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第6話
香坂が御影に気を許したことを後悔していると気がついたのは、期末試験前。伊織があからさまに御影を避け始めた時になってからだった。
たった二ヶ月。されど二ヶ月。香坂と過ごした時間はあまりにも長かった。大好きな顔を毎日見れないことがこんなにも辛いは思っていなかった。贅沢を覚えた脳は、避けられはじめて十日ほどで限界を迎えていた。
食堂で空になった弁当を前に無気力になっていると、目の前に同じ学年の山口が座る。山口の趣味は合コンだ。それらに全く興味がない御影は、誘われるのが面倒で、なるべく避けたい人間だった。前回は参加費全負担するから参加してくれ、とおきまりの文句のせいで参加することになった。おかげで、香坂伊織という国宝級のお顔に出逢えた。
山口が主催の合コンに行った伊織を迎えに行ったこともある。お持ち帰りしなくていいのか、と聞いたら「あんたと見たい映画がある」と返ってきた。マフラーに顔を埋めて、少し上目遣いで言われてたまらなくなったのを覚えている。
「香坂と喧嘩した?」
開口一番の山口の言葉で現実に引き戻される。
「人って難しいね山口……」
遠くで伊織の背中が見える。今日のランチはうどん定食らしい。ちゃんと食べているのならば僥倖だ。
「女でも取り合ったのか?」
無言で首を横に振る。
正月に伊織が逆ナンした女と致しているところに割り込んでしまったことはあるが、取り合ったことはない。そもそも、ここ一年の間で御影は恋人らしい恋人ができていない。
「そんな朝倉くんに朗報です!」
「……どうせ合コンだろ……」
「大正解です!」
「行かない……」
合コンに行っても、伊織級の顔の良さに出逢える気がしない。そもそも今足りていないのは可愛い女の子ではなく香坂伊織なのだ。
「参加費全額負担するから! 頭数になってくれ!」
例に漏れず、おなじみの手法で懇願されている。
御影はうんざりしながら、参加することを了承した。
顔合わせぐらいの一次会、本番は二次会のカラオケから。
御影の参加費は山口が全て負担するというので、遠慮なく二次会までついてきてみたのだ。
ちょっと目が合っただけで、その子は隣にいた。ふわふわの栗毛、ぱっちり二重、潤んだ唇。小さな顔は両手で収まってしまいそうだ。梨花と名乗るその子は、同じ大学の同期だった。
当たり障りのない、サークルの話とか来年度の大学生活をしているうちに、梨花が距離を詰めてきていることには気がついていた。
華奢な声が、もう既に酔っ払っている山口の歌声に負けそうで耳を澄ます。
「朝倉くんは好きな子いるの?」
咄嗟に伊織の顔が浮かび、思わず苦笑する。期末試験が終わっても避けられ続けているから世話がない。
「望みは少ないんだけどね」
伊織を好きな人に見立てて話をすると、梨花の顔が切なそうに歪む。強かな表情筋である。
「朝倉くん格好いいのにね」
相手はもっと格好がよくて美しい人なんだけどね、と言いかけて飲み込む。
梨花の手がそっと御影の手に添えられる。
「抜け出しちゃわない?」
甘くて小さい囁きに、思わず頷いていた。
伊織がいない寂しさと、好きな顔でもないのにセックスしようとしている自分への虚しさで心がぐちゃぐちゃになりそうだった。
梨花との関係はきれないまま、春休みに入った。伊織とは一度もちゃんと顔を合わせていない。
あの合コンから一週間経った時に、朝倉くんが好きな人に好きって言えるまででいいから、なんてほだされて付き合うことになっていた。目敏い光希に女の人には優しくだよ、と諭されている兄とはなんだろうか。
伊織と会わなくなってから、写真集の数が増えた。
伊織と行ったバーにも行っていない。
一緒に観に行く約束をしていた映画も公開されたのに。梨花を誘ってみたが、趣味じゃないと断られた。
しかたないからひとりで行くか、と重たい腰をあげて街に出る。少しだけ暖かくなった外気温に、春の前触れを感じる。しまい込んでいるカメラを引っ張り出して、伊織と一緒に桜を見に行きたかった。あの顔で桜と戯れてくれたら、それだけで写真集を一冊つくれる。
