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第5話

 静まり返った部屋に、チャイムの音が響く。訪ねてくる相手などほとんどないから、チャイムの設定音量は常に絞ってあり、それほど響かないと踏んでいたのに、静けさの中で聞く電子音は思っていたよりも耳障りで、国峰は僅かに肩を揺らした。間接照明だけをつけて開け放った窓から、時折吹き込む風は温い。視界の隅で、玄関モニターがぼんやりと光った。無為に見つめていた真っ暗なテレビから斜め上に視線を転じ、壁掛け時計で時刻を確認する。夜光塗料でぼんやりと浮き上がった針は午前二時を指していた。足の低いソファに沈み込んだ身体を動かすのが億劫で、そのまましばらくぼうっと時計を眺める。滑らかに動く秒針が、くるりくるりと時を刻む。一分、二分。チャイムの主は分かっている。国峰が呼んだ。ただ、来るか来ないかは微妙なところだった。大人しく来るのかと、そう思う。呼ばれれば、大人しくやって来るのか。  大園からメールが来たのは二時間ほど前だった。  『やっぱり、ただの友達は無理』  簡素な文面だった。ふうんと思う。  今日、駅前でたまたま見かけた大園はスーツの一団に囲まれており、職場の飲み会かとすぐに当たりがついた。別に、声をかけるつもりはなかった。一日働いている内に国峰は少し冷静になっていて、考えてみれば大園には国峰自身の考えを伝えたことはなかったと思い至った。大園にしてみれば国峰の反応はやや唐突だったかもしれず、そう考えると、自身の態度は失礼だったのではないかと反省もした。だから、暫くは少し距離を置いて、ちゃんとしてから謝ろう、ちゃんと謝って、もう一度友達をやり直させて欲しいと頼んでみようと、そう考えていたのだ。しかしその決意は、漏れ聞こえた一言に揺すぶられて、あっけなく弾けた。  ーでも大園さん、あんまり遅いと彼女怒るんじゃないですか?  大園よりも少し若そうな男が、そう問うているのを聞いた。そうして、それにごく自然に応じる大園の姿を見、頭に血が上った。ああ、この人は。この人は、平気で嘘がつけるのだ。こんなに簡単に、他人を騙す。腹が立った。ヘラヘラ笑って嘘をつく大園に。何も疑うことなくそれを信じる彼に。大園を信じたいと願う自分に。腹が立った。  ー優一さん  呼び掛けに応じてこちらを向いた表情が歪む。つきりと、胸が痛む。痛みはしたが、その痛みは無視して思う。結局、この人はこういう人なのだ。自分の保身のため、他人を偽る。この人はきっと、誰のことも信じない。俺のことも信じてなどいない。今だって、ほら。名前を呼んだ。ただそれだけで、あんな顔をする。何を言うつもりだと、身構える。恐ろしいものを見るような目で、俺を、見る。  どういう意味だと、父が言った。男しか愛せない。そのままの意味だった。他に、どのようにも言いようがない。だから多分、結婚は出来ない。大園の家が途切れるのは申し訳ないから、妹たちのどちらかがお婿さんを貰えるといいとは思うけれど、それは俺のわがままだ。ともかく、ごめん。孫の顔は見せてやれないけど、でも、俺はできる限りの親孝行はしたいと思っているよ。就活も頑張ったんだ。きちんと自立できる目処がたったから、こうして打ち明けた。自分がそうだと分かった高校の時からずっと、申し訳ない気持ちがあって、二人には言えなかったんだけど、でもずっと隠しておくのも変な気がして、今日はこれを言おうと思って来たんだ。認めて貰えると思った。許して貰えると、そう思っていた。それなのに。口ばかりがよく回った。もう自分でも、何を言っているのか分からなかった。何十年も過ごしてきた実家のリビングが、あの日は酷くよそよそしかった。産まれた日から今日まで、誰よりも近しいと信じていた両親の、父の、母の、目が。異形を見る目をしていた。何か恐ろしいものでも見るような目が、自分に向いていた。  