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第1話

 「……お一人ですか?」  賑やかな中でも真っ直ぐに、その声は耳に届いた。大園はちょうど空になったグラスをテーブルにとんと置き、首を傾けて振り返った。  若い。薄暗がりでも一際つやめく白い肌に目を奪われる。仕事帰りにそのまま寄ったのか、捲り上げたワイシャツから伸びる腕の健やかさが眩しい。背中に背負った薄型ディパック、腰に巻いた皮ベルト、ピタリと体に沿ったパンツのシルエット、ぴかぴかで傷のない革靴とその装いをさらりと流し見、内勤、大手と結論する。選り好みはしない。とは言え、おかしな人間を相手にして失敗するのはごめんだ。  「……一人ですね。今日は」  肩を竦めて応じると若い男は歯を見せて笑い、ご一緒しても?と断って、大園の反応を待った。  「……どうぞ」  強引さはないが遠慮しすぎることもない。近すぎもせず遠すぎもしない距離の取り方が気に入って大園はそう返し、立ち飲み用の小さなテーブルの向かいを示してゆるりと笑んだ。  「何飲んでました?」  「ロンドンプライド」  大園の笑みにお邪魔しますと応じた男は、背負ったディパックを腹側に回しながら問い、大園が口にしたエールの名前を聞くと、懐かしいなと呟いた。  「……すみません。ロンドンプライド二つと、生一つ」  大園がその呟きの意味を問うため口を開きかけると、男は少し待ってとそれを制し、空のグラスを持って通りかかった店員を呼び止めてそう言い、照れたように笑った。  「ごめんなさい。喉乾いてて」  ディパックを下ろすつもりはないらしく、後ろの客に遠慮して前に回したそれはそのままに、彼はそれで?と首を傾げた。  「何ですか?」  「……懐かしいって言ったから」  「ああ……学生の時に一年間イギリスに行ってて。ビールはその時に覚えたので」  ラガーはペローニ、エールならロンドンプライド。人気のあるものはやっぱり旨いですよね。  ロンドンプライドが旨いのは認めるが、俺はラガーなら断然キリンだと大園はちらりと思う。ペローニは軽すぎる。いや、単に飲み慣れないだけか。  オーダーしたビールが届くと、男は大園の分もまとめて支払い、俺がお邪魔したんで奢らせて下さいと笑んだ。  「じゃあ、乾杯」  差し向けられたグラスに軽く自身のグラスを打ち当てると、かちんと涼やかな音が鳴った。大園がちびりとビールを舐める目の前で、男はあっさりとした色味のハートランドを喉を反らして一息に煽り、満足げに吐き出した吐息に乗せて、生き返ったと呟いた。遠慮のない飲みっぷりが気持ちいい。  「仕事帰り?」  「あ、そうです」  「ふうん……お疲れ様」  時間は既に23時を回っており、習慣になっていようがいまいが、朝の満員電車からこの時間まで拘束されるサラリーマンの、何か大きな機械の歯車になったかのような無機質な感覚を大園は実感として知っていたから、労いはごく自然に出た。そこに於いて生き返るというのは文字通りの意味で、ここに居ると確かに、生きている感じがすると、そう思う。だから、ありがとうございますと目尻を下げるこの男もきっと、ここに生き返りに来ているのだろう。  「……お兄さんは、」  空になったグラスをテーブルの端に押しやりながら彼はふいにそう口にし、思考の隙間を縫ってその呼びかけが耳に届いた瞬間、大園は思わず吹き出した。お兄さん。ぱっと、男の視線がこちらを向く。  「あ、れ?何か変でした?」  「ふっ、はは。ごめん。お兄さん、て、歳でもないから。特に君みたいな若い子から見たら」  「あれ?そう?ちょっと上くらいと思ったんですけど、違いました?」  くりんと大きな目を見開いたその表情からは世辞なのか本気なのかは読み取れず、引っ込み切らない笑いの余韻が滲んだ声のまま、大園ですと取り敢えず名乗った。  