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第2話

 ビルの入り口の透明な自動ドアが開いた瞬間、ヒヤリと吐き出された冷気に大園は知らず息をついた。七月に入ってからの二週間、天気予報で伝えられる最高気温は日々右肩上がりで、今朝、いよいよ30度を超えた。いや……まだ30度、だ。駅から本社の入ったビルまで徒歩10分。大した事はない距離なのだが、40度越えが度々見られるようになった昨今の夏は、朝の10分が地味に辛い。とはいえ周りを見回せば、出勤時間帯のロビーは老若男女が群れをなして移動しており、一様に感情の抜け落ちた表情で進む彼らの中に自分を見つけて、独りではないという安堵と、この集団の中に在る内は脱落は許されないという緊張が同時に来て、大園はくっと背筋を伸ばした。  「……おはようございます」  そうして、気だるい夏の朝の熱気から逃れて十数メートル、エレベーターホール脇に立つ顔見知りの警備員に挨拶をして笑顔を向ける頃にはもう、頭の中では今日のスケジュールを追いかけ始めており、たくさんの人に混じってオフィスフロア直行のエレベーターを待つ大園は、数多いる大都市のサラリーマンの一人だった。  「……優一さん?」  予定調和にノイズが混じる。夜が、侵食する。この場にあるはずのない、音。声。はっとして振り返ると、そこには。  「あ……すごい、偶然ですね。雰囲気違うので、最初分からなかったです」  普段メガネなんですか?と無邪気に問う男を見返し、一瞬、言葉を失う。3週間前の夜、二丁目のバーで見かけた時と寸分たがわぬ姿の男が、そこにいた。確か、国峰。国峰春人。三白眼で柔らかに笑む、若い男。  ー……優一さん……  切羽詰まった声で、囁くように、何度も呼ばれた。何度も、何度も。ぞわりと首の後ろが粟立ち、大園は僅かに身を震わせた。  ピンポンと、エレベーターの到着を知らせる音が鳴り、集団が動き出す。どんとぶつかる肩。流れに乗り損ねた男二人を迷惑そうに流し見るいくつかの目。朝の匂い。三白眼。異物。  「っ、ちょっといいですか?」  我に返った大園は咄嗟に国峰の腕を掴み、流れに逆らってその体を引っ張った。脳内のスケジュールの一つ目、朝のコーヒーにペケを付け、三白眼をねじ込む。面倒が一つ。  国峰を引きずってエレベーターホールを逆走し、先ほど挨拶を交わした警備員には曖昧な笑みで会釈を送り、とりあえず人のいない場所へと歩き続けて行き着いた先は、奥まった場所にある自販機コーナーのさらに奥に作られた、小さな休憩スペースだった。  ぱっと国峰の手を離し、周囲に人気のないことを確認する。  「……あの、優一さん」  「お、お、そ、の、です。いい大人が変だろ、名前呼び」  「ああ、そうか……そうですね。すみません」  焦りも手伝って、思っていたよりも口調が強くなる。しゅんと俯く国峰を見、少し慌てる。  「いや……そう。そう、一応職場だから。他人の目もあるし」  「……考えなしでした。ごめんなさい」  素直に謝る国峰を見て、ああそうだと思う。最初から素直だった。気になれば遠慮なく聞いてくる。その率直さが好ましいと思ったのだ。  しょんぼりと肩を落とすその姿を前に、大園ははぁとため息をついた。  特定の相手は作らない主義で、だから、夜の相手は適当に見繕っていた。とはいえ誰でも彼でもは怖いから、連絡したらすぐに会える同じスタンスの仲間が数人居て、月に一度、彼らと気ままに遊ぶのが大園のたまの息抜きだった。けれど、あの日は。ちょっと向こう見ずな気分だったのだ。いつもよりも少し疲れていて、いつもよりも少し投げやりだった。年度替わりの昇進が案外、ストレスになっていたのかもしれない。だからちょっと退廃的な気分で、もう若くもない自分に声をかける相手などいないと思いながらも、何年かぶりにナンパ待ちをして引っかかった相手が国峰だったのだが。