136 / 382

第136 非常な日常 4 side:レフラ

「ほら、そんなに離れるな」 ギガイが戻って来いと手招きをする。向けられた視線と呼び寄せる声にレフラの身体がピクッと揺れた。 (戻らないと…) 呼ばれているのだから、と反射的にそう思う。いや、むしろ。その腕に戻りたい、本音としてはそう思っていた。だけど腕の中に戻ったら最後、前のように触れられて、恥ずかしい事が待っているのかもしれないのだ。そう思えば素直に応じる事が出来なくて、レフラは戸惑いながらギガイを見つめた。 そんなレフラにギガイの苦笑が向けられる。逡巡したまま動かないレフラに焦れたのか、それとも時間が押しているのかは分からなかった。 「そんなに警戒するな。行くぞ。今日は向こうの大樹の方へ行ってみたいと言っていただろ」 「あっ……」 レフラの視線を断つように、呆気なく踵を返して歩き出した後姿に、レフラは思わず声を上げた。 それは唇から漏れ出る程度の音だった。離れているギガイの耳には、そんな小さな声では届くはずもないと分かっているのに、なぜだかそのまま遠ざかるギガイの背中に不安がどんどん積もっていった。 別に本当に置いていかれたと思ってはいない。今はもうあの頃のように独りじゃないと分かっている。 不安なら呼びかければ良いだけなのだ。今からでも必ず立ち止まってくれると知っている。なんなら今すぐ駆け寄って並ぶだけでも、ギガイはレフラの方を見てくれるはずなのだ。 与えられる優しさがただの気まぐれだと思っていた時から、ギガイはずっとレフラに寄り添ってくれた。独りはイヤだと泣くレフラを、当たり前のように抱き締めてくれてその孤独を癒してくれた。 それなのに呼び掛けようとする喉が詰まってしまうのはなぜだろう。脚だって何かに躊躇うように動かなかった。 そんなレフラの目に、ギガイの背中へ重なってかつての光景が映り込む。 誰もが大切な誰かの所へ帰って行く黄昏時。誰にも興味を抱かれず、誰にも寄り添ってもらえない、供物としてのみ生きた日々。親が子を、妻が夫を、恋人たちが互いの名を、呼び合う声や差し出される腕を、レフラはただただ見つめていた。 使命という名前の下に全ての不遇に蓋をして、温もりも優しさも得る事を全て諦めていたこれまでなら、こんな記憶にも心が乱れたりはしなかった。 だけど慈しまれて甘える事を知った今では、その記憶は怒濤のように感情の渦を押し寄せてくる。 レフラの在り方に刷り込まれたそんな一族での感情が、レフラの行動を竦ませた。 揺らぎそうになる自分の価値に、レフラはギュッと拳を握った。 (だけど言って貰えたんです。唯一無二の価値だって。甘えてもよいと、ワガママだってかまわないと言ってもらえたばかりなんです) 声を上げようとするレフラの喉がひくついた。緊張で喉が強ばって、息苦しささえ感じていた。それでも堪えるなと言ってくれたのだから。 「レフラ?どうした?」 「ギガイ様!!」 後を振り返ったギガイの言葉に一瞬遅れて、ギガイを呼ぶ声が唇から漏れた。ほとんど音に成っていない、そんな掠れた声だった。その上、一気に取り込まれる空気に刺激されて、激しく咳き込んだレフラはこれ以上の言葉を紡げなかった。 「大丈夫か?」 あっという間に距離を詰めたギガイの腕が掬い上げ、大きな掌がレフラの背中を撫でてくる。呼び掛けるよりも先にレフラを振り返ってくれた事も、慌てたように差し出された腕も、レフラの存在を認めてくれた。 振り返ったギガイの腕が掬い上げたのは、ずっと誰かに求められたかったレフラの心そのものだった。

ともだちにシェアしよう!