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第7話

 家で映画を見よう、と誘われていつも通りのこのこ向かって後悔した。  ソファにちんまり座って戸惑っている可憐な女の子。なんでもない顔をして映画を見る準備をしている伊織。   昨日、うどん定食を食べている伊織の白い首に虫刺されがひとつあったのを思い出す。あの時、御影は真白の柔肌になんてことを、と小さい虫を恨んでいた。ぜひとも虫除けスプレーを献上したい。春の日差しを受けて、髪の毛の色素が透けている。しみひとつない肌に一点ある虫刺されは異物のように思えた。  春に蚊はいないし、歯型もつかない。春のうららかな昼下がりの中の美しい顔に見惚れていたせいで、やや思考能力が落ちていたらしい。  セフレには痕をつけさせないという伊織のポリシーに反するキスマーク。歯型をつけたい主義なのか、ただ下手なのかはわからないが、歯の小さい彼女ができたようだ。  伊織は柔らかいものが好きだ。伊織の家の掛け布団もソファのクッションもふかふかで柔らかい。好みの柔らかい女の子を見つけたのかもしれない、とは思っていた。  イマジナリーマシュマロ彼女が現実に降臨している。 「……おみやげのドーナッツが足りないので、買い足してきます」  踵を返して玄関に向かうと、軽やかな足音が近づいてくる。 「あ、あさくらくん……ごめんね、迷惑だったよね」  御影は彼女のことは知らなかったが、彼女は御影のことを知っているらしい。  黒髪ショートボブというなんとも高度なヘアスタイルだが、よく似合っている。くりくりした大きな目と小さなぽってりとした唇。ニットの下にはマシュマロが隠されているのかもしれない。 「いや、お邪魔なのは俺だから。ごめんね」 「あ、いえ……伊織くんには朝倉くんを優先すると言われているので、朝倉くんが帰る必要はないです」  失礼なことをしれっと彼女に言う男である。  ドーナッツは、足りなくて大丈夫なので……伊織くんがピザ頼んでるし……」 「そう……?」  彼女も戸惑っているが、同じくらい御影も戸惑っている。御影と名を知らない伊織の彼女は神妙な面持ちで顔を見合わせた。 「お名前、聞いてもいいかな」 「ひかりです!」 「よろしく、ひかりちゃん」  同じ大学のひとつ下。少し照れ臭そうに笑うその顔は可愛いと思った。  居間に戻る途中、一瞬だけ触れた体はとても柔らかかった。その腕に搔き抱いたら、とても気持ちがいい。御影が太ったら伊織は彼女を作らなくなるだろうか。一瞬湧いた疑問を打ち消すようにピザの到着を告げるインターホンが鳴り響いた。  ひかりと伊織と御影の不思議な集会は、一度では終わらなかった。週に二度は発生している集会の原因は、伊織の連絡不足だ。ひかりにデートの予定を尋ねるのも考えたが、それも違う気がした。伊織に彼女ができたにも関わらず、伊織と御影の時間が減ることはなかった。  御影は大学で伊織の顔を見られたら十分なので、ひかりとの時間を邪魔する気は毛頭ない。しかし、伊織はそれがどうしてか不服らしい。気を遣って帰ろうとすれば、不満げな顔でこの大量のピザを誰が食べるんだ、と言ってくる。御影が食べるにしても、十分多いのだが。  最近の伊織のお気に入りはピザらしい。今日も今日とて宅配のピザがテーブルに広がっている。ひかりはバイトがあるから今晩は来ない。気の許すまで居座っても良いのだが、御影にはその気はなかった。 「伊織、俺を家に呼ぶのやめて」 「なんで」 「ひかりちゃんに悪いだろ」  御影は真っ当なことを言っているはずだ。それなのに、この不満げな顔はなんだろう。 「今まで通りにしたいなら、俺をソファで寝かせるとか、終電で帰らせるとかして」 「……」 「俺の横でセックスされても、俺もひかりちゃんも困る」  御影が寝落ちようとしているところで、衣擦れの音が激しくなったのは二日前の夜のこと。ふかふかの掛け布団を御影に全部押しやり、ひかりを抱こうとしていた。唾液が交わる水音、柔らかい肉に吸いつくリップ音、伊織に着せられたグレーのスウェットの中を弄る手つきさえ伝わってくる。ひかりの一際焦った声が一瞬で溶けて、ブラが外されたのがなんとなくわかって布団に埋まりたくなった。  ひかりの制止の声に効果はなく、行為はヒートアップしていく。こうなったら、御影は静かに家を出て行くしかない。運良く見つけたタクシーで帰れはいいものの、さすがの御影も堪忍袋の緒が切れというもの。ただ三人で仲良く川の字で寝ているなら我慢もできるのに。  今も混ざればよかっただろ、と呟いている伊織に白目を剥きたくなる。伊織と御影はともかく、ひかりは三人で興じるタイプには思えなかった。 「俺がひかりちゃんを抱くと思ってるだろ」 「あんただって女は好きじゃん」 「俺が伊織の顔好きだって知っててそれ言ってる?」  ピザを咀嚼して動いている頬を包んで指で唇についているトマトソースを拭う。猫のように目を細めて、猫のように擦り寄ってくるのは無意識だろうか。長い睫毛が白い肌によく映える。薄く見える黒目がきらきら光っている。 「ひかりちゃんの前で、お尻開いて俺の挿入れてもいいわけ? 伊織の男としてのプライドめちゃくちゃじゃない? それに、俺とくっついたら触手も出てくるかもしれないのに……どうしてそんな気軽に混ざればとか言うんだ」  じわじわと伊織の顔に朱が集まっていく。御影から離れない視線がだんだんと潤む。