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第8話

 太陽からの恩恵は惜しみなく与えられ、白い布からはみ出た触手は見境なく絡み合う。  パーソナルスペースなんてあってないようなものだ。  造形すらなんとなくあるぐらいなのに、それでも言語も科学もぬるぬると発展し続けてきた。  おそらく自分は好奇心が旺盛なぬるぬるだったのだろう。いつの間にか少し偉いところにいて、ぬくぬくしていた。  ぬるぬるぬくぬくな生活に不満などなかった。これ以上ない生活だと思っていた。  地球に行ってみない? と知り合いに言われた時にすぐさま頷いていた。  誰かが持ち帰った記録をみた時、いつかここを出るなら地球に行きたいとぼんやりと思っていたのを唐突に思い出したからだ。   ここ最近、ひかりの心が御影に傾いていくのを目の当たりにして焦っていた。  梨花は御影の体目当てだったが、ひかりは心を欲しがっている。御影はお人好しだから、心を欲しいと言われたら軽々と渡してしまえる男だ。たとえ、また伊織と穴兄弟になるとしても。  待ち合わせの喫茶店に現れたひかりを一目見て全てを察した。  いつもは着ないような愛らしい服と、綺麗に内側に巻かれたショートボブ。愛らしさを引き出しているひかりの様子をコーヒーに口をつけながら眺めた。  伊織ではなく、御影のための愛らしさ。デートの最中に切り出された会話は至極当然だ。 「伊織くん、別れよう」  どうしてだろう。息が苦しい。  離れることに盛大に失敗した。居心地が良くて可愛い抱き枕を増やして愛でていたに過ぎないにしろ、ひとりに依存することは避けられていたはずだった。  ピンク色のリップで彩られた唇が別れの言葉を吐き出すのも致し方ないというもの。  別れ話をコーヒー一杯飲みきるまでに済ませ、途方に暮れる。  ひかりはこの足で御影に会いに行くのだろう。  めいいっぱいお洒落しているひかりの手をとるお人好しを想像する。  欲しくないと言ったのは自分なのに、どうしてこんなにも苦しくなる。  柔らかいものと温かいものがあればいいと思っていたのに。  年々余計な感情を覚えていく心を空に放り投げたくなった。  ぐちゃぐちゃの心のまま、義満の診療所を訪ねた。開口一番に薬をくれ、と宣ったら怪訝な顔で観察された。義満は四十半ばだが、実年齢より若く見える。 「浮かない顔してるなあ」 「心がごちゃごちゃしてて五月蝿いから、静かにする薬がほしい」 「どうせ朝倉くんだろ……」  義満は盛大にため息を吐くとカルテを置いてコーヒーを入れるために立ち上がった。これは義満が相談コーナーに入る準備だ。面倒臭そうにしながらも、話を聞いてくれるらしい。ヤブ医者の風体をしているが、聞き上手なのは昔から変わらなかった。 「それで、朝倉御影くんと何があったんだ」 「何もない」  本当にその通りなのだ。何もない。ただ置いてきたはずの感情が戻ってきて戸惑っているだけだ。  優しくして、懐に入れて、いなくなったら寂しくなる。悲しくなる。  何度もそれを繰り返して、誰にも心を許さず生きていった方が楽だと悟った。  柔らかい体も、愛らしい声も大好きだ。体を許しても心を渡さなければいい。  長く生きているとそれが当たり前になる。  それだというのに、朝倉御影という男は実に楽しそうに生きていた。御影は合コンの時に初めて伊織を認識したらしいが、伊織は入学した当初から知っていた。まっすぐ伸ばされた背筋、大学デビュー組の中に混ざる金髪。人に関心がないように見えて、そのくせよく人を見ているし、困っている人がいればすぐ手を差し伸べる。  異物というのは案外見つけやすい。御影は地球によく馴染んでいた。しかし、家族がいることには驚いた。いつか絶対に悲しい思いをするのは明白なのに。  自分が置いてきたものを突きつけられて、混乱した。地球人として自然と生きている御影は眩しくて、羨ましくて、嫉妬して僻んだ。  昔の自分を見ているようで苦しいのに、一度触れてしまったせいで手放すのが惜しくなった。憎らしいほど優しい体温が忘れられなくなった。  