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第4話 同棲
カウンターの向こう側で、氷にピックを突き立てている史に、客たちは驚きざわめいた。弘海のきつい言いつけで、カウンターからは出られなかったが、そこにいるだけで何人もの客が代わる代わるやってきた。
「ほんとにこんなことになるなんてね・・・」
弘海は水割りのグラスを史から受け取った。史はにっこり笑った。
「やれば出来るもんだね」
「・・・教える人間が良いのよ」
「そうだね」
「・・・素直じゃないの」
「弘海のおかげだよ」
弘海は何とも言えない表情で史から視線を逸らした。
カウンターの奥で、理玖がにやにやしている。それに気づいた弘海がぎろりと理玖を睨んだ。
弘海は、手際よくドリンクを作る史の横顔を、少し離れた席から盗み見た。ぼろぼろになっていた史に声をかけたとき、こんな穏やかな表情を見られるとは思っていなかった。この状況に似合わない品の良さが、数日前の史とはかけ離れて見えた。
初めての体験とは思えないそつのなさに、弘海は閉店した後に史に尋ねた。
「初めての割に、ずいぶん手慣れてたわね、バーテンさん」
「うん。合うのかも、サラリーマンよりこういう方が」
「まあ・・・たまたまよ。ビギナーズラックってやつ。だからって、あんたはこっちの世界に足を踏み入れたらだめだからね」
「どうして?」
「どうしてって・・・」
食器を洗い終わった史が、カウンターをくぐった。弘海の横に腰掛け、穏やかな瞳を向けた。どきん、と弘海の胸が再び脈打った。史と微妙な距離を取りながら弘海は答えた。
「これは飽くまでも一時的なものでしょ。ちゃんと次の仕事見つけて、いつかは復帰しないと・・・」
「ずっと・・・ここにいたらだめかな」
「・・・だめよ。あんたには無理」
「・・・助けてくれたのは弘海なのに」
「それは、まさかこんなことになるとは思ってなかったのよ・・・結果、引きずり込んじゃって悪いとは思ってるけど・・・」
「悪くないよ。感謝してる」
「・・・そう」
まっすぐ見つめてくる史の瞳が、弘海の心を揺さぶった。神懸かってるという噂が頭をよぎるが、その考えを打ち消して言った。
「まあ、仕事が見つかるまでの短い期間だから・・・それまではよろしく頼むわ」
史の表情が明るくなった。弘海は店閉めるわよ、と言って立ち上がった。
裏口の鍵を締めて外へ出ると、なま暖かい風が吹いていた。そろそろ暑くなる時期だった。空はいつものように白かった。
大きく体を伸ばして、歩きだそうとして弘海は足を止めた。
「史、どこいくの?あんたの家、こっちって言ってなかった?」
「・・・満喫行こうかなって・・・」
「え?」
「・・・仕事やめてから、家賃払えなくて・・・・」
「は?!」
「汚いけど、適当に座って」
「・・・お邪魔します」
家賃を払えなくなって、友達の家を渡り歩いていたという史を、弘海は何で早く言わないの、と説教しながら自分のアパートに連れてきた。
そこらへんに転がっているビールの空き缶をガラガラとゴミ袋に投げ込んで、空いたスペースに弘海はどっさり腰を下ろした。
史はおそるおそる膝を折って、弘海の横に座った。
携帯をいじりながら後ろで束ねていた髪を解いて、弘海は言った。
「風呂入る?入るなら沸かすけど」
「あ・・・いただきます」
史の前を通り過ぎて、弘海は風呂場に向かった。水の音と、弘海の鼻歌が聞こえてくる。冷蔵庫を経由して、冷えたビールとコーラを持って戻ってきた。顔の前に缶を二つ並べて、弘海は史に尋ねた。
「どっち?」
「えと・・・コーラ」
「ん」
史にコーラを手渡し、弘海はビールを空けた。テレビをつけると、すでに早朝の番組で女性アナウンサーがおはようございます、と言って笑っている。二人で黙って天気予報を見ながら、ビールとコーラを飲んだ。
「あ、そうだ」
急に弘海が大きな声を出して、史の方を振り向いた。
「布団・・・」
「布団?」
「ないんだよな・・・ベッドしか」
「え?」
弘海は史を手招きして、隣の部屋のドアを空けた。そこには安いアパートには不似合いな、大きなダブルベッドが鎮座していた。男一人が眠るには大きすぎるサイズの。起きた時のまま、枕やタオルケットが乱れていた。
「狭くないとは思うんだけど・・・平気?」
史は、大まじめな弘海の顔を見つめたが、不意に吹き出して笑い出した。
「なんで笑って・・・」
「だって弘海、女の子誘うみたいに・・・」
笑う史につられて、弘海も笑い出した。
その後ろで、風呂が沸いたお知らせ音が鳴り響いた。
「先に入って。俺ちょっとメール」
「あ・・・うん」
史は立ち上がって、バスルームに向かったが、急に立ち止まった。胡座をかいてビールを飲む弘海を、じっと見下ろしていた。
史の興味深そうな視線に気づいて、弘海が携帯から顔を上げた。
「ん?あ、タオル適当に使えよ」
「・・・・・」
「何?どした?」
「・・・新鮮」
「なにが」
「話し方・・・」
弘海と史の視線が絡まる。言葉の意味に気がついた瞬間、弘海は気恥ずかしくなり目を逸らして、ぶっきらぼうに答えた。
「あれは・・・仕事用。オネエの方がよければそっちでもいいわよ」
「こっちの喋り方の弘海も好き」
「・・・あー・・・はいはい、どうも・・・」
史はにっこり笑ってバスルームに消えた。
弘海は、史の使うシャワーの音をバックにビールを飲み干した。
ダブルベッドのシーツを変えて、使っていなかった枕をひとつ足した。
風呂から上がってきた史は、華奢な身体に弘海の大きなTシャツを着て、テレビの前に座った。
投げ出した白い脚と、濡れた黒髪を見ないようにして、弘海は立ち上がった。
「先に寝てていいよ」
「うん」
弘海が風呂から上がって来たとき、大きなベッドのスペースの端っこに、申し訳なさそうに身体を丸めて、史は寝息をたてていた。
弘海がベッドに入っても、史は目を覚ますことはなかった。
慣れない仕事で疲れた身体は、とても小さく見えた。弘海は、史のさらさらした黒髪をそっと撫でた。
寝息はほとんど聞こえないほど、穏やかだった。
背中と背中を合わせて、弘海と史は初めての夜を静かに過ごした。
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