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第7話
冷蔵庫から取り出した1.5リットルのボトルに直接口をつけ、冷えた水を喉を鳴らして飲み下す。シャワーで流れた汗と一晩の渇きは尋常でなく、半量ほどを一気に干して息をつくと、夜から開けっぱなしの窓から差し込む目映い日差しに眩暈がし、国峰は壁に肩をもたせかけて目を閉じた。時刻は既に昼を回っており、半日じっくりと熱せられた室内は茹だるような暑さで、寝不足と疲労と混じり合った熱は国峰の脳をどろりと溶かし、ひどく気分が悪かった。身体の汚れは、熱いシャワーを浴びればあっけなく流れる。どんなにひどい汚れも、さらさらと流れる透明に洗われて、跡形もなく消えてしまう。けれども、胸の内にこびりついた澱はそう簡単には消えない。消えてくれない。ベッドルームには大園がいる。まだ暫くは、目を醒まさないだろう。
昨夜は夜通し、大園の身体を貪った。言われるがままの大園を見て気分が良かったのは最初だけで、どれだけ辱しめても一切拒否せず受け入れるだけのその姿に腹が立ち、途中からは大園の反応など気にもせず、怒りに任せて肉を打ち付けるだけの行為だった。自分が何度達したかも覚えておらず、大園に関しては、最初に足で触れて以降彼の中心には一度も触ってやらなかったから、どうなっていたのかは知らなかった。自分がいつ眠ったのかも分からなかったが、目が覚めたときには、大園は腕を拘束されたままこちらに背を向けて寝息をたてており、肌に当たるシーツはじっとりとしていて、部屋にこもった青い臭いが、昨夜の情事を物語って生々しく鼻についた。どんよりと重い身体をなんとか起こして、足と背を折り曲げて丸まった男を見下ろすと、昨晩、勢いに任せて国峰がつけた痕が全身に広がっており、遠慮なく付けられた鬱血痕やら歯形やらは、カーテンから透ける昼の陽光の下ではただただ痛々しいばかりだった。そろりと手を伸ばし、大園の手首を縛ったスポーツタオルをそっとほどく。起こしてしまうかもしれないという心配は杞憂に終わり、大園は一度だけきゅっと眉を寄せて息を止めたが、すぐに表情は和らぎ、規則正しく穏やかな呼吸音が戻った。ほどいたタオルの下には、肌に布が擦れた痕がうっすらと赤く残っており、国峰は思わず目を逸らした。大園の身体の下のシーツを変えることは諦め、せめてと、足元に丸まっていたタオルケットでその身体を覆い、換気のために窓を細く開けて部屋を出た。
八つ当たりだったと、そう思う。昨日のあれは、完全に八つ当たりだった。
ー……ごめん……ごめん、なさい……
大園が、そう言うのを聞いた。聞いた、気がする。はっきりと覚えている訳ではない。国峰の妄想かもしれない。けれども今この瞬間も、濡れて掠れたその声が、耳の奥にこびりついて離れない。
彼女がいる、という嘘に苛立ったのは事実だ。でも、それだけなら。別に、あんな風にする必要はなかった。嫌なら離れればいい。今までだってずっとそうしてきた。自分を認めてくれない相手とは距離を置いて、理解してくれる人とだけ付き合って。そうしていれば生きやすいことを知っていた。そうしていれば傷つかないことを知っていた。幼い頃の友人の何人かは、国峰がそうと知って離れていった。悲しいけれど仕方がない。こちらが変われない以上、離れていく者を引き留めることは出来ない。俺は、信じた。相手が応えてくれなかっただけ。だからもう、仕方がない。そうやって諦めてきた。例外は家族だけだった。だから昨日、自分は大園と父を重ねたのだと、国峰は思って嘆息した。重ね見てしまった。同じ地平に立っていると信じた相手が、自分を許さない。許さないばかりが、詰りすらする。その事実が悲しくて、腹立たしい。腹立たしくて、苦しい。昨日の苛立ちはだから、父に対しての苛立ちだった。責め立てても戦おうとしない大園への苛立ちは、父になりきれない男に対する苛立ちだった。自身に対立する強大なる力の象徴を組み敷きたいという願望。その嗜虐的な願望を現前させる手段が大園だった。それだけのために、彼を抱いた。
