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【番外編】掌の誓い 中編

 明日も仕事なのだが、東は自宅へ戻らず佳人の家に向かっていた。佳人の家から東の会社までは時間は掛かるが、通えないわけではない。先ほどメールをすると『今日は閉め作業だから先に家に行ってて』と返事がきたが、東は駅を降りたその足で佳人の働くパン屋へと足を運んだ――今日は1秒でも早く佳人に会いたかった。  佳人の職場――東の父の店でもある――がある商店街は帰宅する人は学生で賑わっていた。かつてこの街で佳人と再会した時、昼食を食べたカフェは夜はイギリスのパブのような雰囲気になり酒も出る。バルコニー席には恋人や夫婦が座り、楽しそうに食べて飲んでいる。  大通りを抜け、角を曲がったところにベーカリー『AZUMA』がある。店は薄明かりが灯っているが、ドアには『closed』の札が下がっていた。店の近くで待っている、と佳人にメールをしようとした時、店のドアが開いた。中からエプロンを引っ掛けた佳人が出てきて、気持ちが高揚したのも束の間、続いて出てきた顔に東は眉を寄せた。 「だからそれで――って東?」  佳人が東に気づき、目をパチパチと瞬かせた。その隣には例の男が一緒にいて、東のテンションが急降下していく。  男は東に気がつくと、朗らかに緩ませていた表情を険しくした。眉の間にシワが集まり、じとっと湿った目で東を見てくる。 「東、なんでここに――」 「ああ、やっぱりあなたが東さんでしたか」  男は佳人の言葉を遮って、東の目の前に歩いて来た。 「はじめまして、僕は赤松さんの友人で――」  男が何か喋っているが、正直頭に入ってこなかった。 (店はとっくに閉まっている時間だろう、なんで佳人と一緒にいるんだ。土日によく会うとは思っていたが、平日も良く来ているのか? 恋人の自分だって毎日会えないというのに……)  薄暗い感情が腹の底からふつふつと沸き上がってくる。 「……どうしてここんいいるんですか? 店はとっくに閉まっている時間ですよね」 「それ、あなたに関係ありますか?」 「……単刀直入に聞きますけど、佳人のこと好きなんじゃないでしょうね?」  男の後で、佳人が「はあ?」と素っ頓狂な声を上げる。男は静かに「だとしたら?」と返してきた。否定の言葉はない。 「佳人は俺の番です。手を引いていただきたい」 「そもそも僕は、あなたが赤松さんの番だっていうことが気に入らないんですが。一度捨てておいて、偉そうに番だなんて言えるんですか?」  解消したことがあることも知っているのか。 (佳人がそんなことまで話すなんて……)  芽生えていた薄暗い感情が一気に膨張する。同時になぜ、この男にそんな風に言われなければならないのかとムカムカした。 「それに番いにしておいて婚約の1つもしていないなんて、赤松さんのことを大切にするつもりがあるんですか?……その気がないなら、さっさと俺にくれませんか? 僕はβですけど、αのあなたよりもよっぽどこの人を幸せにできると思いますよ」  男はそう云って、佳人に向かってにっこり微笑んだ。 「は、はあ? どうしてそんな……」  佳人も、否定していない。  佳人は物事の白黒をはっきりつけたがるタイプだから、すぐにきっぱりと断ると思っていたのに、困ったように苦笑いを浮かべるだけだ。 (どうして否定しないんだ)  ショックで一瞬、目の前が暗くなる。  その時、男が佳人に向かって手を伸ばした。その瞬間、東は強烈な感情に掻き立てられて、男よりも速く、佳人の手を掴むと自分の方に引っ張っていた。 「佳人は俺が幸せにする! お前は必要ない!」  絶対に佳人を取られないように、掴んだ手に力を入れながら東は叫んだ。  佳人に再会した時、過去を償うために佳人のためならばなんでもすると言った。佳人の幸せが東といることではなくても。佳人を愛していながら、自分のいない佳人の幸せをを探すこと――それが東が自分に与えた罰だった。でも佳人は再び自分を選んでくれた。東と共にあることの先に佳人の幸せがあると信じてくれた。それは紛れもない奇跡だった。その時にいるのかも分からない神に誓った……他でもない自分が佳人を必ず幸せにするのだと。一度は離した佳人の手を、東は2度と離さない。 (佳人には自由でいて欲しいとか、そんなの自分を綺麗に見せたいだけの戯言だ……俺はとっくに手遅れなんだ。きっともう2度と、離せない)  自分が佳人を幸せにしたい。それが佳人を縛り付けて、身動きを取れなくすることであっても。  佳人に尽くしていながらも佳人の愛を欲していた過去の自分。佳人に幸せでいて欲しいと望みながらも、佳人を自分に縛り付けたい自分。一見矛盾知っているように見えて、そこには何の複雑なことは存在しない。 (佳人は誰にもやらない。俺だけのものだ。俺が幸せにする。俺だけが――) 「おい、いい加減にしろ」  バチンッ、という音と共に、目の前に火花が散る。右頬に手を当てると、そこはじわりと熱を持ち、思い出したように痛くなる。 「いてえっ」  声にハッとして顔を上げると、佳人が男に向かって拳を振り上げていた。男はすでに、東と同じように片頬を押さえている。 「お前ら勝手に話進めんな。先生も、適当な言葉で東を煽るな」 (先生?) 「東お前も、簡単に乗せられてんな」  佳人がはあ、と深いため息をつく。 「先生って……」 「この人、俺が通ってた精神科の担当医。もう通院してないけど、友達としてよく店に来てくれんだ」 「どうも、天草です」 「てか前に言ったよな? 友達だって」 「で、でも店でその人と会うたびにすごい顔で睨まれるから、その人は佳人のことが好きで、俺のことを疎ましく思ってるんじゃないかと」  その瞬間、佳人が物凄い勢いで男……天草を振り返った。どんな顔をしていたのかは東には見えなかったが、天草は気まずそうに目を逸らし、頭を掻く。 「あのな、俺を心配してくれるのはありがたいけど、踏み込みすぎ。先生は俺の友達だけど、俺と東の間については部外者だろ。それ以上、東を揺さぶんないで。こいつ頭いいんで、1人でごちゃごちゃ考えるタイプなんだ」  そう云うと、佳人は東を振り返った。 「この人、俺が一番弱ってた時期から俺のこと知ってるから、心配してくれてるんだよ。東とよりを戻そうとした時も、すげえ反対された。でも、今言われたことは全部忘れて。俺は昔のこと、何一つお前に背負って欲しいなんて思ってないから。前みたいに償うとか何だとか、そういうこと考えるなよな。俺と東の間にはそんなのいらないんだから。俺とお前の間にあるのは……す、好きっていうもんだけ……それだけでいい……」 「佳人……」 「ていうかいい加減、ごちゃごちゃ考えるのをやめろ」  そう云って佳人は、東の頬にもう一発拳を入れた。  

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