まさかこんなに近場の人間に手を出していたとは想定外で、慣れない状況に鼓動が早まる。  「……国峰さん」  「はい」  呼びかけると、国峰は犬のような従順さで顔を上げ、大園の言葉を待った。多分、悪い人間ではない。たった一晩の行きずりの関係で、この男がどの程度本心を見せたのかは測りようがない。測りようはないが、何となく、そんな気がした。悪い人間ではない、と思う。こちらを向いた目をじっと見返しながら、大園は一つ息をついて口を開いた。  「……この前のことは黙っててもらえると助かるんだけど」  「え?あ、はい。それはもちろん」  言いませんよと、彼は目を瞬いた。そんな事は言わられるまでもないというその表情に、ほらやっぱりと大園は思う。ほらやっぱり。悪い奴ではない。人を騙せるタイプではない。どちらかと言えば騙されそうなタイプ。素直で人が良さそうなこの男が、本音と建前を器用に使い分ける姿は想像がつかなかった。気持ちが、顔に出やすい。ますます、秘密を共有するには向かないとそう結論し、大園は再度口を開く。  「……で。国峰さん個人にはなんの落ち度もないんだけど、出来れば、俺のことは忘れて欲しい」  「は、い?」  いや待てと、きょとんとした国峰の表情を見て思う。言い方が迂遠すぎるし、第一、俺のことは忘れてくれなんて、なんというか……なんだかメロドラマみたいな言い回しで座りが悪い。やっぱり、慣れないことはするもんじゃないなと嘆息し、もう一度言い直す。  「つまり……俺はクローズにしてるので、もしかしたら知り合いにばれるかもしれないリスクを背負いたくないんです。ので、今度からは会っても他人のふり、を、」  え、と絶句した男の驚愕の表情に驚いて口を噤む。まん丸に見開かれた目玉がこぼれ落ちそうだった。  「……職場では、って事ですか?」  「いや……職場、でも」  「……つまりもう関わり合いになりたくない?」  悲しげに眉が下がる。最初に会った時には気づかなかったが、意外ところころと表情が変わる。感情が全部、そのまま顔に出る。あの夜は確か、ずっと笑っていた。愛想笑いでないとすれば、国峰はあの日、大園との時間を楽しんでいたのだろう。終わりを惜しむくらいには、きっと。  「……国峰さんがどうとかっていうんじゃなくて、俺の問題だから」  こいつが部下ならよかったのにと言いながら思い、そう思ったことに少し驚く。年が同じなら同級生とか、友達の友達とか、そういう出会いでもよかった。そういう出会いならよかった。この関係が終わる事を、残念に思う自分がいる。そういう意味では大園も確かに、国峰を気に入っていた。出会った場所が場所だから、結局あの日はセックスをして別れたのだけれど、飾らずに話す国峰とは一緒に飲んでいる間も結構楽しく過ごせたし、朝は別れが惜しいとすら思ったのだ。次があればまた話したいと思ったのは事実で、考えてみればあの日、また見かけたら声かけてと先に言ったのは自分の方だった。……が、それはあのコミュニティの中での話であって、こういう形はやっぱり、大園の想定外だった。  「……国峰さんも分かるでしょ。こういうのってさ、ちょっとしたとこから広まるじゃない?だからその辺切り分けたいんですよ」  惜しい気はするが仕方がない。平穏な日常のためには、国峰との友情は諦めるべきだ。優先順位は明確で、確かに胸に沸く小さな後悔と罪悪感はあってもそれは、これまでに築いた自身の“普通”の日常と並べたら些事でしかなく、天秤にかけるまでもなく大園の結論は決まっていた。  下唇を噛んで黙り込む国峰から視線を外し、腕時計を確認する。そろそろコーヒーのための猶予も尽きる。国峰の視線が自分に注がれているのを知っていた。わざとらしく時計を見たのはだから、これで終わりという意思表示だった。これからどうするかはもう決まっている。”時間だ”と呟いて国峰に視線を戻す。そうして笑顔で言う。”この間はありがとうございました。さようなら”。それで、終わり。