春休みのせいか映画館は人が多い。
券売機近くに伊織の顔を見つけてしまったのは偶然としかいえない。伊織は映画を見に行っただろうか、とは思っていたものの、探す気もなかったのに。遠目からでも伊織の顔をみれた嬉しさでじわじわと心が温まっていく。
ポップコーンとドリンクをふたつ持っているから、誰かと来ているのかもしれない。
声をかけたら面倒だと思われるだろうか、邪魔だろうか。ぐるぐる考えていると、最近見慣れたふわふわの栗毛が伊織に駆け寄っていく。梨花だ。
頭の中でクエスチョンマークが一斉に飛び交った。
伊織の腕に梨花が絡みつく。どう考えても浮気現場だ。伊織が顔を寄せて梨花と何かを話している。伊織が女性に甘いところなんて何度も見てきたが、あれは寝た女に見せる顔だ。やたら甘くて、女性を可愛い生き物だと思っている顔。
伊織が梨花と寝ていたって構わないのだ。ただ、伊織の隣で映画を見るのが自分ではないことが悲しい。御影を避けておいて梨花と映画に行くのはなしだろう。一緒に行くと約束していたのに。
深く息を吸って吐き出すと、ゆったりとふたりに歩み寄った。
「偶然だね、ふたりとも」
「朝倉くん……」
強張った梨花の顔がちらりと伊織を見上げる。伊織といえば、悠長にジュースを飲んでいる。御影がいたことに気がついていたのだろう。どちらにせよ、梨花が御影と付き合っていることを知らない顔ではなかった。
「梨花、帰ってくれる?」
「え、ちょっと朝倉くん」
戸惑っている梨花にそれだけいうと、伊織の腕を掴んでその場を離れる。
「チケット二枚持ってる?」
「持ってる」
「あとでお金払うから」
ネットで買ったチケットは空席になってしまうが、満席になるほどの映画ではないから大丈夫だろう。無言でチケットが手渡され、御影がそれを受け取ると、伊織は手持ちぶたさにポップコーンをつまみはじめた。
チケットに記載されている作品名をみれば、御影がこれから観ようと思っていた映画だ。つまり伊織と観に行く約束をし、梨花に誘いを断られていた映画である。
もうすぐ開場が始まる。言いたいことは後だ。
「ポップコーン、ちょっとちょうだい」
「……オレンジジュース、口つけてないから」
梨花の分のオレンジジュースは見事に御影の胃袋に収まることになった。
「それで?」
「それで、とは」
「俺を避けていたことに対するあれそれを聞こうと思うんだけど」
物憂げな顔でコーヒーに口をつけている伊織は珍しく御影から目を逸らしている。
映画はたいへん面白かった。映画館で見るべきだとおすすめしたい作品だ。御影も伊織も終わった瞬間に満足感に浸っていたし、そのまま喫茶店に連れだった。先程浮気現場を目撃し、目撃されたにも関わらず。
一息ついたところで御影が切り出したのだが、伊織は全く答えようとしない。
「浮気について俺は何か言うつもりはないから」
「女取られて何も思わないのか」
「伊織の方がいい男だってことだろ」
呆れ返って白目すら剥きそうだ。
「あの女のこと、好きだったんじゃないのか」
「まさか」
そういえば、御影が好きな人に告白できるまでと言って付き合っていたのだ。好きだなんだとは一言も口にしてはいないが、制約はある意味守られたのかもしれない。こうして伊織と顔を突き合わすきっかけをくれた梨花に感謝しよう。
伊織は何も語ろうとしなかった。何を聞いても答える気がないと悟る。明日からまた会ってくれなかったら、一日だけ付き合ってもらって写真を撮らせてもらおう。
長い睫毛が静かに瞬くのを見つめているうちに、ふたりのコーヒーカップは空になっていた。
駅の改札まで歩く間も、ふたりは一言も会話しない。
「また、明日?」
改札前で疑問符をつけて尋ねると、伊織が薄く笑う。
「うちくる?」
まさかの誘いに思わずフリーズする。きゅん、とときめいた心は敢えて無視しよう。
「今日?」
「そうだけど」
無理ならいい、と小さく呟いた伊織の手を握る。
「行く」