もう疲れたなと、そう思う。信じることに、信じ続けることに、疲れてしまった。  『じゃあもういいです。でも最後に口止め料下さい』  大園のメッセージにそう返すと、すぐに答えが返って来た。  『なに』  『住所送るんで、今すぐうち来てください。それで、好きなようにヤらして下さいよ』  優一さん、男に突っ込まれるの大好きな変態だもんね。  俺はもう、嫌なやつでいい。理解できない狂った化け物で、いい。  チャイムから五分経った。二度目の呼び鈴はない。ふっと息をついて、国峰は重い腰をようやく上げた。風呂上がりの素足のままリビングを横切り、モニターを確認する。小さな画面の中には、スーツ姿の大園が俯いて立っており、何の反応もないスピーカーの前で五分間ああしていたのかと思うと、少し哀れだった。  「……どうぞ」  オートロックの施錠ボタンを押すと、大園がつと顔を上げた。メガネはしていなかった。今日、繁華街で声をかけたときにはメガネをしていたはずだから、多分、ここに来る途中で外したのだ。見えているのかいないのか、視線は恐らく突然開いた自動ドアを向いており、モニターからは逸れている。  「……九階の904ですよ」  念のために伝える。白黒の画面で分かりにくいが、大園は結構酔っているのかもしれない。動きが緩慢で、目が虚ろだ。ぼんやりとした視線を此方へ向けた男はそれから暫く身動きせず、国峰の言葉にも応答はなかった。折角開けたドアが閉まってしまうのではないかという程の間大園はそうしており、その後ゆうるりと視線が自動ドアから外れ、国峰の見ている画面の方を向きかけたが、目が合う前にモニターを切った。入れなかったのならそれまでだし、そんなことを心配してやる必要もないと、そう思う。真っ暗なモニターの前で暫く突っ立っていると、玄関扉の外でエレベーターの扉が開く気配がした。かつん、かつんと、足音が続く。かつん、かつん。足音はゆっくりと、こちらに近づいてくる。かつん、かつん、かつん。ぴたりと、足音が止まる。自然、視線が玄関に向いていた。扉の前に、大園がいる。  ピンポーン、ともう一度チャイムが鳴った。今度は迷いなく、すぐに扉を開いた。  「……俺、今すぐって言ったんですけど」  「……準備してたら、遅くなった」  何の、なんて聞くまでもない。そのために呼んだ。そのために呼んだのだけれど。染み付いたアルコールとタバコの臭い。固めた前髪が乱れて、束になった髪が一筋、額にかかっている。突然の呼び出しに“準備をしてきた”と宣う手慣れた男に、怨めしさがこみ上がる。汗ばむ腕を掴んで玄関に引きずり込み、ばたりと閉じた扉の内側に大園の身体を押し付ける。アルコールで弛緩した身体は国峰の手によって無抵抗に振り回され、背中と一緒に肘を思いきりぶつけたらしい大園はぐっと呻いた。そうして、何か言いたげに口を開いた大園の胸を強く押し込んで黙らせ、耳元に口を寄せた。  「……彼女放っぽって、ケツの準備してんですか?」  近づくと、タバコとアルコールの向こうから、嗅ぎ覚えのある体臭がふわりと匂った。一月半前、国峰は確かに、この男を抱いた。  「……彼女なんていない」  ぼそりと、大園が言う。不意に興が削がれて、国峰はすいと身を引いた。嘘つき。  「……でしょうね。あなたみたいな人が、女の人抱けると思わないですもん」  そうして身を翻しかけて、玄関の鍵を閉め忘れたことに気づき今一度ドアに向き直って鍵に手を伸ばすと、扉の前で未だ動き出せずにいた大園が、びくりと肩を揺らした。その挙動を見て、国峰はふっと息をついた。  「……別に、取って喰おうってんじゃないんですから、そんなに警戒しないで下さいよ……これ、同意でしょ」  そんなにびくつかないで下さいと言う自分の声は笑っていて、こんな状況でも習い性のように出る笑顔を薄気味悪いと思いながら、かちゃりと鍵を回す。