かちゃりと小さな音がして、国峰はぱっと目を開いた。
「……風呂と着替え、貸して欲しいんだけど」
ワイシャツ一枚を羽織った大園が寝室の暗がりからのそりと姿を現した。いい加減に留めたボタン、シャツの裾から伸びる筋張った脚の輪郭、情事の名残のざらついた声。気だるげに首を傾げた拍子に、翻ったワイシャツの襟の隙間からちらりと覗いた鎖骨に散った、真っ赤な印にどきりとし、そのあからさまな残痕から慌てて目を逸らす。
「……シャワー、どうぞ……服は出しておきます」
気まずさから早口に言うと、大園は別段構えた様子もなくどうもと応じ、心持ちゆっくりとした足取りでリビングを横切り風呂場に消えた。足音が途切れて暫くして、ようやくのろのろと顔を上げると、開け放ったままの扉の向こうの暗がりに、乱れたベッドがしんとして佇んでいた。闇に、目が吸い寄せられる。夜は不思議だと、国峰は思う。闇の中では、実像よりも幻影が力を持つ。理性よりも情動が、抑圧した心が、膨れ上がって世界を作る。けれども所詮はまやかしで、朝の光は闇を破り、夜の幻影は掻き消える。日差しの中には、父ではない大園が立っていた。
不意に、リビングの窓から熱い風が吹き込んだ。視線の先のカーテンが大きく揺れて、暗がりが突如、光に満ちる。
ひらりひらりと風に舞うカーテンが、きらきらと華やかな光の粒子を纏って踊っていた。その粒子は眼球から体内に侵入し、ぶつかり合って拡散し、今日は大園と剣道を見に行く約束をしていたはずだという考え一つと結びついて脳内で明滅した。思った瞬間胸が弾んで、国峰は思わず口許を綻ばせた。ちらりと見上げた時計は午後一時を指しており、すぐに動き出せば最終試合には十分に間に合う時間だった。でも、何か食べてから行くつもりならば、大園を少し急かさなければならないだろう。飲み刺しのペットボトルをテーブルに置き、着替えを用意するため寝室に向かう。部屋に入って最初にしたのは、ひらひら舞うカーテンを開け放って、ガラス窓を大きく開けることだった。降り注ぐ光も熱い風も、肌に触れると軽やかに弾み、飛び散って、部屋中に広がって行く。乱れたベットに足を乗り上げて、ベッドの足側にあるクローゼットを開けて中を漁り、パッケージのままストックしてあった未使用の下着、こちらも量販店で大量に購入したパッケージ入りの薄いグレーのVネックTシャツを取りだした。昨日はスーツのまま来たのだから、大園は革靴だったはずだ。出掛けるなら、スラックスは着てきたものをもう一度履いてもらって、Tシャツに……サマーニットのジャケットでも羽織ればそれなりに形になるだろう。ランチはどこで食べようか。大園は連日飲んでいたようだから、軽いものがいいかもしれない。蕎麦屋は駅前に旨いのがあるし、嫌いでなければ、フォーがおすすめのベトナム料理店も知っている。何にしろ、ともかく大園の希望を聞かないことには始まらない。下着とTシャツ、とりあえず室内用にとスウェット生地のパンツを抱えて部屋を出、ワクワクして浮き足立つ気持ちのまま早足に風呂場に向かい、扉の前で大園に声をかけようと口を開いた、その時。
『やっぱり、ただの友達は無理』
目の前に、携帯画面に打ち出された昨夜の文言が唐突に浮かび、国峰は発しかけた言葉を喉を鳴らして飲み込んだ。扉一枚向こうの大園が突然、酷く遠くなった気がして、ふらりと一歩足を引く。急激に口内が乾く。軽やかに弾んでいた気持ちが、音を立てて萎んでゆく。そうだと、突然思い出す。ああそうだ。俺はもう、あの人の友達ではないのだ。“普通の友達”ではなくなってしまった。一時の幻影に惑わされて、自分は一体何をしたのか。
ー……ぁ、止め……っ……も、苦し、
過呼吸のような喘鳴を繰り返す大園に、容赦なく突き入れ、突き上げた。仰向いた男の腹は、どちらのものか分からない精液やらローションやらでぬらぬらと光っており、国峰によって散々こじ開けられた身体は既にぐずぐずで、嫌がって見せる割に、迎える内部は柔らかかった。腕の中の身体はブルブルと小刻みに震えており、大園の言葉はうわ言のような覚束なさで、ほとんど独白だった。
