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第108 病中の甘え 9

ククッと笑いながら手元近くに落ちていた1枚の書類を、ギガイが拾い上げていた。 「お手間をお掛けし、申し訳ございません」 差し出された書類にリュクトワスが手を伸ばす。相変わらず笑いを堪えたような主を前に、受け取るリュクトワスの顔もヒクヒクと引きつったままだった。リュクトワスがいくら日頃は冷静沈着で聡いタイプだったとしても、レフラのとった行動は予想さえも出来ないような振る舞いなのだ。それに加えて記憶にほとんどない主の本物の笑顔。そんな一連の状況にどう振る舞うべきか。常に傍に居る自分でさえ、動揺して答えを決めかねている状態だった。 そんな自分の様子など筒抜けなのか、笑いを収めたギガイの口角がかすかに上がる。 「さっさと慣れるんじゃなかったのか」 「…鍛錬が足りておりませんでした。精進してまいります」 ギガイの言葉が何を意味しているのか悟れないほど愚かではない。求められたまま、リュクトワスは通常の態度へと振る舞いを戻す。その後でアドフィルも意味をしっかりと察したのだろう。表情をいくらか引きつらせながら、さっきまでの姿勢へと正した。 「急ぎの案件は他にもあるか?」 「私が確認している分は明日でも問題ございません」 そっちはどうだ、とリュクトワスが視線を投げれば、アドフィルも同じだと頷きながら返答を返す。 「それならば今日はここまでにしておこう」 チラッと視線を向けた外は、日が沈んで空に藍が広がっている。星の(またた)きが見え始めた状態とはいえ、いつもより早い時間だったが、こんな状況で珍しいと戸惑うほどに野暮ではない。 ギガイの手が再び傍で眠るレフラの頬を撫でていた。柔らかく細められた目は今までに見た事がないような光を湛えていて、リュクトワスが安堵する。 この主を案じるなどむしろ不遜と咎められかねない事だったが、『壊したと思っていたモノ』と語っていたギガイの様子に案じる所もあったのだ。 (だがあの時にギガイ様が仰っていたように杞憂でしかなかった、と言うことか) 孤高である主の手足と成って付き従うつもりはあっても、その心に寄り添う者は自分ではない。だが誰もが畏れ讃えるこの主の頭を撫でる事さえ出来るこの御饌なら、主の心へ安寧をもたらしてくれるだろう。 「かしこまりました」 「食事はここで摂る。いつものように運ばせろ。あとレフラには消化に良い物を。それから」 そこでギガイが仕方ないとでも言うように、息を一つ吐き出した。そんなギガイの様子にも、またリュクトワスへアドフィルの戸惑った視線が向けられる。 冷酷だと称されたとしても、ギガイは全てを意のままに従わせるような暴君ではない。とはいえ、力が全てとされるこの世界で絶対的な権力を持った黒族の長である事も紛れもない事実だ。そんな主が仕方ないと堪えてまで、何かを受け入れる必要などないはずだった。 「レフラに傍仕えの者と用聞きの者を宛がう事にする。リュクトワスは用聞きの者を誰か手配しろ。傍仕えの者についてはレフラ自身の意向も確認してから指示をする。その際に宛がえるように考えておけ」 だが続いたその言葉に、リュクトワスは『あぁ』と納得した。

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