終わらせる。終わらせなければならない。この平穏を、守るために。  「……ただの友達、ならいいんですか?」  「……はい?」  時間だ、と口にしかけたところで、国峰が唐突に言った。出鼻を挫かれ、間の抜けた声が出る。思わず顔を上げると、国峰は、友達になりましょうと続けた。  「飲み友達、とか?別に、それならいいでしょ。大園さんが隠したいなら、絶対、それらしい言動はしません。俺、人間関係?そういうとこ結構器用なんで、絶対大丈夫です」  だから、友達になって下さい。  呆気にとられた大園の前に、ね?と小首を傾げた国峰が、握手を求めるように手を差し出した。話すうち国峰は少しづつ笑みを深めたが、その声は、笑顔とは不釣り合いに切羽詰まっていた。差し出された手が震えていた。少し考えればその提案は滅茶苦茶で、”さようなら”を呑み込む理由になどなり得ないのに。満面の笑みで差し出された微かに震える手のひらを握り返してしまったのはただ、強がる彼の震えを止めたいという、その一心だった。  「国峰くんてさ、良くわかんないよね」  「はい?」  案内された席に腰を落ち着けた瞬間、不満顔の大園が口を開いた。  「今朝はなんか必死で可愛かったのに、ちゃっかり昼にはお誘いメールしてくるし、割と強引だし、店は予約済みだし、さらっと上座に座らせるし、ドリンクオーダー済ましてるし、上着もちゃんとハンガー掛けてくれて」  エスコート完璧、と肩を竦めた大園は真顔で、何を考えているかいまいちよく分からず、国峰はとりあえず口を開く。  「……善は急げが信条なので、折角だから早く飲み友達の既成事実を作っちゃおうと思って。あとは……社会人の基本、ですか?」  「……ああそう」  自分で訊いておいて興味なさげに応じ、大園は隅にあった灰皿を押して寄越した。  「あ、吸わない人ですか?」  「吸わない」  全く隠す気のない不機嫌が、口調から仕草から滲んでおり、失敗したかなとちらりと思う。昔からそうなのだ。押しすぎて失敗する。こうしたいと思うことがあると、止まれなくなる。  でも。でもと思う。大園さんだって悪い。嫌なら断ればよかったのだ。友達になろうという誘いも無理やりではなかったし、連絡先もごまかせたし、メールには返事をしなければいいし、約束だってすっぽかせばよかったのだ。はねつけるつもりならいつでも出来た。それをしなかったのは、だから、大園の責任だ。  「ビールお二つ、お待たせしましたー」  受け取った灰皿をテーブルの隅に押しやったタイミングで、最初に頼んだ生が二つ運ばれてきて、落ちかけた気持ちがふわりと上がる。仕事上がりのアルコールは格別。しかも今日は平日ど真ん中で、何もなければ飲みに来る事はないはずの日にこうして飲めるのは、大園が誘いに乗ってくれたおかげでもあった。ジョッキから向かいの男に目を転じると、主賓の彼は相変わらず無感動な目をビールに向けていた。国峰は様子を窺うのを止めてジョッキを掴み、いいやと胸の内に呟いた。いいや、もう。退屈だろうが不満があろうが、大園は来てくれたのだ。折角来てくれたのだから、楽しまなかったら勿体ない。  「はい。じゃあ、乾杯しましょう」  努めて明るく声を出し、ジョッキを大園に差し向けると、その機微に気づいたらしい男は一瞬、ちょっと申し訳なさそうに眉を寄せた。あれ、と思い窺うと、ほんのひと時垣間見えた罪悪感はすぐに不機嫌にとって代わり、そのくせぼそりと乾杯と返すその表情はどことなく居心地悪そうで、もしかしてと国峰は思う。もしかしてこの人も、言うほど嫌ではないのかもしれない。  きゅっとジョッキを傾けて、さらさらと喉をゆく刺激を感じながら、そうだといいなと、国峰は思う。大園さんも、俺と話したいと思ってくれていたらいいな。  今朝、大園を見つけた時、国峰は嬉しかったのだ。髪をきっちりと固めて眼鏡をかけた大園は、初めての夜とはあまりにも様子が違っていて、最初は見落とした。