ー……ごめん……ごめん、なさい……
そうだ。確かに言った。あの時、大園は確かに、そう言っていた。ぜいぜいと荒い息の向こうで、囁くように、祈るように、何度も。
ー……ごめんなさい……
ちゃんと、普通でいられなくて、ごめんなさい。
不明瞭な発語で大園は多分、そう言った。涙に濡れた虚な視線はじっとこちらに注がれていたが、その目は国峰を写しているようでその実、現は何一つ写していなかった。国峰を通して、その向こうの何かを、誰かを、見ていた。多分、そうだった。
ー…っ、はぁ
けれどあの時の国峰には大園が見えておらず、だから、その言葉の意味を考えるだけの余裕も気概もなく、ただ男を屈服させる為だけに腰を振り続け、大園の中で達した。達したと言っても、もう出すものも殆どないような状態で、その行為は国峰にとっても苦痛でしかなく、ローションで蕩けた大園の中から抜き取ったコンドームの中には、ほとんど何も入ってはいなかった。もう限界だった。四肢の重さに身体を引かれ、国峰は未だ震え続ける大園の上に折り重なるように倒れ込み、襲いくる睡魔に耐えきれずに目を閉じた。
ー……ゆる、して……
意識を手放す寸前、声を聞いた。
赦して。俺を。
無意識の底からふつりと浮き上がってきた声に、ぞわりと、肌が泡立つ。あ、と小さく声が出た。ぐらりと視界が傾ぎ、腕に抱えた衣類を取り落とす。倒れかけた身体を扉に手をついて支えたが、膝が笑って立っていられず、国峰はそのままずるずるとしゃがみ込み、床に両膝をついて背中を丸め、両手で口を塞いだ。腹の底から沸き上がる絶望の闇が、喉を震わせて口から溢れ出しそうだった。
自分で、壊してしまった。自分が、壊してしまった。知ってくれようとする人を、話せば分かり合えたかもしれない人を、怒りに任せた浅はかな行為で失ってしまった。好きだったのにと胸の内に呟く。呟いて、愕然とする。好きだった。惹かれていた。身体の繋がりなど不要だった。もっと、話をしたいと思った。普通ではない不幸を、その中にもある小さな幸福を、分かち合いたいと、そう思った。それなのに、分かり合う機会を失ってしまった。この手で、屠ってしまった。無くしてしまった。許されたいのは、赦されたいのは、自分だけではなかった。苛む声は、大園にも聴こえていた。国峰の内にあるこの苦しみを多分、大園も抱えていた。
かちゃりと、目の前の扉が引き開けられられ、頭上から、声が降る。
「国峰くん、着替え、っ、」
俯いた視線の先に大園の爪先が入り込み、勢いのまま、出口間近で蹲った国峰に突っ込みかけて、びくりと止まる。驚いて口を噤んだ大園がこちらを見下ろす気配はあったが、国峰は顔を上げなかった。上げられなかった。
「……何、してんの」
つと半歩足を引いて、バスタオルを腰に巻いた大園がしゃがみ込んだ。折り曲げた膝小僧が、視界で揺れた。
「……調子悪い?」
いたわる言葉に息が詰まり、ぶんぶんと首を横に振る。酷いことをしたのはこちらの方で、大園に心配される資格などない。身体が怠いのはむしろ自分の方だろうに。そうかと応じる声に垣間見える優しさが、国峰の後悔を際限なく膨らませる。謝りたい。謝って、やり直したい。昨日から、もう一度。やり直させて欲しい。本当は、縋り付いて詫びたい。けれども今の自分には何を言う資格も無い。それも分かっている。分かっているから、口を塞いで耐える。
「……これ、借りていいやつ?」
大園はそのまま暫く国峰の言葉を待っていたようだが、国峰に話す気がないと分かると小さく息をつき、床に落ちた衣類を指差して問うた。頷き一つでそれに応じると、どうもと言ってそれらを拾い上げた大園が、一拍置いて口を開いた。
「……分かってもらいたいと思うことがいけないとは思わないよ、別に」
掠れた囁きは小さくはあったが、まるでそのために誂えたかのようにすんなりと、国峰の胸に届いた。
「でも、それが正しいかって言われると分からない。受け入れられない人は絶対にいるし、だからといってその人が悪いわけじゃない。価値観の問題」
