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第9話

 大事な話があるから、午後に会えないかとメッセージが来たときにどこかに逃げたくなった。  心当たりはひとつしかない。伊織を振って御影に告白するつもりだ。それが杞憂であったらどんなによいだろうか。御影がどうしようもない人間だと気がついて諦めてくれていたら、と心の底から願った。  大学の喫茶店でコーヒーを飲んで待っている間もそわそわして落ち着かない。  つい一週間ほど前に、三人でパンケーキを食べに行った時のことを思い出す。 「パンケーキ楽しみだね。今日ずっとお店のパンケーキの写真みてるよ」  伊織の講義が終わったら、御影も一緒に三人で行こうと言い出したのはひかりだった。  男でも甘いものを堂々と食べに行ける世の中になったのはたいへんよい。女性に混ざって甘いものを食べていると、白い目で見られる時もあった。居心地が悪くてわざわざ女体になって行ったことすらある。この話をすると、案外甘党の伊織も身に覚えがあるらしい。  ふと目が合った時のひかりの視線に込められた熱。うっすらと染まる頬。そわそわと揺れる目線。その意味に気がつかないほど御影もウブではない。  面倒なことになった。伊織に寝取られたことはあれど、寝取る気はない。ひかりは可愛らしいとは思うが、マイブームと添い寝フレンドになっているのに、わざわざ手を出そうと思わない。 「朝倉くんって、誰にでも優しいよね」 「どうだろう……優しいのは冷たいからでしょって言われたこともあるよ」 「わたしはそういうところ好きだなあ」  一文字一文字に篭った想い。御影が曖昧に微笑むと、いつの間にか講義を終えた伊織がテーブルの上にどかっと鞄を置いた。 「お疲れ、伊織」 「ああ……」  今の会話を聞いていただろうか。素っ気ない伊織の背中を見ながら、複雑な気持ちを抱える。ひかりが伊織の腕に抱きつくと、伊織がひかりの鞄を攫う。  格好いいなあ。  深いチョコレート色の革ジャンが似合うのもずるいと思う。柔らかい黒髪を揺らしながら、伊織が振り返る。すぐひかりに向き直った伊織の横顔を見て目を瞠る。  ひかりがいなかったら、今すぐ問い詰めていた。  どうしてそんなに切なくて苦しそうな顔をしているんだ、って。  伊織の苦しそうな顔が気になってふわふわでとろとろのパンケーキに感動することができなかった。伊織は女の子独特の話題の変化にも動じないし、女の子の言葉を拾うのが上手だ。御影も苦手ではないと思うが、伊織は女の子好きが相まっている。競う気はないが、伊織には劣る。  穏やかな表情を浮かべ、ティーカップに口をつけている伊織はいつもと何も変わりはない。何かを押し隠しているように見えるのは御影が気にしすぎなのだろうか。  心を読んでしまえば楽だ。一瞬でだいたいのことが解決する。不本意ながら、心の声を聞いて歴代の彼女との関係を保ったこともあった。マナー違反だとわかっていても、聞いてしまえばこちらのものだ。  最後の一粒のラズベリーを噛み締めた時にはたと思い至った。  もしかして、伊織の心の声を聞くのが怖いのではないだろうか。 「御影くん?」  ひかりが食べ終わった皿を凝視している御影を心配している。 「ごめん、ぼーっとしてた」  苦笑してフォークを置いた御影を観察していた伊織がにやりと笑う。 「食べ終わったことがショックだったんじゃないか?」 「美味しかったもんね!」  人を揶揄って嬉しそうにしている顔を見て、背筋を薄暗いものが伝っていく。  それは微睡みの中ではなく、真正面から伊織の心を読むことへの恐怖だ。  俺は伊織に何を考えているのかを聞くのが怖いらしい。  ぼやいた言葉は日常の中に消え、伊織とひかりの心の内への対策を何もできず、ほぼ一週間が経ってしまった。  その結果がたいへん愛らしい姿をして現れたひかりだ。  気合が入っている様子を見て杞憂ではないことを悟る。御影に告白するためにおしゃれをするひかりの愛らしい様子に心が苦しくなるが、すでに答えは決まっていた。  シチュエーションによりけりだが、好意を伝えようとする女性は愛らしいと思う。何度も考えて決めた言葉を思い浮かべながら、恥ずかしそうに視線を彷徨わせる。ひかりもそのタイプで、店員に注文を伝えてから、一度も御影と言葉を交わすことなく口を閉ざしている。  御影の二杯目のコーヒーとひかりのダージリンがテーブルに並ぶ。  ダージリンを一口飲んで、やっと決心がついたらしい。ひたりと御影を見つめる眼差しには覚悟すら見える。 「朝倉くんのことが好きです」  ひかりの心に答える気なんてないくせに口を開くのが億劫だ。告白というのは何度されても慣れない。いっそ誰も自分のことを好きになってくれなければいいのにとさえ思った時もあった。 