「大園さん。国峰です……おいくつですか?て、聞いてもいいですか?」  自身もさらりと名乗り、かくんと首を傾けて問う。気遣い上手で可愛げもある。上の覚えも良さそうだと、そんなことを思う。  「37ですよ。国峰くんは二十代でしょ」  「25です。へぇ。若く見られません?……って、これ、嬉しくない人もいますよね」  すみませんと頭を下げる国峰に、別に嫌ではないと応じる。よく言われる。ここにいるときには、よく言われる。仮面なのだ。固めずに下した前髪も、普段の自分なら絶対に選ばない服も、全部。ここにいる大園優一は影だ。昼の世界を生きる大園優一の影。その裏側。ずっと、享楽的な部分。  「君みたいな若くて綺麗な子に声かけてもらえるなら、そう見られるのはありがたいよ」  「綺麗って、」  なんですかと国峰は肩を震わせて笑った。綺麗。自分よりも背の高い、割合としっかりした男に対してちょっと不釣り合いな誉め言葉だという自覚はあった。でも、綺麗だと思ったのだ。  「……目、かな?」  きりりと切れ長の三白眼。国峰はよく笑うから見落としそうだが、かなりはっきりと白目が広い。笑顔の華やぎや柔らかな物言いの裏に隠れてはいるが、よくよく見ると、目元が冷たい。冷たい印象を受ける。その冷ややかさが、綺麗だった。華やかではあるが、どこか冷めている。氷華の煌めき。視線が絡む。ぞくりとする。悪くないなと、そう思う。  「ん……ぁ、」  「……気持ちいい?」  ちうと音を立てて胸の先を吸い上げられ、大園はくっと背を反らした。甘ったるい問いかけには、覆いかぶさる男の腿に形を変え始めた自身を押し付けることで応じた。国峰がごくりと喉を鳴す。上目にこちらを窺う三白眼。知らず、口元が緩む。目の前で、欲望が露になるこの瞬間が好きだった。動き一つ、視線一つで、人の本能がむき出しになる。外ではどれほど理性的に振る舞っていようと、裸になって抱き合えば皆、一匹の獣だった。快に向かって突き進む一匹の獣。すりともう一度、硬い腿に股間を押し当てる。布越しの刺激に自分自身も煽られ、大園ははぁと熱い息を吐いた。ここでは、きちんとした人間である必要はない。ただ、好きなように振舞えばいい。欲すれば与えられる。動きの止まった国峰の髪に指を差し入れ、その口元に胸を寄せる。ふっと笑った男の吐息が尖り切った乳首に触れ、その刺激にさえ大園は喉を鳴らし、薄い唇の隙間から差し出された真っ赤な舌に先端を舐られ、悦びの声を漏らす。気持ちいい。  もっともっとと髪を乱すと、国峰の手がひたりとわき腹に触れ、さらりと柔らかく撫で上げられる。  「は、ぁ……」  甘痒い刺激に身を捩ると、風呂上りに羽織ったバスローブはさらに乱れ、ベッドに横たわった大園の上半身はすっかりはだけてむき出しで、国峰の手に、舌に、いいように弄り回される。  「ん……ふ、」  ふいに、硬くとがった舌先で乳首をごりと押しつぶされ、大園は鼻にかかった声をあげた。わき腹を撫で上げた手は、今度は指先だけを腹に触れてゆっくりと下に下っていく。するすると下りていく指の感触に気を取られていると、次には痛いほど強く胸を吸われる。  「っ!」  一際大きく身体が跳ねた。どろりとした快感が一気に下腹に溜まり、その感覚を逃そうと反射的に閉じかけた脚は、国峰の腿に阻まれる。  「……はは……痛いの、好きなんですね」  凄い硬くなったと、濡れた唇で国峰は隠微に笑み、無意識に逃げ出そうとする大園の腰をぐっと掴んで、バスローブを押し上げて震える局部を腿でぐりぐりと押し上げた。ぞわぞわと背筋を這い上がる感覚を追ううちに、知らず、腰が揺らめく。  「ふ……ん、すき」  だから噛んでとねだる。ふっと笑った国峰が、あーと見せつけるように口を開き、真っ赤になった胸の尖りに唇を寄せてかりりと歯を立てた。ひゅっと喉が鳴る。