気がついたのは、彼が声を発した時だ。  ーおはようございます  品のある柔らかな響きは、じっとりと重たく湿気った外気に不釣り合いな涼やかさだった。  駅からずっと、同じ背広の後ろ姿を追いかけていた。たまたま同じ改札を通り、同じ道順で、同じビルに入った。改札を前後で抜けた相手の行き先がたまたま同じだったということは多分今までにもあったのだろうが、今朝はなんとなく気がついて、なんとなく目で追っていた。足取りが重くなりがちな平日の朝を、しゃんと背筋を伸ばして進む姿が素敵だと思った。そうしてなんとなく追いかけていて、その声を聞いた。最初は、ちょっと引っ掛かった程度だった。どことなく聞き覚えがあるような気がして気になったのだ。エレベーターホールで相手が立ち止まり、少し離れて横顔を窺う。それでもピンとこない。綺麗な横顔だった。固めて上げた前髪と、ちょこんと乗った細身のメガネフレーム。むき出しの額から喉にかけての輪郭が、絵のように美しい。綺麗すぎて、隙がない。綺麗。綺麗、という言葉に二度目の引っかかりを覚え、国峰はくっと眉を寄せた。綺麗。若くて、綺麗。そうだ。少し前に、言われた。自分などよりもずっと綺麗な男が、国峰を見て、そう言った。  ー……優一さん?  気づいた瞬間、その横顔があの日の大園と重なり、思わず声をかけた。胸が弾んでいた。また、会えた。  「……ここ、キリンなんだ」  ごくりと一つ喉を鳴らし、とんとジョッキをテーブルに戻しながら、大園がふと呟いた。思わず、といった様子で洩れ出した言葉には不機嫌の色はなく、一瞬の夢想から戻った国峰ははっとして口を開く。  「あ……そうなんです。ここ、生がキリンなんですよ。俺国産だとキリンが好きで。だからこの店はよく来るんです」  この辺アサヒの店が多いから、と締めると、ふうんと、やはり興味なさげに応じた大園の目元が、その時なぜか、微かに和らいだのが分かった。視線がちらりとこちらを向き、すぐに離れる。そうして、一度はテーブルに戻したジョッキをもう一度持ち上げ、更に一口ビールを流し込んでから大園はゆるりと口を開いた。  「……それで?ご趣味は?」  ちょっと睨むような上目遣いで言った男を見返して、国峰は一瞬ぽかんとして動きを止めた。  「……趣味、ですか?」  「そうだよ、趣味。なんか無いんですか?」  「……俺の趣味、知りたいんですか?」  釈然とせず問い返すと、ああもうと大園が唸った。  「友達になるんでしょ。一つくらい合うものあった方が友達らしいかなと思って聞いてんだけど。なんか無いの」  俺ら結構年離れてるし、共通の趣味でもなきゃ仲良く二人で飲んだりしないんじゃないの。  大園の言葉が終わると同時に、お通しですと声がかかり、テーブルの真ん中に枝豆と殻出し用の小皿が置かれた。店員はすぐに背を向けて去って行き、大園は国峰に視線を留めたまま枝豆に手を伸ばし、青々とした鞘を唇に挟んで促すように首を傾げた。  「……趣味、は、フットサルです」  「なるほど。らしいですね……部活はサッカー?」  「中学はサッカーでした。高校は剣道部」  「剣道?高校で始めたの?」  「いえ。小学生の時にやっていて、中学ではやらなかったんですけど、高校に入ってもう一回始めた感じです」  「へぇ……なんでもう一回やろうと思ったの?」  「……なんでだろう……多分、自分で思ってたよりも好きだったんだと思います」  まあ3年のブランクは大きくて、最後まで全然勝てませんでしたけどと笑って見せる。小学校で剣道を始めたのはたまたまだった。通っていた小学校の体育館で剣道教室をやっていて、友達がやるというから一緒に始めた。中学にも剣道部はあったが、何か新しいことがやりたくてサッカーを始め、高校に入ったらまた剣道をやりたくなった。そうして今は、週末にフットサルに通っている。剣道はもうやらないが、試合を見るのは今でも好きだ。試合中のあの独特の空気感は癖になる。