そういうレベルの話だろ、これって。
価値、と国峰は思う。善悪、良し悪し、正義と悪、金と人情、人生観。普通ではない人間を、受け入れられるか、られないか。
「……この話だけじゃなくてさ、価値観なんて人それぞれだし、正直、分かんないよ。何でも分かると思ってた奴のことがある時全然分からなくなったり、何に対してムカついてるのか全然分かんないのにキレられたり。どんなに近くにいたってさ、別の人間だから。しょうがないよ。しょうがないとは思うけど、」
でも、悲しいよなと大園は言った。分かり合えないのは悲しい。相手のことが分からないのも、自分のことを分かってもらえないのも、同じくらい悲しい。
「……そうやって……生きてれば絶対、どこかで誰かを傷つける」
全く違わず同じ価値観の人間なんて、居るわけがない。だから。
「だから、せめて身近な人には笑っていて欲しいと思う。普通を望まれるなら、俺は普通を見せ続ける」
それが、俺なりの誠意。
それだって正しいかは分からないけどと大園は言葉を締め括り、すっくと立ち上がった。視界の隅の爪先が、くるりと向きを変え、再び扉の向こうに消えた。
「……なんだ、それ」
少しして、扉の向こうから聞こえ出したビニールの袋を開けるガサガサいう音を聞きながら、口を塞いだ手をぱたりと落として、思わず呟いた。なんだ、それ。なんだよ、それ。傷つけたくないから、嘘をつくのか。相手が望む自分であるために、嘘をついてみせるのか。誰も傷つけないために、自分らしくあることを諦めて、他に迎合することを選ぶのか。それは。それじゃああまりにも、報われない。報われないと、思わないのか。意見対立のあるところに、誰も傷つかない方法などあるわけがない。どこかに傷が入る。絶対に、どこかで軋轢が生じる。国峰はだから、他人を傷つけない代わりに、自分一人で傷つく道を選んだのだ。他人を信じないのではない。ただ、他人を大事にしすぎるのだ。自分よりも、相手のために。でも、それじゃあ。大園の気持ちは一体どうなるんだろう。誰が、大園の傷を癒すんだろう。誰も知らない場所で一人傷つき続ける大園の身が癒えることはあるんだろうか。相手に理解できない苦しみを抱えさせるくらいなら、自分一人で悲しみを負う。大園は、そういうやり方をしている。
俺は、そんなことは一度も考えて来なかったと、そう思う。大事に思う相手を理解できない苦しみなど、想像したこともなかった。理解してもらえない悲しみばかり見ていた。自分は自分のことばかりで、相手がどう思っているかなんて、想像すらしなかった。普通ではないという苦しみを、普通という枠組みのせいにして、赦さない人たちを憎んでいた。恨んでいた。でも、大園は違う。抱えて、笑っている。笑顔の仮面の下で、罪の意識に苛まれて、赦されたいと望みながら、誰にも赦すことを強要せずに、一人で。一人で、堪えていた。誠意と、彼は言った。偽りも誠意。確かに。確かにと、そう思う。自己すら欺く偽りを演じ切る覚悟があるならば、偽ることも、また正しい。多分それは、大園なりの優しさだ。
ふと、父の顔が浮かんだ。父は、どんな思いだっただろう。たくさんの愛情を注いで貰った。大事に、育ててもらった。ぶつかることもあったけれど、その言葉の裏にはいつも、国峰の幸せを願う父の想いがあった。浅慮を正す父の言葉に、これまでどれほど救われてきたか知れない。そうして育ててきた息子に突然、男しか愛せないと言われた父は、どんな思いだっただろう。想像だにしなかった言葉を一方的に伝えられた父は、あの時、何を思っただろう。家を飛び出す息子の背中を、どんな思いで見送ったのだろう。そうしてそれから顔すら見せなくなった息子に、数年ぶりに電話をしてきた父の、その内面にあった想いは一体何だったのか。ゲイの息子に見合い話を持ってくる父のやり方は、それでもやはりあんまりだ。あんまりだけれど。父の気持ちを考えもせずに自分を押し付けた国峰自身のやり方もきっと、あんまりだった。もっと、話をすべきだった。もっときちんと、向き合うべきだった。