「……ごめんね、ひかりちゃんとは付き合えない」  返す言葉が冷たくひかりの心にある御影への好意に突き刺さるのが見えたような気がした。実際、ひかりは痛そうに顔を歪めた。 「どうしてですか……わたしに悪いところがあれば直します」 「……弟と伊織のほかに、大事なものをつくるつもりがないんだ」  ひかりが目を瞠る。まさか、自分が勝てない相手が伊織だとは思わなかったのだろう。潤んでいく瞳と、口角が切なそうに歪む。 「なんで……わたしじゃだめなんですか……」 「ひかりちゃんには絶対いい人が見つかるよ」  お金を置いて店を出ると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。  ひかりに振られた伊織を誘って飲みに行こうとスマートフォンを手に取る。  御影がさっきまでいた店のドアベルが鳴り、男がひとり出てきた。カウンターにいた二人組の男のうちのひとりだ。  近頃、大学内の人間ではないにも関わらず御影の周りで頻繁に姿を見かける派手な赤髪の男だった。関わると面倒な予感がして興味すら持たないようにしていたのに。  無視して伊織に電話をかけたい気持ちでいっぱいなのに、赤髪の男はぴたりと後ろをついてくる。人気のない路地を選んで道を歩く。大ごとにはしたくない。なるべく人気のないところに行きたかった。  御影から一晩連絡がなかった時のことは光希に言ってある。光希は聡いから、きっとうまくやってくれる。きっと帰ったら死ぬほど怒られるは目に見えていた。  意を決して足を止めた。 「俺に何か用ですか」  振り返ってみると、そこには派手な赤髪をした男が立っていた。  タレ目なのに三白眼のせいで酷く目つきが悪い。黄色人種らしい健康的な肌、鼻筋はすっきりと通っている。厚めの唇が歪んで笑う。顔はいいのに随分下手くそな笑顔だ。 「おまえ、香坂伊織のなんなの」  ハスキーな声が伊織の名を紡ぐ。 「友達だけど……」 「あいつと縁を切れ」 「嫌です」  男が目を見開いた。三白眼どころか四白眼になっている。漫画のように表情を変える男は声に怒気を含ませて御影を威圧する。 「あいつはお前みたいなつまらないやつといるべきじゃない」 「伊織だって友人ぐらい自分で選ぶだろ」  鬼の形相で御影を睨みつけている赤髪の男の背後で、明らかにスピード違反の黒い車が向こうからやってくる。まだ日があるうちに誘拐でもするつもりだろうか。いくら伊織のオトモダチだからと言ってやっていいことと悪いことがある。  交渉の余地ぐらいあるだろうと思っていた。しかし、御影より先に男が口を開く。 「……連れて行け」  頭に食らった強い衝撃。怯んだ隙に車の中に引きずり込まれる。口に中に薬と液体を流し込まれたのを最後に意識が途切れた。  目を覚ますと酷く気分が悪かった。強い酒をひたすら飲んだ時のように目の前がぐるぐると回っている。  力は入らないが、人の体の形は保たれているようだ。  頭の中はぐちゃぐちゃしている。見えないところに人がいるのか、いろんな感情が入り混じり、気持ちが悪くて一度吐いた。口の中に胃液とコーヒーの味が広がる。どれが声で、どれが心なのかわからない。  一度吐くと頭がややクリアになった。殴られた頭がズキズキと痛む。醜い感情を右から左へと流しながら、暗闇の隅でうずくまる。  失恋した伊織を慰めようと思ったのに、どうしてこんなところにいるのだろうか。一緒に美味しい酒を飲もうと思ったのに。  あの赤髪はきっと宇宙人だ。伊織のことがたぶん好きで、伊織と仲良くしている御影が嫌い。  髪の毛の間に指を差し込んで状態を確認する。意識がないうちに吐いたのか、髪に吐瀉物がついている。臭いしなんだか汚い。光希が金髪にして伸ばして欲しいと言ったからそうしているが、一度切ってもいいかもしれない。光希も御影に負けず面食いだし、御影と違ってプロデュース能力がある。何かと御影の髪を触りたがるし、服を買いに行く時は必ずついてくる。御影の宝物の写真集やファッション雑誌をみて小学生ながらにセンスを磨いている。御影は一番身近な実験台といったところだ。  かわいい弟のことを考えて現実逃避をしていると、騒がしい足音が近づいてくる。ドアが開け放たれ、久しぶりの光に思わず目を細める。  おそらく、男がふたり。 「起きてんじゃねえか」 「ボスまだ帰ってこないしもう一回寝かせておこうぜ」  無抵抗でいたら、また薬を飲まされる。雑に床に転がされ、また頭の中がぐるぐると回り始める。男たちから拾った名前に、深く安堵する。助けは思ったより早く来るかもしれない。  伊織の顔が見たいなあと思っているうちに、意識を失った。

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