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第138 約定の破棄 3
一瞬だけ離れていたリュクトワスとかいう名の側近が、ギガイの側に近付いた。素早く何かを告げ、そのまま1歩後ろに控える。
側近の報告が、決め手となったのかもしれない。
それまで冷淡な眼差しだけだったギガイの口元に、酷薄そうな笑みが薄らと浮かんだ。
「すでに私は御饌を得た身だ。貴様達が、庇護は不要だと言うならば、私は構わん」
ギガイの言葉に一瞬驚いた後、湧き上がるのは怒りだった。
長年続いた約定の解消を、一方的に突然求めたのだ。色々聞かれる準備をして、臨んだ会談だった。それなのに、ろくに説明も求められないまま、アッサリと約定の解消は受け入れられたのだ。
(縋っていたのは跳び族のみで、黒族にとっては、こだわる価値さえなかったと言うことか)
結局は、約定と言いながらも決して対等なものではなかった、ということなのだろう。
そう考えれば、悔しさに歯がみさえしたくなるのを、イシュカは必死に耐えた。
「それとも、まさか。私に嫁いで、すでに私の民となったあれを返せ、とでも言うつもりか?」
そんな中で、この黒族の長がこだわるのが、レフラのことだけなのだ。蔑ろにされる一族の扱いに反して、寵妃と言われる立場を得たレフラに、イシュカの嫌悪感は膨れ上がる一方だった。
(誰も彼もレフラ、レフラと……。アイツなど一族の名を貶めただけで、結局は何の役にも立っていないじゃないか)
イシュカは怒りで震えそうな手を、握り締めた。
「約定が解消となったのならば、それが1番望ましいかと存じます。その上で、ギガイ様のお気持ちに変わりがなければ、改めて妻として迎え入れて頂ければ、幸いでございます」
約定をキレイに清算したいなら、庇護の対価であった御饌を黒族に残すべきではない。それがナネッテからのアドバイスだった。
イシュカよりも族長の経験が長く、さまざまなコネなども持っている聡明な女性なのだ。ナネッテの言葉に従った方が、きっと得策なんだろう。
だけど、あんな卑しい者を一族に再度迎え入れたいなんて、本当は微塵とも思わない。これから自分が作っていく誇り高い一族に、あの異母兄弟も、それを支持する者達も、邪魔でしかなかった。
イシュカのその言葉に、周りを取り巻く近衛隊の空気がザワついた。
「ですが、ずっと御饌として生きてきたレフラです。今さら跳び族の民の生活をするにも、互いに戸惑うばかりでしょう」
そうでなくても、媚を売る術しか知らず、跳び族として生きる術を持たないレフラでは、足手まといなのだから。
「そんなレフラも、黒族の中ではお役に立てている様子。よろしければ、そのまま置いてやって下さい」
跳び族の中での役立たずを、慰み者として、このまま使っていけば良い。
(それに、あれが寵妃と言われている間は、黒族も下手に攻め込むことは出来ないだろうからな)
これからの庇護は不要でも、いま黒族に矛先を向けられても困るのだ。
(あれがその価値を失う時までに、力を付ければ、黒族も安易に跳び族に手を出せなくなるはずだ)
ナネッテもそう言っていた。そして今では、さまざまな策を講じている。
それが黒族に伝わるのと、レフラがギガイの寵愛を失うのと、どちらが早いかは分からない。
(その時には、アレの命も危ういだろうが、殺されたところで構わないからな)
媚びへつらい寵妃の立場を得たレフラを、心底軽蔑しているのだから。だからこそ、捨て駒として、切り捨てる事に戸惑いはなかった。
「ほぅ、黒族の中では役に立つ、とはな」
イシュカの言葉に含まれた、レフラヘの嘲りに気が付いた、というところか。ギガイの声音が、より一層冷たさを増していく。
そしてそれ以上の殺気が、警護として取り巻いている黒族の武官から伝わってきた。
後ろに連れ添った5人に、動揺と怯えが走っていく。
だが肝心のギガイからは、これ以上の怒気は感じられなかった。それはつまり、今の時点では黒族が、跳び族へ手を出すことはない、ということだ。
(ナネッテ様が予想された通りだ)
それなら、何も恐れる必要はない。イシュカは、もう一度ぎゅっと手を握り締めてギガイを見つめた。
「お前達の言いたいことは、良く分かった。それで、話しは以上か?」
「はい」
「それならば、これで終いとする。アドフィル」
「はい」
リュクトワスとは反対に控えていた、文官らしき男が返事をした。近付いた男に幾つか耳打ちをしたギガイに、アドフィルが小さく頷いた。
「約定の解消について、この者と書面を交わせ」
壇上から降りてきた男が、いまだに跪いたままのイシュカ達の側に来る。
「それでは、さっさと済ませましょう。こちらに付いてきて下さい」
さっと身を翻して、アドフィルが扉の方へ歩き出す。追うために立ち上がったイシュカ達は、ギガイへ一礼をした。
冷酷そうな目を黙って向けるギガイが、何を思っているのか。
一瞬視線が交わって、思わずイシュカは目を逸らした。種族の違いからくる本能的なものなのか、背中をゾクッとした感覚が這い上がる。認めたくないその感覚を振り切りように、イシュカは脚に力を入れて踏み出した。
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