自分自身のことですら、自覚してから受け入れるまでには長い時間が必要だったのだ。それをほんの数時間で飲み込んで欲しいというのは、あまりにも乱暴なやり方だったかもしれない。信頼している。信じている。でも相手を思いやれないなら、それはただの押し付けだ。被害者ぶって他を憎むのは簡単だった。弱者であることを笠に着て、理解しない者を詰るのは簡単だった。切り捨てるのは、簡単だった。残念ではあるが、傷つくことはない。だって、向こうが悪いんだから。罪の所在は相手にあり、自分は何も、身に負う必要はない。でも。でも、と思う。そのやり方は、マイノリティを排除する者たちと何ら変わりない。分かり合えないのは、相手が分かってくれないから。相手が、普通ではないから。傲慢な理屈だ。醜く肥大した自意識。悪意なき加害者。俺も、同じ。
その時、窓の外で、プァーッと大きなクラクションの音が鳴った。続く、ブレーキ音。誰かの怒鳴り声。そうしてまた、静けさが戻る。国峰はゆるりと顔を上げ、窓から見える青空に目を転じた。
いや、違う。そうですらないのだ。そうですらなかったと、国峰はふと思う。価値観の問題とするならば、自分のこれはもっと悪い。主義主張には芯がある。自分なりの芯がなければ、主張することなど出来はしない。考えてみれば自分には、押し付ける価値観すらなかった。何よりも自分が、自分を認められないでいる。その事実から目を背けるために、自身を肯定する他者を求め続ける。図星を刺されるのが怖いから、否定する相手を拒み続ける。
本当は分かっている。よく、分かっていた。
ー普通じゃないのはこっちなんだから
大園のしんと凪いだ目が、国峰を写して揺らめいていた。その通りだと思った。その通りだ。普通でないのは、俺の方だ。
どろりと、胸の奥から青黒いヘドロが湧き出し、水田の泥水に足を踏み込んだ瞬間に似た悪寒と怖気が内から広がり、国峰はぞわりと体を震わせた。汚泥が内から浸潤し、ぬらりぬらりと内臓を嬲り、青紫のアザを皮膚に浮かび上がらせた直後、腐った果実が崩れるように、表皮が崩れてどろりと溶ける。異臭がする。皮膚という皮膚が溶け崩れて泥になり、ぼたぼたと全身が溶け落ちる。スライムより悪い。下水の底のヘドロ。異臭を放つ、醜悪な生き物。
「……気持ち悪い……」
気づくと、そう呟いていた。
気持ち悪い。
本当は。本当は、ずっと嫌だった。男が好きな自分が、嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかった。受け入れられてなんていない。今も、今でも、本当は、こんな自分が嫌で仕方がない。歪な生き物。受け入れられないのは当然だと、国峰自身がそう思っている。誰よりも自分自身が、自分を否定し続けている。離れていく人の背中に、自分自身を重ねていた。本当は自分が、一番自分から逃げたがっていた。自分が一番、自分を否定していた。どうして俺は俺なんだろう。もっとありふれた、普通の形をしていたら良かったのに。なんでこんなに歪なんだろう。どうして、正しい形でいられないんだろう。だから。だから、誰かに肯定してもらわなければ居られない。自分ではどうしたって、赦すことができない。誰かの肯定が無ければ、自分という形一つ保てない。この皮膚は、他人に与えられた仮初の入れ物だ。中に汚泥を詰めたずだ袋。今日までの人生はだから、赦されるための足掻きだった。他者からの肯定を得るための祈りだった。赦され続けることでしか、自分の存在を認めることが出来なかった。赦され続けなければ、ここに居続けることは許されなかった。
どこかの部屋から漏れ聞こえていたテレビの音が突然、どっと大きな笑い声に変わる。扉の向こうから、微かな衣擦れが聴こえる。遠くで、パトカーのサイレンが鳴っている。
父はいつだって正しかった。
大園の纏う偽りには熱が通っていて、国峰の真実は、冷たく冷えて澱んでいる。他人を気遣う余裕など、あろうはずもなかった。
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