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第10話 月下香
「喧嘩したの?」
「・・・ほっといてくれる?」
「どうせあんたが悪いんでしょ?」
「・・・・・」
理玖は、花瓶に水を汲みながら楽しそうに言った。弘海は煙草に火をつけて、煙を理玖に向かって盛大に吹きかけた。
咳込みながら、理玖は水の入った花瓶をカウンターにどん、と置いた。
理玖はまだ不貞腐れている弘海に、心底不思議そうに尋ねた。
「なんであの子の気持ち受け止めてやんないの?」
「はっ?」
「は?じゃないわよ。史、あんたのこと本気よ」
「・・・んなこたわかってます」
「だったらとっとと抱いてやんなさいよ」
「・・・・・」
「あら、済んだの?それはそれはオメデトウゴザイマース」
「デリカシーって言葉、知ってる?」
「アラフォーのバリタチがよく言うわ・・・って、ヤったんなら何で喧嘩してんの?」
「・・・あたしはあの子を引っ張り込みたくないの」
「それもさあ、そろそろ諦めなさいって。史が自分で働くって言ってんだから。そもそも、捨て犬拾ったの誰だっけ?」
「・・・こんなに・・本気になるつもりじゃなかったのよ」
理玖は、シンクから引き上げた花束を花瓶に活けながら、ひゅうっと口笛を吹いた。
弘海は睨みを効かせて抗議しかけたが、すぐにぽとりとカウンターに頭を落とした。
弱々しい声で、弘海は続けた。
「こんなに本気で好きになった相手、いたことないから怖いのよ・・・真っ白だったあの子の色が、変わっていくのが、本当に怖いの」
「弘海が思ってるより、史は強いわよ、多分。この世界に足踏み込んでも汚れない強さがあるから。ただ・・・」
「ただ?」
「あの子に、男を惹きつけるやばい色気があるのは確かね。自覚がないのが困ったもんだけど」
「・・・あたしもそう思う」
「この間来た団体客のやらしそうなおっさん、足繁く通ってきてるしねえ・・・」
「・・・・・」
伊坂だった。三日と空けず、史に会いに来る。弘海の気持ちにいらつきが混じる。理玖は、あたりを見回して史がいないことを確かめた。それから声をひそめて、弘海にこう言った。
「そのおっさんが言ってたの、小耳に挟んだんだけどね・・・」
理玖が話したのは、弘海が史を抱いた時に感じた甘い香りのことだった。
あの香りを嗅ぐと、理性が吹っ飛びそうになって、ブレーキが効かなくなる、と伊坂は連れの客に嬉しそうに話していたという。弘海は舌打ちした。
「あのエロジジイ・・・今度来たらぶっとばす」
「やめてくださーい、お客様は金ヅルでーす。・・・でも、本当なの?神懸かってるっていうのはそれのこと?」
「・・・・さあ」
「あんたは感じなかったの?」
「プライベートなことは言いたくないの」
「・・・あっそ。まあでも、気をつけて見ててあげて。あのおっさん、結構粘着質でやばいわよ」
「分かってる・・・」
理玖は、花瓶をカウンターの端に、花の向きを気にしながら置いた。そして、あ、と大きな声を出した。
弘海はカウンターから顔だけ振り向いて、理玖に尋ねた。
「何?大きい声だして」
「やだ、これ、確信犯だわ」
「・・・なんのこと?」
「この花よ。今話してたおっさんから、史宛てで店に送られてきたんだけど。月下香っていうのよ」
「ゲッカコウ?」
「この花ね・・・夜になると、香りが強くなるの。昼間はそうでもないんだけど。あのおっさん、とんだスケベジジイだわ」
理玖の説明に、弘海は背中が凍りついた。
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