枝豆を摘まみながら、大園が言う。  「剣道……って、あんまりちゃんと見たことないな」  「それなら、今度行きますか?結構面白いですよ。夏は全日本学生選手権があって、会場が1年おきに大阪と東京行き来してるんですけど、今年は日本武道館だから、行く、予定で、」  ついいつもの調子で誘いかけてしまい、あ、と思って口をつぐむ。国峰にしてみたら、いつも通りだった。好きなものは共有したい。美味しいものは一緒に食べたいと思うし、楽しい場所には一緒に行きたいと思う。相手が男性だろうが女性だろうが、恋人だろうが友人だろうが家族だろうが、好ましいと思う人と楽しみを共有したいと思うのは国峰にとって当然のことで、別段構えるようなことではない。ただ、大園はどうだろう。大園の考える“友達”はもしかすると、こうではないかもしれない。間違えたかもしれない。多分まだ、警戒されている。最初がああだったから、警戒されても仕方がないとは思う。でも、違う。そうじゃないんだと、国峰は胸の内に呟いた。  あの日は別に、セックスの相手を探すためにあそこに行った訳ではなかった。ただ、あの日。仕事を終えて時計を見たらもう金曜日が終わろうとしていて、帰宅のために乗り込んだ電車の中で楽しげに話す若者達や、仲睦まじいカップルの様子を見ていたら無償に悲しくなって、どうしたらいいか分からなくなったのだ。  一ヶ月と少し前、数年ぶりに父から連絡があった。  ー…………お見合いって……  ーもう先方とは話をしてある  言葉少なにそう語った父に何と言えばいいのか分からず、国峰はただただ沈黙で応じた。  両親にカミングアウトしたのは大学四年の二月だった。俺は、男しか好きになれない。当時付き合っていた相手は、ネットのコミュニティで出会った四つ年上の男だった。国峰のとって初めての付き合いは結構長く続いていて、その頃には二年が経っていた。考えてみれば、あの時の自分はちょっと気が大きくなっていたと、今は思う。四年間の独り暮らしで、根拠はなく、大人になったつもりでいた。実家にいた頃には、この秘密は一生抱え続けなければならないものだと思っていたのだが、付き合っていた相手が家族にオープンにして理解を得ていたことや、コミュニティの他の仲間たちからも上手くやっている話を聞いていたこと、テレビでのLGBTの扱いなど世間的な認識の変化を感じていたことが国峰の背中を押した。  勘違いをしていたと、そう思う。世間が、誰かが、どれだけ優しくても、父が、母が、息子が“普通でないこと”を許すことの保証にはなり得ない。  認めてもらえない事が悔しくて悲しくて、国峰は結局父親と怒鳴り合い、そのまま家を飛び出した。いい年をして涙が止まらなかった。なぜ、と思う。どうして、理解してくれないんだろう。どうして、分かってくれないんだろう。俺が俺らしくいようとする事は、こんなにも責められなければならない事なのだろうか。俺の“普通”はそんなに異質だろうか。許されない事だろうか。家族と拗れて戻った国峰は結局まだまだ全然子供で、同じ境遇で家族とも仲の良い彼を見続ける事が出来なくなり、彼との付き合いも間をおかず終わった。  あの日家を飛び出してから一度も実家には帰っていない。妹たちや母からは折々に連絡があり、全く関係が絶えたわけではなかったが、父とは、それ以来一度も話をしていなかった。その父からの数年ぶりの連絡が、見合い話だったのだ。結局、その話は母を通して断りを入れてもらい、父には相手にも迷惑がかかるから今後は止めて欲しいという旨をメールで伝えた。  『父さんはいつか治るものだと思っているかもしれないけど、俺は最初からこうだったし、俺自身にももうどうしようもないんだよ』  精一杯、言葉を尽くしたつもりだった。感情的にならないように。責める言葉にならないように。けれども、父からの返事はなかった。母はそこまであからさまではない。ただ、落胆は見えた。もしかしたら。いつかは。その考えは多分、母も同じだ。