とろりと、身体が溶けてゆく。気持ちいい。  「……すっごいですね。乳首だけでこんなにして」  すいと身体を起こした国峰が言い、臍のあたりをとろとろと撫でまわしていた手が不意に大園の屹立に触れた。  「ん、ぁ……や、だ」  「嫌じゃないでしょ。擦り付けてんじゃないですか」  触ってほしかったんでしょ、と意地悪く男は笑い、ローブの合わせの隙間からいつの間にか顔を出していた先端に人差し指の腹を当て、ぷくりと溢れ出していた先走りを塗り広げるようにゆるゆると動かす。もどかしい刺激に、腰が浮く。  「……ほら。俺もう手動かしてないのに」  気づけば確かに国峰の手は止まっており、その手のひらに先端を押し付けているのは自分の方で。溢れて止まらないぬめりは粘度を増して彼の手を汚し、ゆらゆらと不安定に揺れる腰の動きに合わせてちゅくりちゅくりと糸を引いていた。みっともない。みっともないと思うのに、止まらない。止める気もないから、別にいい。国峰の手は止まったままだ。焦れったい。もっと。もっとちゃんと。握って、擦って、舐めて、噛んで、突っ込んで欲しい。もっと、気持ちいいことがしたい。  「は、あ、ぁ、ん、」  リズムをつけて腰を揺らし、他人の手を使って自慰をする。その背徳感に、脳が痺れる。生理的に滲んだ涙がつっと、目尻から零れた。  「……えっろいな」  見下ろす顔が歪む。笑顔の消えた冷たい目元が、赤く染まる。いいな、と思う。気分がいい。興が乗って、その顔を強く引き寄せ、頭を抱えるようにして口付けると、男の手のひらが大園の先端を包み込んで動き出す。  「んん、ぁ」  ぐちゅりと舌が絡み、上からも下からも響く水音に、身体も耳も侵されてゆく。五感全部が、気持ちいいでいっぱいになる。もっと。もぞりと、身じろぐ。  「っ、」  国峰の手が、舌が。ぴくりと震えて動きを止めた。意図を持って動いた大園の脚が、国峰の中心を探り当てる。どくりと脈打つ熱を布越しに感じ、その質量に、大園は喉を鳴らした。じゅっと舌先を吸い上げて、顎を引く。  「……自分、だって」  ぐっと立てた膝で熱を押し上げて、大園は笑う。  「触ってもないのに、もう、こんな、だ」  堪えるように引き結ばれた唇をべろりと舐めて囁く。押し当てた膝でゆるゆると擦ってやると、結んだ唇がゆっくりと解けていく。薄く開いた唇の隙間から熱い吐息が零れだし、大園の唇に落ちる。頭を抱え込んだまま擦り続けると、徐々に国峰の腰が引けていくのが分かった。  「っ、足癖、悪いですね」  布越しにもぬらりとした感触が伝わるほどなのに、それでもまだ強がって見せるところはちょっと可愛いと、熱に浮かされた頭でそう思う。ふっと笑って頭を放し、国峰の胸をとんと押して体勢を入れ替える。仰向けになった男の帯紐を解いて前を寛げると、眩しいほど白く瑞々しい身体が露わになり、大園は思わず見惚れた。この身体で、突き上げて欲しい。衝動のまま、その白い腹に馬乗りになり、自身の肩に引っかかる半端にはだけたローブをするりと脱ぎ落とす。邪魔な布を払う拍子に、ローブの裾が大園自身の先端を引っ掛けて刺激し、瞬間、びりりとした鋭敏な快楽が脳天まで突き抜けて大園は体を震わせて悶え、限界まで勃ち上がった自身から、とろりと白濁した液体が流れ落ち、国峰の滑らかな肌を汚した。ぐらりと傾ぎかけた身体を、国峰の手が支える。  「あ……はは。イッちゃいました?」  「っ……ま、だ」  根元を手で握り込み、息を詰めて耐える。無駄打ちできるほど若くはない。痛みも愉悦。こうなってしまうともう、止まらない。  深く息をついて快楽の波を一つやり過ごし、そっと手を離す。腰を支える手の僅かな動きに喘がされながらゆっくりと身体を倒し、白い首筋に唇を落とす。舌と唇でやわやわと刺激すると、国峰の喉がくっと鳴った。首筋から辿って、鎖骨、さらに下って、胸の先端を吸い上げる。  