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第15話 変わらぬ想い

8年後。 「Lick」は、「真珠」と名を変えたが、同じ場所で営業していた。ミックスバーに形態をを変えて、今では若い女性客も多い。 ダンサーのショーなどの催しもあり、雰囲気は「Lick」の頃とは大きく変わったものの、未だに足を運び続ける常連客も多かった。 弘海は、今日も出会いの場でもある店を、いつも通りの時間に開けた。 雨が降る夜だった。気温も湿度も高い。 シンクで水を切った白い花束を、花瓶に活ける。強い花の香りが店に充満した。 と、カラン、とドアベルが鳴り、今夜最初の客が入って来た。 早速ボーイのひとりがいらっしゃあい、と裏返った声で出迎えた。 まとわりつくボーイに、ごめん、と言ってその客は、まっすぐカウンターへ歩いてきた。 グラスを磨いていた弘海は、近づいてきた客の気配に、顔を上げた。 「いらっしゃ・・・」 口の端から、吸いかけの煙草が落ちた。シンクに落ちて、ジュッと音をたてた。 「ちか・・し・・・?」 そこには品の良い三つ揃いのスーツを着たビジネスマンの姿で、史が立っていた。瞳の色、唇の形、柔らかな髪。弘海が誰よりも知っている史が、8年の年月を経て、そこにいた。 初めて出会った時もスーツ姿だったが、それよりもひとまわり大人びて、その顔には仕事の出来る男の凛々しさが見えた。 史は、戸惑いを含んだ声を絞り出した。 「弘海・・・」 弘海と史は、お互いの名前を呼んだまま、しばらく立ち尽くした。 二人の瞳には、懐かしさと気恥ずかしさが入り混じっていた。 「ごめん、急に・・・」 「・・・いいわよ。何飲む?」 弘海は、史の注文した水割りをどうやって作ったのかわからないまま、テーブルに乗せた。あれからずっと外せなかった左手のリングが、グラスにかちりと音を立て、はっとする。 史の左手の薬指は、影になっていて見えなかった。 自分を落ち着かせるように、弘海は新しい煙草に火を付けた。 「スーツ、似合ってるじゃない」 「・・・そうかな」 「どう、仕事は」 「ちゃんとやってるよ。昇進試験に受かったばかりなんだ」 「そうなの?若いのにすごいじゃない。優秀ね」 「若くないよ。もう30になるし・・・」 「・・・そんなになるのね・・・あたしも歳をとるはずだわ」 史は水割りを一口飲み、グラスを持って下を向いたまま、言った。 「弘海は変わってないよ。久しぶりに会って・・・どきどきした」 弘海は煙草を持ったまま、史を見つめた。息が詰まり、言葉が出なかった。 平静を装って、弘海は答えた。 「・・・あんたもそんなこと言えるようになったのね」 「そうだね。少しは・・・大人になったかな」 二人は少し笑ったが、会話は途切れた。後ろで、常連らしい客が入って来て、ボーイたちが嬉しそうに迎えていた。 店内の騒がしさが止んだタイミングで、弘海が切り出した。 「何か・・・あったの。ここに来るなんて」 「・・・・・」 弘海は、どこかでその理由を分かっていた気がした。 史は、弘海の目を見た。そして低い声で、ぽつりと言った。 「・・・結婚する」 弘海は煙草の煙を、史にかからない角度に細く吐き出した。 「・・・そんな感じじゃないかって思ったわ」 「え・・・」 「良かったわね。どんな子なの?」 「・・・上司の・・娘」 史の結婚する予定の女性は、かつて史をスカウトした野瀬コーポレーションの長女だった。史を襲いかけた若社長の妹に当たる人物だった。 ヘッドハンティングされた後の史は、本来の能力を発揮し、あっという間に昇格したという。会長は自分で引き抜いた史をまるで息子のように可愛がり、自分の娘を結婚相手に薦めた。相手の女性は、史よりも七歳年上だという。 「馬鹿ね、どんなっていうのは、肩書きじゃなくて、性格とかそっちのこと聞いてんのよ」 「あ・・・そっか・・・」 はは、と軽く笑った史の瞳はどこか哀しげだった。 その子を愛してるの、と弘海は言おうとして、やめた。 少し間を置いて、弘海は尋ねた。 「・・・幸せになれそう?」 史は、グラスから顔を上げた。その瞳にわずかに抗議の色が滲む。 質問には答えず、史は弘海に聞き返した。 「弘海は・・・今、幸せ?」 「どうかしらねえ・・・」 「弘海」 「・・・なに」 「もし今、僕が弘海を・・・」 言いかけた史の言葉を、弘海はカウンターから身を乗り出し、唇を重ねて止めた。そっと唇を離して、弘海は切ない微笑みを見せた。 「弘海・・・」 「僕、なんていうのね」 「し・・仕事の時の癖で・・・」 「その方が似合うわ。俺、より」 「弘海、俺は・・・」 「幸せになんなさい」 史が何か言おうとしたが、ちょうどその時、数人の客が賑やかにドアベルを鳴らし入って来た。 いらっしゃい、と営業用の声を出した弘海に、史はもう何も言おうとしなかった。 史は水割りを半分以上残して、立ち上がった。 「じゃあ、行くね」 「そう。・・・ひどい雨だから、気を付けて」 「ありがとう。・・・弘海」 「なに?」 「また・・・来てもいい?」 「・・・夫婦喧嘩でもしたらね。愚痴ぐらい聞いてあげるわよ」 「・・・・うん」 史は、ブリーフケースを持って、歩き出した。 弘海はその背中を見ずに、改めて煙草に火を付けた。 くゆる煙と賑やかな客たちの間を縫って、史は入り口のドアを開けた。振り返った史と、弘海の視線が絡んだ。 その瞬間、弘海の脳裏に当時の「Lick」の裏口で、初めて史と会話を交わした光景が蘇った。 思えば、あの時から弘海は、史を愛していたのかもしれないと思った。 弘海の唇が薄く開いた。 店のBGMと喧噪の中、決して聞こえるはずのない弘海の声が、史だけに届いた。 史の表情が、哀しげに歪む。 雨の中、史は傘も開かずに走り出ていった。 「お前だけを、ずっと愛してる」           完

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