「邪竜」の口づけは不快ではなかった。キスが深まるにつれ四肢が痺れたみたいになって、頭もモヤモヤしてくる。
腹部の紋様はまだ熱く感じるが、体からは徐々に力が抜け、「邪竜」の腕にだらしなくもたれかかっていくのがわかる。キスをされただけで、どうしてこんな……?
「おっと、やりすぎたか。大丈夫か?」
「邪竜」が気遣わしげに言って、顔を覗き込んでくる。
すっかり体を支える力を失い、ぐったりと見上げると、「邪竜」が静かに言った。
「ケイ、よく聞いてくれ。マルーシャは、俺だ」
「……え……」
「俺をマルーシャと呼ぶのは、この世でユタだけだ。……いや、だった、と言ったほうがいいのか」
「邪竜」が言って、哀しげな目をしてこちらを見つめる。
「ユタは、死んだんだな?」
何も話していないのに、まるで確信しているかのように「邪竜」が訊いてくる。
そのさりげない声音とは裏腹に、深い慟哭が聞こえてくるような目をしていたから、圭は何も言葉を返せなかった。
でも「邪竜」も、返事を求めているわけではなかったのだろう。小さく頷き、ぐったりした圭の体を肩に担ぎ上げて、独りごちるみたいに言う。
「だが、これもまた運命か。これがユタの遺志だというのなら、応えようじゃないか」
「……お、い? う、わぁあ……!」
体がふわりと浮く感覚に叫んだが、それ以上意識は保たなかった。
圭は「邪竜」に抱えられたまま、異世界の広野を飛んでいた。
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