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第3話 Lick

「ずいぶん懐いたもんね。何したの?」 「何もしてないわよ。言っとくけどハメてもないからね」 弘海に拾われた史は、それから店にやってくると、いつも弘海のそばにいるようになった。カウンターに腰掛け、理玖ともよく話した。行きずりの相手と店を出て行く回数は激減した。相変わらず史を誘う男は後を絶たないが、誰とでもホテルに向かうようなことは無くなった。ただ楽しく酒を飲んで帰る日も度々あった。それでも史目当ての男たちは諦めず声をかけたが、前ほど簡単に交渉は成立しなくなっていた。客の中には苛立ちを募らせる者も少なくなかった。 そしてこの日は、また少し様子が違った。 「お前、何様のつもりだよ」 バン、とテーブルを叩く音と、野太い声が店内に響く。 ガタイがよく、どう見ても似合わない高級スーツの成金風の男が、史の顔にグラスの酒を浴びせた。史は黙って掌で顔を拭って、冷たい瞳を男に向けていた。 「・・・冷たいな」 「調子に乗りやがって!」 男に襟首を捕まれても、史の表情は変わらなかった。それが、男の気持ちをさらに逆撫でした。椅子やテーブルをがたがた言わせながら男は史を床の上に押し倒した。ボーイたちがきゃあと甲高い声を上げた。殴ろうとして振り上げた手を、あわてた連れの客たちに止められる。男は何か叫んでいたが、なだめられながら力づくで店の外に連れ出された。 ひとり残った史は酔った様子もなく立ち上がり、割れたグラスに手をのばした。 「危ないわよ」 弘海は後ろから声をかけ、史の横にしゃがみこんだ。史はうつろな瞳で弘海を見つめ返した。その揺れる視線に、弘海の心臓は不意に脈打った。 理玖が、その後ろでぶつぶつ言いながら割れたグラスの破片を掃き集める。 「・・・取引先」 「え?」 「仕事の取引先の人・・・怒らせた」 「・・・うそでしょ?」 自分を押し倒したのは、取引先の若社長だったと史はぼそりと答えた。 今まで何度か、酒の席で身体を触られたり、抱きつかれたりしたが、今日はっきりと、取引締結の見返りに身体の関係を求められた、と史は話した。 客同士のトラブルとは言え、弘海は開いた口が塞がらなかった。 「見返り?」 「マンション買ってやるから・・・愛人になれって・・・」 「な・・・なにそれ、今時昼ドラじゃあるまいし・・・」 「断ったら、キレられた・・・」 「断って正解よ」 「でも・・・取引が・・・」 弘海は史の頭をポンと叩いた。史はしゃがみこんだ膝を、両手で抱えていた。まるで子供が怒られた時のように。 「ああいうのは一回身体許したら続くわよ。そういうの、セクハラとかパワハラっていうんじゃないの?」 「・・・・・・」 「いいじゃない、次の仕事がんばれば・・・」 それでも史は何も言わず俯いたままだった。弘海がどうしたの、と聞くと、聞き取れないほどの小さな声で言った。 「クビになるかも・・・」 「えっ?」 ワンマンで有名な取引先の若社長は、今まで多くのトラブルを起こしてきたが、父親である会長の力で全て握りつぶしてきたそうだ。 自分の部下で気に入らない者は、すぐに首を切る。取引先であれば、間違いなく直接クレームが入るだろうと史は言った。クレームを入れられた部署の者はいずれ間違いなくクビになるとも。 「それじゃ本当にクビになっちゃうかもしれないってこと・・・?」 「うん・・・」 割れたガラスの破片を集めていた理玖が、弘海と史の会話を聞いていた。 どんよりとした二人の間に、挨拶を交わすぐらいの軽さで理玖は入ってきた。 「クビになったら、うちでバイトしたら?」 弘海と史が同時に顔を上げた。弘海はぱくぱくと口を動かしたが、うまく言葉が出なかった。 「ちょ・・・っと、理玖、何言って」 「いいんですか?」 史は、期待に満ちた明るい声を出したが、驚いた弘海は史と理玖を見比べた。 理玖は、口を開けたまま固まっている弘海の後ろに周り、耳元でわざとらしい声を出した。 「弘海が可愛がって、こんなことになっちゃったんでしょ?」 「あたしのせいだっていうの?」 「そうは言ってないけど・・いいじゃない、あんたがいろいろ教えてあげなさいよ」 「こ・・・この子がボーイなんて出来る訳ないじゃない!」 「ボーイじゃなくても、バーテンって手もあるわよ。やってみないとわかんないじゃない?」 「人ごとだと思って適当なこと言って・・・」 「あんたじゃなくて、史に言ってんのよ?どう?」 「史!こんなおっさんの言うことなんか聞かなくていいから!」 「おっさんじゃないわよ!失礼ね、おばさんよ!」 理玖と弘海が裏声でぎゃあぎゃあ騒いでいる横で、申し訳なさそうに史が言った。 「本当に・・・使ってもらえるんですか」 弘海はまとわりつく理玖を突き飛ばして、史の肩を掴んだ。前後にがくがく揺らしながら弘海は大きな声で言った。 「あんた、何考えてんのっ?!」 「弘海が教えてくれるんだよね?」 「馬鹿じゃないのっ?!」 「弘海が側にいてくれるんなら、出来る気がする・・・」 「・・・なっ・・何言ってんのよ・・・」 弘海が照れたタイミングで、理玖がにんまり笑ってパン!と手を叩いた。 「はい、決まりー!」 「ちょっと、そもそもまだクビになったかどうかわかんないじゃないの!」 「あ、そういえば・・・」 三人がそれぞれ好きなことを言って笑った。 そしてその一週間後、本当にクビになったのか、自発的に辞めたのかは分 からないが、史は、「Lick」のバイト面接にやってきた。

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