有無を言わさぬ物腰の御影に押された伊織はなぜか安心したように肩を落とした。
久しぶりに来た伊織の家は何も変わっていなかった。テイクアウトしたハンバーガーをローテーブルに置いて、ソファに座ると無言で缶ビールが差し出される。
ありがとう、と受け取ろうとした瞬間に眉間を缶で押される。バランスを失った体はソファの背もたれに受け止められる。理不尽な暴行に文句を言おうとしたら、御影の体を跨いで膝の上に座り込んだ。
「なにして……」
間近で見て目を瞠る。睫毛の影が落ちる目元にくっきりとついた隈。喫茶店で穴があくほど見ていたくせに、どうして隈に気がつかなかったのか。
手を伸ばして隈をなぞる。自分から乗っておいて、気まずそうな顔をしているも、されるがままになっている。
「この隈どうしたの」
「眠れなかった」
「伊織が?」
御影といる時の伊織は驚くほど寝つきがいい。御影も目を閉じたらすぐに眠る性質だが、伊織には劣る。横になった瞬間に眠っていると言っても過言ではない。
するりと背中に回された腕にぎゅう、と抱きしめられる。御影が無意識に抱き込んでいることがあっても、伊織から抱きついてきたことなど一度もない。珍しく弱気な伊織がひどく愛おしい。
「あの女はやめておけ」
「……なんで」
「触り心地はいい。肉付きもよくてすべすべしてる。でも、すぐラブホに行きたがるし、あんたのはちんこしか見てない」
あけすけな言い方に思わず苦笑する。
「どうしてあの女と付き合ったのかわからん」
はは、と笑って誤魔化すと背中がつねられる。伊織に避けられて自棄になったせいだ、とは言いづらい。
「それで眠れなかった?」
違う、と小さい声で否定される。言葉を促すように背中をさすると、深い深いため息を吐く。
「心でも読んでくれ」
「口で言って」
郷に入っては郷に従え、だ。この星では心を読まずに言葉で伝えるのがルールだ。
長い長い沈黙の後、絞り出すような声で伊織は言った。
「あんたがいないと眠れない」
「かわいい……」
思ったことが口から出ていた。今度は背中に爪が立てられるが、猫がじゃれているようだ。
「こんなのはおかしい……」
「なんで?」
「誰かを欲しいと思うのは、健康に良くない」
吐露された心が切なくて苦しくなる。伊織が今までどのように生きていたのかを全く知らない。知っているとすれば、伊織の心が寂しくて優しいということぐらいだ。それでも、伊織が昔々に悲しい思いをしたのは確かだった。
「伊織は俺が欲しいの」
「ほしくなんかない」
「ふーん」
信じていない御影の肩に、額をぐりぐりと擦り付けてくる。本当に猫のようだ。
素直じゃない伊織の背中を撫でていると、薄くて硬い体がだんだん重く暖かくなっていく。御影を避け続けて眠れなくなったのは本当らしい。
微睡み始めた伊織の体を抱いたまま立ち上がった。伊織のハンバーガーは明日の朝までお預けだ。温もりを増した伊織の体をベッドに横たえると、やんわりと引き寄せられる。
「めんどくさい宇宙人の友達なんかやめておくか?」
夢の世界に行く寸前の柔らかい声が耳元で囁く。
「やめないよ」
一も二もなく答えると腕が離れていく。
「……あんた……人が良すぎて損するタイプだよ……」
薄い唇が自虐的に歪む。睡魔の影が見えそうなぐらい眠たげな目がとろりと細められ、瞼によって隠された。
「それは自分のことを言っているんだろ」
投げ出された手をとって甲に口づけをする。擽ったそうに指先が動く。変化が解けて紫色の触手が姿を現す。ついでに触手にも口づけた。
布団を丁寧にかけて、ハンバーガーを食べるべく立ち上がると、触手の束が御影の体に巻きついた。どこから出ているのかは不明だ。あれよあれよというまに布団の中に引き摺り込んだ触手たちは、御影が空腹を訴えても離そうとしない。無理に離れるには勇気がいるし、少しでも動くとさらに強く絡みついてくる。
寂しそうに待っているハンバーガーを眺めていた御影は、だんだんと触手と布団の温もりに溶かされていった。
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