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【番外編】掌の誓い 後編
東を引っ叩いてこの件を不問にしたらしい佳人は、さっさと店の閉め作業に戻って行った。
兄弟揃って母親に叱られた後のような気まずい空気が立ち込める中、先に天草がくるりと背を向けた。そのまま何も言わずに歩き出し、一度も振り向くことなく、その後ろ姿は曲がり角の向こうに消えていく。哀愁漂う背中に声を掛けることは躊躇われた。彼はただ佳人を心配しただけだったろうに、逆にこっぴどく叱られて、手まで出されたのだから、気持ちは察せられる。
だが引き留めなかった1番の理由は、東自身の心の整理がついていなかったからだ。今話してもまた天草のペースに持っていかれる自信がある。先ほどまでの激情が蘇って来て、東は耐えきれず背後のベンチにフラフラと座り込んだ。
東が頭であれこれ考えたものが、天草によって引き出された感情によって津波の如く流されていった。波の引き際に残ったのは、なんの建前もない自分の欲望だけ。
佳人の言葉が蘇る。佳人は償いも何もいらないと言った……。自分たちの間にあるものは、好きという感情だけでいいと。
(もしこれが俺の好きの感情なら……怖い)
佳人の幸福を考えず、自分の側に置くこと。佳人を幸せにするのは自分だという、業火のように強烈な感覚。
こんなものを佳人に対してもつことが良いとは思えない。
ふと自分の手が目に入り、拳を開いてみる。
とっくに克服したはずのαの持つ脅威がじわりと胸の中で蘇る。佳人よりも一回りは大きい自分の手が凶器のように恐ろしく見えた。この手は1人の人間の人生だって無茶苦茶に破壊できるものだ。少しでも使い方を間違えたら、佳人だって……。
「掌になんか付いてんのか?」
どすん、と無遠慮に隣に腰が降りる。茶色い紙袋を抱えた佳人が不思議そうに東の手を覗き込んで「なんもないな」と呟く。
「これ、パンの余り。チンすれば柔らかくなるから」
「あ…りがとう」
佳人は自分の分の茶袋を漁ると、中からメロンパンを取り出して、パクリと一口食んだ。この店のメロンパンは少しも緑色じゃなくて見た目のメロン要素が皆無だ。しかしそれは着色料を使っていないためであって、自然な形でメロンを活かしたこのメロンパンは、口元に近づけると濃いメロンの香りがする。口に含むと大きめのザラメが良い歯応えになって、しかも上白糖のようにくどくない。しかも生地は驚くほど柔らかく、小さな子供でも1人で食べ切れる人気商品になっている。東が父と暮らしていた頃からあり、その時から大好きだった。いつもなら早々に売り切れるのだが、珍しく今日は残っていたようだ。
「なんか今日、東が来るような気がしてた」
「え…どうして?」
「分かんない。けど、お昼頃から突然そんな気がしたんだ。だから店長に頼んで、俺と東の分を取り置きしてた。お前一番好きだろ?」
そう言って佳人はまた一口かぶりつく。男らしい大きな一口だ。
(お昼頃って、俺が大屋敷さんや蓮太郎さんに相談して、今日は佳人に会いに行こうと決めたくらいの時だ……)
それが本当なら、佳人はこんなにも遠くから、東の気持ちを感じたことになる。
そう思うと、苦しいくらいに胸が切なくなった。隣で子供のようにメロンパンを頬張るこの男を、今すぐ掻き抱きたい衝動をスーツのズボンを握り締めて必死に逃す。
「それで、さっきの話の続きだけど」
佳人がそう切り出したのを、東は「待て」と慌てて止めた。
「俺から話していいか?」
佳人は少し目を丸くしながらも、こくりと頷く。東は1つ深呼吸をすると、口を開いた。
「佳人はさっき、俺との間には好きって言う感情があればいいって言っただろう?」
「い、言ったけど、あれは焦って勝手に出たって言うか……嘘じゃないけど」
「うん。でも、たぶんだけど俺と佳人の好きは一緒じゃないと思うんだ」
佳人はメロンパンを口に運ぶ手をぴたりと止めると、神妙な表情で「どういうことだ?」と聞いて来た。その眼が今にも傷つきそうな色をして揺れていたので、慌てて東は否定する。
「いや、嫌いとかじゃない、断じて。ただ……俺の持つこの気持ちが、佳人にとっては害のあるものなんじゃないかと、そう思ったんだ」
「どういうことだよ?」
「……佳人は俺に償うとかそういうのはいらないと言ったろう? 確かに今までの俺にとって、佳人を幸せにすることは俺にとって償いで、佳人のためにそうしなきゃいけないと思っていた。でも……今は違うんだ。俺は償うとかそういう所とは違う所で、佳人を幸せにしなくてはいけないと思ってる…。佳人のためじゃなくて、俺がしたいから、そうしたい。そうしなくちゃいけないと、俺が思ってる」
