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第10話
「俺は地球に残る」
宇宙に潜る船を前に口を衝いて出た言葉に自分が一番驚いていた。
その星が気に入って住み着く宇宙人はいくらでもいた。仲間が口々に乗船を促す。研究という名の観光の中で、その星が気に入って住み着くのは珍しくはない。だが、地球は空気も美味しくないし、戦争が多い。未来のない星に残る価値はこれっぽちもない。
それでも頑固な間抜けを置いて船は地球を離れた。
ひかりと別れてから御影と連絡が取れない。もしかしたら、御影はひかりと付き合うことにしたのかもしれない。元彼の伊織に気を遣って連絡をしないのか、ふたりで仲良しこよしをしているのかもしれない。
義満は相談コーナーを終えると、ビタミン剤をよこしてきた。恋煩いにきく薬があったら誰も苦しんでないと言われた。
恋、だと決めつけられるともやもやする。
大昔にした恋はこんな女々しいものではなかったはずだ。
もうすぐ日付が変わるかという時間に、光希から電話があった。嫌な予感がそわそわと這い寄る。メッセージは何度かやりとりしたが、電話ははじめてだった。それに、こんな時間に光希が起きているのは珍しい。御影に何かあったのではないだろうか。
「はい」
「こんな時間にごめん。伊織くん、兄ちゃんと一緒にいる?」
「いないよ」
「えーまじか。わかった。ありがとう」
「……何かあった?」
光希が一瞬黙り込んだ。伊織に話すか悩んでいるのだろう。
「帰ってこないし、メッセージも何もないし、電話も出ないんだ」
「それは大丈夫なのか」
「大丈夫じゃないけど、たぶんなんとかなる。兄ちゃんに何かあった時に頼る人は知ってるし……」
だんだんと小さくなっていく光希の声に不安が混ざる。伊織の脳裏に今日再会した男の顔が蘇る。
「頼れる人、の連絡先、俺にも教えてくれる?」
「聞いてみるね。もう一回電話かける」
ほどなくしてかかってきた電話は光希のいう「頼る人」からだった。
「香坂伊織さんだよね。はじめまして。僕はミヨシと言います」
柔らかい声の男は御影の知り合いにしては、少し含みがある人間に思えた。
「俺も連れって行ってくれないか」
「そうだろうと思って迎えに行っているところですよ」
ミヨシは笑いを耐えたような声で囁く。ベランダから外を見れば、絵に描いたような黒塗りの高級車が停車した瞬間だった。
「お待ちしております」
通話の切れたスマートフォンを投げ出したくなる。争い事なんて知りません、みたいな顔をした御影にしては物騒すぎる連中だ。連れて行け、なんて迂闊に言ったことを早々に後悔した。
パーカーを羽織って外に出ると、後部座席に誘導される。ドアを開けてもらうなんて、何年振りだろうか。夜なのにサングラスをしているスキンヘッドの運転手、助手席には華奢で色白の美人な男が座っている。この男がミヨシだろう。
「伊織さんのお話は御影さんから聞いているよ」
「そう」
「御影さんは、うちの組の下っ端に連れて行かれたみたいでね。僕は非常に動きやすくて助かってるんだけど」
「……その下っ端とやらの中に秋っていたりする? 赤髪の」
「その秋がまさに頭角ってところだね」
伊織がうんざりと顔を顰めるのをバックミラー越しに見ていたミヨシが笑う。
「ちょっとしたドライブになるからね。面白くない話でもたくさんしてあげるよ」
「面白くない話ならしなくていい」
「御影さんが主人公だよ」
くそ、と思わず口からついて出た。ミヨシはけらけら笑っている。
まだ真っ暗な闇の中をしばらく走り続ける車内は、御影の話で多いに盛り上がった。
目を覚ますたびに殴られては薬を飲まされ、時間の感覚などとうになくなっていた。
「朝倉御影くん、二十歳。弟くんがひとりいるのかあ〜」
にやにやと笑っている赤髪が視界いっぱいに広がっている。
飲まされた薬のせいか、先ほどよりひどい体調の悪さだ。
部屋にいる人間が多いせいか、コントロールが利かなくなった耳はいろんな声を拾って脳みそをぐちゃぐちゃと揺さぶる。自分が何を喋っているのかもわからない。