分かって欲しい。大切だから、大事な人たちだから、余計に。分かってもらいたかった。自分が“普通”でないことは、自分自身が一番よく分かっている。どうして普通じゃないんだろう。どうして普通になれないんだろう。ずっと、苦しかった。初めて自覚したその日から、ずっと一人で思い悩んできた。仲間を見つけて恋をして、それでもやっぱり、苦しかった。ずっと、苦しんできた。それなのに、どうしてまた苦しめるんだろう。お前はそれでいいと、一言そう言ってくれるだけでいいのに。それだけで救われるのに。  考え始めると苦しくて、苦しすぎて、どうしても誰かと話したくなった。なにも隠さない自分のまま、俺を責めない誰かと。そうして、大学時代に仲間が教えてくれたバーに数年ぶりにふらりと立ち寄り、大園に出会った。声をかけた理由を問われれば、ただなんとなく目が止まった、としか言いようがない。ただ、週末の浮ついた空気に満ちた店内で、大園の周りだけが何故か少し沈んで見えて、その沈痛さが、国峰の胸の曇りに共鳴したような、そんな気がした。大園にしたら、何と言うことのない出会いの一つだったのかもしれない。寄せては返す波のように、ひととき触れ合っては泡になって消える数多の出会いの中の一つ。日々塗り重なる思い出に覆い隠されて消えて行く、刹那の邂逅。でも、国峰は。あの日確かに救われたのだ。否定も肯定もない。構えたところのない大園の態度に、救われた。ああ、ここでなら。ここでなら、俺は普通でいられる。世間一般の普通の範疇ではなくとも、親に認められなくとも、ここであれば、国峰春人はごく普通の、一人の人間だった。  だから、会社で大園を見つけた時、国峰は本当に嬉しかったのだ。純然たる国峰春人を知る人が、こんな風に日常を送っている。こんな風に、目の前に現れる。それがすごく、嬉しかった。そんな彼を手放したくなくて、食い下がった。  「……それいつ?」  「はい?」  掛けられた声に反応して知らず落ちていた視線を上げると、大園は喉を反らせてジョッキを空にするところだった。  「……剣道。いつあんの?予定どうだったかなって」  そう言って、空いたジョッキを静かにテーブルに置くと、連れてってくれんでしょと首を傾げた。  「あ……剣道、」  まさかこんな風に乗ってきて貰えるとは思わず、言葉に詰まる。そのまま一瞬フリーズした国峰から、ついと大園の視線が外れる。あ、と思い、思わず手が出た。  「すいませーん。生一つ……て、何?国峰くんもいる?」  中途半端に伸ばされた国峰の手を一瞥し、賑やかな店内で声を張り上げた大園がトーンを落として問う。  「……あ、はい……じゃあ、俺も生」  国峰の言葉を受けて、やっぱり生二つと言い直す大園の横顔を見ながら、そろりと手をひっこめる。大園が目をそらした時、どこかへ行ってしまうと、咄嗟に思って不安になった。引き留めようと伸ばした手が大園の指に触れる直前、触ってはいけない気がして手を止めた。……友達って、どんな距離感だったっけ。  「……で、いつ?」  自分のジョッキをテーブルの隅に押しやって大園はもう一度そう訊ね、国峰は何故かほっとして、汗をかき出したジョッキの側面を指でなぞりながら口を開いた。  「……確か、再来週だったと思います」  「再来週なら空いてる」  また近くなったら教えてと、不機嫌の振りを辞めた大園が言う。どきりと胸が鳴る。もっと、知ってくれるのか。振る舞いたいように振る舞っていいのか。この人になら、見せてもいいのか。この人は臆せずに知ろうとしてくれる。分かろうとしてくれる。表向きの国峰も、“普通”ではない国峰も、全部知って受け取ろうとしてくれる。受け止めようとしてくれる。ここ数ヵ月、いつにも増して重たく濁っていた胸の内がふわりと軽くなる。悲しみが、苦しさが、大園の前に溶けてゆく。

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