自分の中でもまだまとまりきらない気持ちを、手探りで丁寧に言葉にした。
「佳人には自由に生きて欲しいと、そう願っていた。それは良い事だけど、でも自由に生きればそれだけ出会いは増えていく。佳人だって、俺よりもっと好きになる人がもしかすると出来るかもしれない。もし別の人と一緒にいることが佳人の幸せなら、俺は身を引くべきだと分かってる。でも、もうそれができない所まで行きそうなんだ。……他の誰でもない、俺が佳人を幸せにしたいと、そう欲しているから」
誰にも渡したくないなら、縛り付けてしまえばいいと囁く誰かが、自分の中にいるのだ。でもそれは東のしたいことではない。でももう手を離せないかもしれない。
こんな強烈な感情を、「好き」と飾り付けて佳人にぶつけていいものだろうか。
いつの間にか東は俯いていた。自分で吐き出した言葉に、自分が押し潰されている。
隣に座る佳人は何も言わない。自分が俯いているから表情が分からない。顔を上げて確認しなければいけないのに、重しが乗ったように頭が上がらない。
しばらく2人とも黙っていたが、今度はこの沈黙の方が怖くなって来て、東は恐る恐る佳人の顔を見た。
拒絶した顔。怒った顔。悲しそうな顔。顔を見るまでの数秒で、多くの表情が脳内をかすめていった。しかしいざ目にした佳人の表情はそのどれにも当てはまらないものだった。
「お前……どんだけだよ」
そう言って、今度は佳人がそっぽを向く。その横顔は耳まで赤い絵具で塗ったように火照っていた。予想外のことに、東は目を白黒させて「ごめん、俺なんか怒らせたか?」と勝手に口が口走る。自分でもそうじゃないと分かっていた。案の定、佳人が「はあ?」と振り返る。
「なんでわかんねんだ! 照れてんだよ! お前っどんだけ俺のこと好きなんだよっ」
「本当に素面か? よくあんな恥ずかしいセリフをぺらぺらと……」とぶつぶつ言っている。今度こそ、東が驚く番だった。
「なんで照れてるんだよ?」
怖がられたり、迷惑がられたりするとは思っていたが、照れる要素などどこにもなかったように思えるのに。しかし佳人は頭から湯気を出しそうな勢いで、早口にまくし立てた。
「何言ってんだよ! 俺が幸せにしたいとか! もう手を引けないとか! それ以上の告白あんのかよっ? 恥ずかしいやつだな! よくそんな真顔で言えたな!」
佳人の忙しなさに追いつけずに固まっていると、不意に唇に柔らかいものが触れた。鳥がするみたいに軽く吸い付いて、すぐに離れていく。目の前には赤く上気した頬に、目を潤ませた佳人の顔があった。
「悪い…、したくなって……。だって嬉しくて…。俺も東がす、好きだから……だから、絶対、もう離さないでくれよ……」
今度こそ、自分の中に湧き上がって来た感情を堪えることができなくて、東は身を引こうとする佳人の体を掴んで自分に引き寄せた。佳人が大勢を崩し、胸の中に倒れ込んでくる。その顔を両手で包んで、上を向かせると東はその唇に噛み付くように吸い付いた。
「んーッ」
佳人が腕の中で暴れるのを無視して、東は佳人の口の中を存分に味わった。舌で唇を割り開き、口内で好き勝手に暴れた。逃げようとする佳人の舌を追いかけ、じゅっと強く吸う。歯列をなぞり、上顎を舌先でいじめると、佳人の体から力が抜けていき、胸の中にすっぽりと落ち込んでくる。
「んっ、…っんぅ、ん……」
やがて佳人も舌を絡ませてくる。キスの合間合間に佳人が熱い息を吐き、その温度にさえ興奮した。
存分に佳人の唇を貪った後に、唇を離す。佳人はくたりと体を東に預け、こちらを見上げてくる。色っぽく頬が染まり、口の左側から透明な糸が一筋垂れていた。それを親指で拭うと、東は力の抜けた佳人の体を強く抱き締めた。
「ありがとう、佳人……愛してる」
何時間も、何日も、何年も悩んできたことを、佳人の言葉1つが容易く解決してしまう。いつでも佳人が東に答えをくれる。
「絶対に、もう絶対に離さないから」
これが自分の望みで、佳人の願いだといのなら、自分はどこまでもいつまでも、この手を繋ぎ止めていよう。
「あ、東……」
「ん?」
「離して…早く帰ろう。早く——2人きりになりたい」
可愛いことを言われて、一瞬めまいがした。なんとか持ち堪えて、東は佳人の体を離し立ち上がる。
佳人は服を整えて、遅れてフラフラと立った。その手を東は取る。
「な、なに?」
「そこの大通りまで……こうしていたいんだ」
「……仕方ねえな」
佳人の指が絡んでくる。ハッとして佳人を見ると、にかっと口角を上げて子供のようにして笑った。
「この手で、いつまでも俺を守ってくれよ?」
「ああ、約束する」
この手を佳人のために使うと、誓おう——永遠に、永遠に。
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