「あいつら、何飲ませたんだ。これじゃまともに会話もできないだろ」
一番近くにいるせいか赤髪の声だけやたらと聞こえた。ただ、彼の心の声の音量も大きい。
髪を掴まれ、水を無理やり飲まされる。人の声に酔っているせいで、また吐いた。喉が胃液でひりつく。
もう一度同じことをすると、いくらか頭がすっきりした。薬が抜けたせいもあるのだろうけれど、声の多さに慣れたのだろう。ほんの少しだけれど。
「きみ、いおりのこと好きなんだろ」
ほとんど憂さ晴らしで口を開いた。こうやって相手の心の内を代弁してやれば相手は怯む。心の中を見透かす御影を恐る。
「は?」
赤髪が口を開ける。俺そんなこと言ったか、と呟いている。それがおかしくてケタケタ笑った。
「そこのお兄さん、借金のカタに娘さんを風俗に落としたね。髭面のお兄さんはレイプ犯だ。過去にヤって捨てた女は三十人ぐらいかな……今も俺の母親を狙ってる……」
赤髪の拳が飛んでくる。ぐらりと傾いた体はそのまま冷たい床に突っ伏した。
「おい、黙れよ朝倉くん。おまえ、そんなべらべら喋っていいご身分じゃねえんだよ」
赤髪が何か喚いている。口から発せられた声が、心の言葉に塗りつぶされて聞き取れない。
「俺は伊織の大切なお友達かもしれないのにこんなことしていいんだ……一生伊織に振り向いてもらえないかもしれないよ。……あいつはあんたに何があったかも知らないまま、忘れていくからどうでもいい? 秋くん」
赤髪が目を剥く。
「どうして俺の名前を」
「本当は伊織とあんなことこんなことしたいけど、伊織に無理やり迫ったら殴られたからできないんだ……でも俺がいなくなったからって、伊織には振り向いてもらえないんじゃない……」
「黙れ」
「好きな人のために人間一人潰すのも厭わないんだ。お熱いね」
揶揄ったら腹を蹴飛ばされた。
「伊織を自分のものにしたくて仕方がないんだろ。自分が用意した家で自分の帰りを待つ伊織をご所望だ。そんなのもう伊織じゃないのに」
「黙れ」
「かわいそうな秋くん」
目を瞠ったまま硬直してる秋を見てぎこちなく笑う。頭痛が酷い。気持ちが悪い。胃がむかむかする。冷たい床に横たわった体を起こす気力もない。吐いたせいで心の声を聞く耳を塞ぐ体力すらない。
人の言葉が感情がごちゃ混ぜになって右から左へ。どれが誰の声なのかもわからなかった。
ぐちゃぐちゃした頭の中に優しくて強かな心が割り込んだ。
薬のせいで幻聴すら聞こえるようになったらしい。
だって伊織は御影を名前で呼ばない。
いつになったら名前を呼んでくれるんだろうか、とそわそわすることも最近なくなった。自嘲したら切れた唇の端が引き攣った。どうやらかさぶたになっているらしい。
秋は身動きひとつせず、御影を殴ることも蹴ることもしない。今日のお遊びは終わったようだ。
怠い眠気に引きずられるままに目を閉じる。
「御影!」
心の声ではなく、地球人特有の肉の体から出る声が御影を呼ぶ。助けに来てくれるはずだった顔なじみの声ではない。
「おまえ、なにしてるの」
ドスの聞いた声が騒然としていた部屋に重たく響いた。薄く目を開ければ、廊下の光が薄暗い空間に慣れた目に刺さる。秋の前に伊織によく似た男が立っている。似ているどころではない、逆光でもわかるほどに伊織本人だ。
伊織の怒りがひしひしと伝わってくる。怒りは疲れる、とうんざりした顔で言っていたのを思い出す。その伊織が何に怒っているのかわからずに混乱する。光希が、とかそういう言葉が乱雑に怒りに隠されてしまう。
「俺が振り向かないから、あいつに手を出したわけ」
赤髪が伊織の言葉を肯定したのだと思う。相変わらず声が聞こえない。
「俺はお前のものにはならないと前にも言った」
伊織の怒りが一変して哀愁で覆い尽くされる。どこかの時代の記憶を呼び起こしているのだろうか。
胸を締めつけられるような波のように押し寄せる。
「価値観が違いすぎるよ、俺とお前とじゃ。秋が女の子だろうが男だろうが関係ない。諦めて」
伊織が笑って秋に手を振りながら御影の元に寄る。しゃがみこんだ伊織の綺麗な鼻筋がぐい、と寄せられる。