思わず目を瞠ると、ピザを嚥下した口がやけにゆっくり開いた。 「尻は、いいけど、触手はだめだ……」  その言葉に今度は御影が揺れた。  お尻は、いいのか。御影がひかりの前で挿入れるのはいいのか。御影に気持ちよくされたら、触手が出てしまう可能性は否定しないのか。 「じゃあ、混ざれとか言うなよ……」  必死に絞り出した声で話を終わらせようとする。手を離そうとしたら捕まえられて、指についたトマトソースを赤い舌が舐めとっていく。 「トイレ、使っていいぞ」  臨戦状態になった御影を尻目に、伊織は食事に戻る。美味しそうにピザを食べている伊織を恨みがましく見つめる。御影の視線に気がついた伊織が少しだけ口角をあげる。男を弄んで何が楽しいのだろうか。  この奇妙な関係に名前をつけたいとは思わない。毎日顔を合わせて、一緒に寝る関係。有り体に言えば添い寝フレンド。  御影は伊織の一番の友人になりたいのであって、恋人になりたいわけではないはずだった。伊織のえっちな仕草を見たらどきどきするし、セックスしたいかと問われたら頷くしかない。このぬるま湯のような関係は心地よくて、手放したくないのも事実だ。  御影が本気でセックスがしたい、と言ったら伊織は了承するのだろうか。伊織とセックスするならタチネコどちらでも構わない。できれば抱かせて欲しいが、果たして伊織が大人しく抱かれてくるのかは疑問だ。 「そういえば、たぶんもうすぐ人が来る」 「先に言ってくれよ……」  またのこのこ来てしまったではないか。伊織のこのフリーダムさに最近振り回されすぎではないだろうか。伊織に振り回されなかったことなんて一度もないのだが。 「ただの定期検診だ。あんたも診てもらったら」  その言葉を聞いて、目をしばたく。どこか体が悪いのだろうか。  近頃タイミングよく鳴るインターホンのせいで、疑問は口から出ることはなかった。  御影が玄関を開けると、無精髭の男が立っていた。髪もぼさぼさだし、よく見るヤブ医者の風体である。 「香坂のダチか? めっずらしいなあ」  お邪魔します、も言わずにどかどかと家に上がりこむ男の我勝手知ったる、という様子に呆気にとられる。 「おまえにダチができるとか思ってもみなかったわ」 「義満は相変わらず騒々しい……」  じっとりと男を睨んでいる伊織の視線も幾分か心を許しているように見える。   伊織がちらりと御影を見つめる。御影が首を傾げると、世間話をするように御影の秘密を暴露した。 「そいつも地球の人間じゃない」 「なるほど、オトモダチってわけか。ついでに診てやるよ。宇宙人だって病気するときはするんだからな」  合点がいったとばかりの医者の様子にしどろもどろになる。とりあえず礼を口にすると、義満とういう名の男は満足そうに笑った。 「おまえのオトモダチにしたら、よくできた地球人みたいだな」  その言葉に伊織の交友関係が少し不安になる。伊織からオトモダチの話は一度も聞いたことがない。いないものだと思っていたが、少なからず交流はあるようだ。  義満は代々伊織と知り合いの医者一族だった。長く生きていると、秘密を知っている地球人の存在が必要な場面も多々ある。恩を売って一族もろとも助っ人にする宇宙人もいる。  地球人と深い縁を持つのを嫌がっているよう見えた伊織にも支持者がいたのは意外だ。斯いう御影も不本意ではあるが、長い付き合いの地球人はいくらかいる。あまり世話になりたくないと思いつつ、姿形を変えて人間界にいると助かる場面も増えてくる。 「仲、いいんですか?」 「全然」  何気なく尋ねると、ふたり同時に返ってくる。 「先祖がだいぶ世話になったらしくてな、今は俺が世話してるってわけだ」 「へぇ」  義満は御影の体を触りながら、ほっとしたような顔をしている。 「あんたの元の姿ってどんな感じなんだ?」 「……わりと地球人よりですかね……」 「そうだろうな。臓器の位置が無理なく配置されている。無理に地球人の側に押し込めると体調不良の原因になるんだが……あんたあんまり病気したことないだろ」 「いたって健康体ですね」 「そこのヤリチンは昔々、無理やり人間に変体してたからすぐ体調崩してたらしい。ぶっ倒れていたところを俺の先祖の美人が拾って、大恋愛の始まりだとよ」 「えっ」  驚きのあまり義満の顔を見る。伊織の大恋愛。もしかして、伊織が深い関わりを持たない要因はそこにあるのだろうか。現在進行形なら目に見えるが、昔の女性関係の話はほとんど聞いていない。気に障ったようで、伊織が義満の足を蹴飛ばした。 「余計なことまで喋るな」 「おーこわいこわい」 「おもらしして俺に宇宙人パワーでどうにかならないかと泣きついてきたくせに、随分大きな口がきけるようになったものだ」 「人間って成長早いよね」  昔は義満の方が小さかったというのは微笑ましいほどの成長だ。御影がしみじみと呟くと、長い足に蹴飛ばされる。 「おふたりさん、もしかして付き合ってるのか?」 「いえ、添い寝フレンドです。伊織は最近彼女ができたんですよ」 「へえ……こいつが家に女以外入れてるの珍しいから、てっきり恋人なのかと」  伊織の下半身の緩さは有名らしい。義満は残っていたピザを食べると帰っていった。 「……添い寝フレンド……」  何やら呟いていた伊織だったが、歯磨きを終えると例の如く御影をベッドに引きずり込んだ。

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