体温を分け合っただけで愛おしくなる自分の愚かさに反吐が出るのに、避けられたらどうしようもなくなった。追いかけて抱きしめたら、向こうからも手が伸びてきた。  飽きもせず、伊織の顔を眺めている御影の顔が好きだった。まるで大切なものを愛でているような目に勘違いしそうになる。御影は伊織のことが好きなのではないか、と。  それと同時にこの顔でよかったと心底思った。この顔でいる限り、その優しい目を独り占めできる。だが、御影がセフレじみた彼女じゃくて、心からひかりを愛してしまったら、あの目はもう自分を見ないのではないか。  御影が誰かのものになるのは嫌だが、そんなことを言える立場ではない。恋人でもなんでもない、ただの添い寝フレンドなのだから。御影は伊織とセックスができるらしいが、宇宙人特有の貞操観念の緩さからの発言としか思えない。 「地球では、独占欲も恋の一種らしいぞ」  つらつらと思いを吐露していたら、それまで静かに聞いていた義満が口を開いた。  恋だと言うのか。ただ欲しいと思っているだけなのに。 「朝倉くんが好きだと認めてしまえば楽になるんじゃないのか。俺は朝倉くんがお前のこと好きなのかは知らないが」 「セックスはできるらしい」 「そ、そうか……」  宇宙人ふたりの性事情のさわりを聞かされて戸惑っている。  しかし、伊織は御影とセックスがしたいわけではない。御影がずっと隣にいてくれる確証があるなら、とっくにしていた。抱くにしろ、抱かれるにしろ。 「俺はべつにヤりたいわけではないんだよ……」 「あーそう」  義満の相談態勢は終わりに近づいている。 「同性なら、ヤらなくてもいいと思ってたんだけど」 「そうだな」 「そうもいかないのかもしれないな……」  故郷だったらぬくぬくうねうねしているだけでよかったのに。 「地球に長くいすぎたかな」  だからこんなにぐだぐだ悩んでいるのかもしれない。 「……地球人になることが、おまえの望みだったんじゃないのか」 「そうだっけ」  どうしてこんな面倒くさい星にいるのか、もう忘れてしまった。  遠くなってしまった記憶に思いを馳せていると、診療室のドアが無遠慮に開く。現れた赤髪の男を見た伊織の顔から表情が抜け落ちる。義満がしまった、と顔を顰めた。 「先生、看護師さんが呼んでましたけど」 「……わかった」  義満が出ていくと、赤髪の男が診察室に入ってくる。 「まだ地球にいたんだな。とっくに帰ったと思ってた」 「関係ないだろ」  派手な赤髪を逆立て、頬に傷跡がある男が面白くなさそうに口元を歪める。タレ目のくせに目つきが悪い。 「そんな冷たいこというなよ」  世の中に喧嘩を売るように生きている男を見ていると酷く疲れるのを思い出した。しかも、そんな男が自分のことを愛してるだなんだとのたまってうろちょろする始末だ。この男も所謂宇宙人なのだが、彼の星は比較的穏やかな星のはずだ。どうしてそんなに気性が荒いのかがわからない。  伊織が面倒臭いのは男の気性の荒さゆえではなく、男が伊織に向ける感情のせいだ。 「あのさ、俺にもう一度チャンスをくれない?」  思わず乾いた笑いが溢れる。昔々に盛大にフったというのに、今でもめげないのは褒めてやりたい。しかし、ここまで諦めが悪いと面倒臭い以外の感情が湧いてこない。 「あげないよ。いい加減諦めろ」 「つれないなあ。じゃあさ、名前ぐらい教えてよ」 「おまえに教える名前はないよ」  冷たく突き放しても尚も食い下がってくる。義満がスリッパをぱかぱか鳴らしながら戻ってくると、男は首を竦めて伊織を見た。 「俺は秋だよ。覚えて、香坂伊織」  瞬間に鳥肌が立った。秋と名乗る男はにやりと笑うと診察室を出て行った。 「あいつ、ここを出入りしてるのか」 「ああ……今まで会ってなかったんだろ。どうしてお前の名前を知ってるんだ」 「知らない」  面倒臭くなりそうな気配に義満が大きな大きなため息を吐く。先にため息を吐かれた伊織は所在なさげに視線を彷徨わせた。

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