「なんか臭いよ」
どうしてだろう、伊織の声だけがはっきり聞こえる。
「しかたないだろ……」
理不尽な文句に口を尖らせたら安心したように微笑まれた。睫毛が瞬きするたびに音がしそうで、思わず耳を傾けた時、びっくりするほど優しい声で伊織が呟いた。
生きててよかった、なんて。
そして腿の裏と背に腕を回すといとも簡単に御影の体を持ち上げた。反射で伊織の首に抱きつく。馴染みのある薄くて硬い体が御影を横抱きにしている。少女漫画でよく見るお姫様抱っこだ。簡単に持ち上げられたことによる羞恥でじわじわと顔が熱くなる。
「いおり、まって下ろして」
思わず抗議したにも関わらず、伊織はちらっと御影を見下ろしただけだ。こんなにボロボロのくせに自分で歩く気か、と心の声がする。
「もう二度と顔見せるなよ」
冷たく言った伊織の声を聞いているうちにだんだん瞼が重たくなっていく。連れて行かれたのが光希じゃなくてよかった、と遠のく意識の中で思った。口から出ていたらしい。伊織がそうだな、と呟く。ついで額に寄せられた柔らかいもの。これは、キスでは、と思った瞬間に意識が落ちた。どっぷりと闇の中に。
狂おしいほどに愛おしいと思ったのはどちらだったのだろうか。
ゆったりと意識が覚醒していく。同時に心の声を聞くための耳を塞いだ。腹のあたりに重みを感じる。体を動かそうとしたらあちらこちらが痛む。それでも生きているらしい。薬も抜けているようで頭も正常に働く。時計を見ようと身じろぎをすると、腹の上の重みが動いた。
ゆっくりと頭をもたげたのは伊織で、眠そうな顔で虚空を見つめている。
「おはよう……」
恐る恐る出した声は酷く掠れていた。口の端が少し痛む。
御影をじっと見据えた伊織がのそのそと動く。布団を捲ると侵入してこようとする。ベッドの真ん中を占領しているのは体が痛い御影だというのに。
御影を不思議な物体でもみるような顔をしている。寝惚けているらしい。するすると触手が伸びてきて御影の体に巻きつくと端に寄せられる。そこまでして同衾したいらしい。
隣に収まった伊織は御影の方を向いて目を閉じた。白い肌にくっきりと隈が張りついている。額に額を合わせて、近過ぎて霞んでいる大好きな顔と体温を摂取する。
「伊織、ありがとう」
「ん……」
いろいろ聞きたいことはあるが、全部後だ。今はもっと言いたいことがある。
「起きて、一瞬だけでいいから」
「なに……」
嫌そうに眉間に皺が寄る。ふくふくと心の中で花が咲くような気がした。意識がなくなる前に愛おしさで死にそうになったのはきっと御影の方だ。
「付き合おうか」
「つきあう……」
「添い寝フレンドじゃなくて、恋人に」
「こいびと……」
ねむねむしている伊織の目がだんだんと覚醒していく。
「こいびと」
「うん」
しばしの沈黙が訪れる。ぱちぱちと長い瞼が数度瞬きをする。見え隠れする宝石のような黒目に思わず息を飲んだ。
あの日合コンに行っていなかったら、伊織がこの顔でなかったら、好きになっていなかったかもしれない。しかし、たらればをいくら重ねたところで、出逢ってしまった事実の前では机上の空論だ。この顔がよくて優しい宇宙人とこの先も続くだろう時間を一番近いところで過ごしたいと思うのは、愛ではなくて何と呼べというのだろうか。
「どんな関係にだって終わりは来るんだよ」
言外に嫌だと言われて苦笑した。
「その終わりを限界まで伸ばそう。俺は長寿の宇宙人だから、とっても優良物件ですよ」
伊織は御影の顔をじぃっと見つめてから目を伏せた。眠りについてしまいそうな穏やかな表情は、童話のお姫様みたいにキスしたら目を覚ましてくれそうだ。
睫毛が柔らかく揺れ、漆黒の宝石が現れる。腹でも切る覚悟を決めたような、きりりとした瞳。
「不束者ですが、末長くよろしくお願いします」
「こちらこそ」
触手が伸びてくる。まだ腫れている頬をやんわりと撫でられる。優しい触れ方に思わず目を細めて擦り寄る。伊織は安心したように微笑むと、今度こそ眠りについた。
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