「んっ、」  びくりと、国峰が身体を揺らした。  分かりやすい反応に気を良くして、控えめに主張する小さな膨らみを丁寧に舐めて顔を上げると、じっとこちらを見下ろす視線にぶつかる。  「……国峰くんも、ここ、すき?」  「好きですよ……けど多分、大園さんほどじゃないかな」  そう言って国峰はふっと笑い、腰を支えていた手がするりと脇腹を撫で上げ、つんと主張する大園の乳首に親指を引っ掻けて弾いた。ひくりと腰が跳ねる。  「ぁ、」  ふるりと震える先端からまた一筋白濁が零れ、とろりと糸を引く。  「……また、垂れちゃってますよ」  胸にいたずらをした手が、今度は大園の下腹部に向かい、触れられることを期待した大園のそこは、更にとろとろと蜜を溢す。男の手から、目が離せない。指先が、近づく。触れる。  「っ、」  触れる直前で、その手はピタリと動きを止めた。満たされなさに喉を鳴らすと、国峰はくっと笑い、大園の身体には一つも触れずに、垂れ落ちた糸をその指に絡め取った。  「……舐めて」  自身の白濁に滑った指先が、唇に触れる。こちらを見上げる三白眼が獰猛に光り、心臓がどくりと踊る。言われるがまま口を開け、舌を絡めて口に含む。たっぷりと唾液を絡ませて音を立てて吸い上げると、指のぬめりはすぐに溶け、ざらりとした人肌の質感が舌を嬲った。  「……ベロ、やぁらかい」  ぐにゅりと舌を押し込みながら国峰が呟く。指が、口内を蹂躙する。無遠慮に動く指先が、頬の内側を撫で、上顎をさりと擦る。耳の後ろがぞわりとし、反射のように指を吸った。腰を支える手が妖しく動き出す。くすぐるような刺激に吸い上げる力が緩んだ途端、国峰は差し込む指を2本に増やし、ぐにぐにと舌をいじり始めた。  「ん、ぐ、」  遠慮のない男の手首を両手で掴む。指が出入りするたびに、大園の口元からちゅぷちゅぷと卑猥な音が響く。呑みきれない唾液が溢れ、顎を伝う。その唾液を、国峰の指が塗り広げる。他者に侵略される感覚に、くらくらする。  「……苦しい?」  問いかける顔がじわりと滲む。苦痛と快がない混ぜの感覚。涙の理由は、自分でもよく分からない。苦しくて、気持ちいい。苦しい方が、気持ちいい。大園はこくりとうなづき、身動ぐたびに臀部にひたひたとぶつかっていた国峰の熱を後ろ手にまさぐり、ゆるりと握った。きゅっと、三白眼が歪む。  「……こっち、も、する?」  動きの止まった指を口から引き抜き、あ、と口を開けてそう問うと、国峰は目を眇めて苦しげに笑んだ。  「……させて下さい、の間違いでしょ」  物欲しそうな顔して、と言い様、唾液に濡れた指先がつと大園の輪郭をなぞった。  「……大園さんて、名前、なんですか?」  下の名前、と国峰が言った。ああ、と思う。そういうのが好きなタイプ。  「……優一」  まあでも、それで気分が上がるのなら、お互いに悪くないと、そう思う。乱されたくて、こうしている。ひとときの快楽が、ここでは全て。  「……優一さん……俺、春人なんで、」  ハルって呼んで下さい。  桜色に染まった目元をじっと見つめて、ハルと呟く。ハル。春。ふわりと、男が笑う。一瞬前の仄暗い興奮が瞬間、甘やかなときめきに変わる。こなれた仕草も言動も、可愛いからは程遠い。程遠いのになぜか。やっぱりちょっと可愛いんだよなと、脳の中の溶けきらない部分でそう思う。昼の大園が顔を出す。けれども、夜が支配する影の世界は光よりもずっと濃密で重く深く、濡れた指先がゆるりと動き出せば直ぐに、この可愛い年下の男にぐちゃにぐちゃにされたいと望む声が内から溢れ、快楽を覚えさせられた身体はひたすらに赤黒い興奮を求めて震え出し、春という音の響きは一つの記号になって、夜の沼に沈んだ。

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