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第176 誤りを正して 9
「お前が去れば私は周りの者を殺すだろう」
内容とはかけ離れた静かな声が何を言っているのかすぐには理解ができなかった。
「…それは…どういう、意味ですか……」
口の中が乾いていく。
「言葉のままだ」
「それは、去ることは許さないという事ですか?」
そばに居たいと願っていた。それでも誰かの命を盾に取られて、従わされる生き方しか許されない事が悲しくなる。
自分の意思など関係ない、そんなことを言われたようなものなのだ。だが返ってきたのはレフラが全く想像していない言葉だった。
「いや、お前を従わせるための言葉ではない。逆だ」
ギガイの手がレフラの顔を包み込む。愛おしそうに触れる指や久しぶりに見た蜂蜜色の眼光にレフラはますます混乱していくようだった。
「逆とは…?」
「そうならないようにするために、お前が去る時に私を殺していけ」
声は今までと全く変わらず誰よりも優しい声だった。まるで睦言のような言葉を与えてくれた声。そんなギガイの声が今は理解できない何かを言っていた。
湧き上がる怯えにレフラが思わず後ずさる。だけどその分をギガイがすぐに埋めてしまう。そして先日のように逃さないためにか、レフラの腕を捕らえてしまった。
「…仰っている意味が分かりません…なぜ私がギガイ様を殺さねばならないのですか……」
「お前以外に私を殺せる者がいないからだ」
「そもそもなぜギガイ様が死ななければならないのです…」
「そうしなければ、まず間違いなく黒族は滅ぶぞ」
「…なんで…」
身体がもう震えていた。その震えは掴んだ腕から確実にギガイの方へ伝わっているはずなのに、腕を放す気も会話を止める気も全くないようだった。
「あれを見てみろ。先代の御饌である母と先代の黒族長であった父の墓だ…」
指が示した先には何の刻印もないただの石が2つあった。揃った2つのサイズだけが、人工的な物だと教えるようなあまりに質素な物だった。
「母は病で亡くなったらしい。そして父は私が殺した」
「ギガイ様が、殺した……」
呆然と呟いた自分の声が遠くから聞こえてくる。
「あぁ。自分の御饌を失って、もう正気が残っていなかった」
「……」
「黒族長にとっての御饌は生涯において唯一無二の番のことだ。子を成すためだけの者でなければ、隷属とする者でもない。覇王として求められた孤高の中で、その孤独に寄り添う唯一の者の事だ。そんな者を失って正気でいられるはずがない。先代の側近達もあの男にやられてことごとく死んだ。このままでは跳び族のお前達にも手を出しかねなかった。だから私が殺してあいつを止めた」
ギガイの手が今度はそっとレフラの髪を梳いていく。殺したという不穏な言葉に似つかわしくない優しさをもったギガイの手は、1つ1つレフラを確認するように触れていっているようだった。
「だけど私が同じように狂えば、私を止めきれる者はこの世にいない。最終的に討ち取ったとしても被害は大きいだろう。だから狂う前の私をお前が殺していけ。お前だけは私を殺せる」
「む、ムリです!」
「大丈夫だ。ムリじゃない」
ギガイが剣帯から何かを自然な動きで抜き取った。
「ほらこれを持ってみろ」
何でもないように差し出された物は鞘が抜かれた短剣だった。
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