扉に張り付いたままの大園に上がってくださいと声をかけ、自分は元いたソファに戻りテレビの電源を入れる。何度かチャンネルを切り替えて手を止める。流れ出したのは、ひたすら風景だけを写し続ける深夜帯の時間繋ぎ番組で、鳥取砂丘をラクダが2頭ゆったりと進む様を引きで写した映像が流れており、画とは一切関係ない静かなBGMが物悲しい響きを孕んで薄闇に響いた。特に面白味があるわけではなかったが、場繋ぎの音をテレビに求めただけの国峰はそのままその映像に見入り、視覚も聴覚もそちらに割きながら、意識は鋭敏に大園を向いていた。扉の前の男が動き出すまでには、それからまたいくらかの時間が必要だった。  「……風呂だけ貸して欲しいんだけど」  「どうぞ。その奥です。タオルは風呂場にあるの適当に使って下さい」  部屋の奥を指差して応じ、すぐにテレビに視線を戻すと、少しの間を置いて大園が動き出し、足音を立てずに部屋に上がり、何も言わずに風呂場に消えた。大園が動く度ガサガサと鳴るのは手に下げたビニール袋で、24時間営業のドラッグストアチェーンの名前が入った黄色い袋には、手慣れた彼の小道具が入っているに違いなかった。  映像が、砂漠から華厳の滝の荘厳な風景に切り替わると同時にシャワーの音が聞こえ出し、流れる水音を片耳に聞きながら、テレビでは切り取られてしまった滝そのものの奏でる轟音を夢想した国峰の意識はそこで少し遠くへ飛び、幼い頃、家族旅行でこの場所を訪れた時の記憶を再生した。  春人と、笑顔の母が展望デッキの先端で国峰を呼んだ。一番下の妹はまだ小さくて、母の背中におぶわれてすやすやと寝息を立てていた。父は母の隣ですぐ下の妹を抱き上げて滝を見せており、国峰が走り寄ると、次は春人の番だと楽しげに言った。早く早くと囃す国峰を妹と交換で抱き上げて、父は言った。ほうら、大きいだろう。お父さんよりずっと大きいと国峰は言い、父は声を上げて笑った。自然の大きさにはとても敵わないよ。人間はちっぽけだ。お父さんも?春人よりは大きいけど、自然と比べたらずっと小さい。じゃあお父さんも、また子供だね。そうかもしれないと、あの時多分、父は言った。  がたりと物音がして振り向くと、濡れ髪の大園がワイシャツとスラックスを着込んで立っており、ネクタイまではしていないものの、風呂上りには不釣り合いなその格好に国峰は薄く笑った。冷水でも浴びたのか、先程よりも視線はややはっきりとしており、振り返った国峰と目が合うと、着替え買い忘れたと肩を竦め、それから不自然に目を逸らした。  「……別に、貸しますよ。サイズそんなに変わんないでしょ」  答えながら立ち上がり、ひたりひたりと大園に向けて歩を進める。近づく度に視線は落ちるが、彼はそこから動かなかった。  「……けど、取り合えずいらないですよね」  服、と呟いて至近距離に立つと、大園からは石鹸が香った。並んで真っすぐに立つことなどなかったから今までは気にもしなかったが、身長は大園の方が多少低いことに気づく。とはいえ、さほど変わるわけではない。180に少し欠ける国峰の視線の先、逃げることも近づくこともしない大園の項を見下ろしながら、その胸にひたりと手のひらを当てる。じりと、大園が一歩、足を引いた。  「……口止め、するんでしょう?」  逃げちゃダメですよ。  胸に当てたのとは逆の手を腰に回して引き寄せると、大園は背を逸らして距離を取った。胸に当てた手から、薄い布越しの体温と心音が、指先を伝って流れ込む。とくりとくりと、鼓動が早い。さわりと小さく指を動かすと、顔を俯けた大園の吐いた熱い息が、手首に触れた。人差し指と親指で、ボタンを一つ、ぷちりと外す。大園が、また少し身体を引いた。国峰は腰を抱えた腕に力を込めてそれを許さず、人差し指で前立てをなぞりながら、ゆっくりと一つ一つ、ボタンを外していく。  「……今日は、俺の、好きにして、いいんですよね?」  