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前編
俺の名前は模武田 模武郎 。
ネオジャパン株式会社――通称『ネオ株』――に勤める、ごくごく普通のサラリーマンだ。
この春から配属された俺の持ち場は、東京支社長秘書室秘書課。
ここには、社内一有名な男がいる。
それは――
「模武田くん」
「は、はい!」
「明日の定例会議の資料、もう印刷したか?」
「い、いえ、まだです!今すぐやります!」
「あーいや、それならいいんだ。8ページのデータの最新版が届いたから、間に合うなら差し替えておこうかと思っただけだから」
「あ、じゃ、じゃあ俺が差し替えておきます!」
「うん、ありがとう。データは今からメールする」
「はい!」
神崎 室長は柔らかく微笑み、再びパソコンのモニターに視線を戻した。
俺はうっかり止めていた呼吸を再開し、手探りで椅子を引き寄せ崩れ落ちるように腰を下ろす。
すると、ピロンと穏やかな機械音が鳴り、早速一件のメールが届いた。
東京支社長秘書室を取り仕切る、神崎理人 室長。
ネオ株社員なら知らない者はいないと言っても過言ではないほどの有名人だ。
東応大学――所謂『東大』だ――を首席で卒業し、史上最年少で本社経理課の課長に就任。
我が社の長い歴史上でも〝最大のスキャンダル〟と称されたとある大事件に巻き込まれるも、二ヶ月後にはあっさりと復職。
東京支社にやって来たのは、その半年後だった。
その人柄と有能すぎる仕事ぶりであっという間にみんなと打ち解け、中でも一段とその心を鷲掴みされた支社長が、直々に彼を秘書室に引き抜いたというのだから、有名になるのも頷ける。
そしてなにを隠そう、この俺も室長に心を掻っ攫われたうちのひとりだ。
最初は、それなりに抵抗した。
俺は男に興味なんてない――そう思い込もうとして、でも早々に白旗を振らざるを得なかった。
なにしろ、ものすごくかっこいいのだ。
神崎室長と一緒に仕事をした女子社員はもれなく恋に落ち、男はこぞって憧れを抱く。
でも当の本人はまるで「仕事が恋人だ」と言わんばかりに、自分に向けられる熱い視線には驚くほど無関心だ。
左手の薬指にはブルーの石が埋まったシルバーリングを身に着けているけれど、『奥さん』の話はまったく聞いたことがない。
あまりに話題に上らなすぎて、最近では単なる『女除け』のカモフラージュなんじゃないかと噂が広がり、一度は諦めた女子たちもまた室長にアプローチし始めた。
でも、俺には分かる。
あれはダミーなんかじゃない。
彼は、薬指の指輪をなによりも大切にしている。
ふとした瞬間に眺めていたり、触れていたり、時には口づけしていたり――そんな時の神崎室長は、決まって夢見心地に微笑んでいた。
「神崎君」
「はい」
「悪いが、野暮用を頼まれてくれないか」
「野暮用?」
「実は今朝、妻の機嫌を損ねてしまってね。適当な賄賂を見繕ってきて欲しいんだ」
はにかみながら紡がれた支社長の言葉が、秘書室の空気を和ませる。
神崎室長は深く頷き、ホワイトボードのマグネットを『外出中』に裏返した。
「神崎室長!」
「模武田くん……?」
「あ、あのっ、俺もご一緒してよろしいでしょうか!」
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