ボタンを一つ外す度、一言一言区切って囁く。濡れた髪が唇に触れる。そのまま額に唇を寄せると、濡れて束になった前髪が一筋唇を割り、髪を伝って流れ落ちた滴が一滴口内を濡らした。舌先に触れた水はひんやりと冷たい。布越しの肌は、湿り気を帯びた空気よりもずっと熱い。大園が逃げるせいで触れ合わない上半身も、風呂上がりの身体から立ち上る熱が湯気になって発散され、空気を通じて国峰に触れていた。腰を抱えた手のひらや、ぴたりと張り付いた腹の辺りは、火傷しそうな熱さだった。  ボタンを全て外し終え、シャツの裾を抜き取る。そうして裸の腹に手のひらを当てると、その熱はさらに明確になり、燃えるようだと国峰は思う。皮膚の下で、マグマが燃えている。腰を抱く手に力を込め、マグマを包む薄い肉にぐっと指をめり込ませると、敏感な大園はふるりと身を震わせて、唇から熱を溢した。  「……ベッド行きましょう」  腰に回した腕を外し、大園の手を取る。腕を引いてリビング隣のベッドルームに彼を招き入れ、扉を閉めた。決して広くはないベッドルームは、ベッドで部屋の三分の二が埋まっており、ベッドの他には小さなサイドテーブルと、うすぼんやりとオレンジの光を揺らめかせるベッドサイドライトがあるだけで、カーテンを閉め切って冷房のついた部屋はリビングよりもさらに一段暗く、快適なはずの気温をうす寒く感じたのは多分大園も同じで、扉を閉めた瞬間、つないだ手からぶるりと小さな震えが伝わった。  「……ここ、立って」  その震えが伝播するのを防ぐため、国峰はぱと大園の手を放し、俯いたままの男を扉の前に立たせて、自分はベッドに腰を下ろして足を組んだ。  「……その服でベッドに乗られるのは嫌なので、自分で脱いでこっち来て下さい」  命じる声の冷たさに驚く。大園が顔を上げてこちらを向いた。痛め付けたいと望んでいた。父と同じ目を自分に向けるこの男を、痛め付けたい。苦しめたい。苦しめて詫びさせたいと、そう思った。あの目を自分に向けたことを、泣きながら詫びればいい。自身の身の内にこれほどの嗜虐性が眠っていたことを、今この瞬間まで、国峰は知らなかった。  「早く」  すぐに動かない大園を急かす。初めて身体を重ねた時の様子を思えば、この程度、彼には大した事ではないかもしれないとも思ったが、意外にも大園の動きは緩慢で、未だ一つも衣服を乱さない国峰の前でベルトに手をかけた時、瞬間見せた羞恥の表情にぞくりとする。それでも、その羞恥を一瞬で無感情に塗り替える大園はやはり場慣れしており、彼の経験の中にこういう遊びもなかったわけではないのだと邪推して微かな苛立ちを覚え、国峰は小さく舌打ちした。すると、その音に反応した大園がぴくりと肩を揺らして動きを止め、国峰の胸にじわりと、不穏な歓びが広がる。男は今、国峰の支配下にある。  「……手、止まってますよ」  声に滲む愉悦を抑えきれずに囁くと、大園はすぐに動きを再開した。言われるがまま、身にまとった衣類を一つ一つ脱ぎ落す男を見、口元が笑みの形に歪む。さらりと脱ぎ落とされたシャツの下の身体は、きちんとメンテナンスされて美しい。先日飲んだ時には、35を超えてから体系維持が難しくなったと話していたが、そんな苦労など一切感じさせない、綺麗な体つきをしている。  「……こっち来て」  紺のボクサー一枚になった大園を呼ぶと、彼は黙って近づき、少し離れた位置で立ち止まった。体側に力なく下ろされた手を引いてもう一歩引き寄せ、ベッドの上から見上げると、俯いた大園は羞恥と恍惚が混じった目をしてこちらを見下ろしており、国峰は思わず笑った。  「……優一さん、恥ずかしいのも好きなんですね」  綺麗に纏った偽りの下には、どろりと歪んだ素顔がある。暴きたいと、そう思う。

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