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第26話 実玖とストレス
実玖は猫の時の記憶が日毎に曖昧になっていて、はっきり覚えていることと忘れていることがある。
だが、ほとんどの猫が「人間より自分の方が位は上だ」と認識していたのは覚えていた。それは家猫でも野良猫でも同じだ。なんの根拠だか全く分からないが、猫の方が偉い、そう思い込んでいた気がする。
人間は猫より動きが緩慢で、ニャンと鳴けば美味しいものを食べさせてくれ、たまに怖い人も居るがそんな立場をわきまえないのろまな奴からは逃げればいい、というような感じだろうか。
「人間は猫に尽くすものよ」
胸を張って気位高く、強い口調で放たれた言葉は実玖の胸の奥を痛くする。
鋭い目付きの猫に何も言えなかった。
実玖はこの気持ちをどうしたらいいのかわからない。猫どうしの時とは違う種類の強い感情を突然つきつけられる。実玖はニンゲンになって猫の気持ちがわからなくなってしまったのかもしれないと思った。
「どうした、疲れたのか」
帰りの車の中で言葉少なく、景色を楽しむでもない。伍塁は沈んだ表情をしている実玖のおでこに手を当てた。
「すみません、なんでもありません」
「帰って休もう、緊張したんだよね。気が付かないだけで疲れてるんだ」
実玖は伍塁に隠し事をしたくなかった。
「伍塁様」
「ん、どっか痛いのか」
「違います。もし、自分で解決できない胸が苦しいことがあったらどうしたらよいのでしょうか」
実玖は猫に言われたことを伍塁に話すわけに行かず、落ち込んだ気持ちを伝える言葉もわからなかった。
「待って、苦しいの」
伍塁は道路脇に車を停め、実玖の顔を見るために顔を近づけた。実玖は拳をきつく握って、しっかりしなくてはと力を込める。
「申し訳ありません。詳しくは言えませんが、厳しいことを言われてここが痛いような感じがするのです」
握った拳で胸の辺りを押さえて、伍塁の目を真っ直ぐ見ているが瞳は震えている。実玖はニンゲンになって伍塁と暮らして、仕事や生活が楽しいことばかりでこんな気持ちになったことがない。猫だった時は考えることも少なく、思考も今より浅かった。
「僕に話せないことなの」
「申し訳ありません、わたくしの個人的なことです」
「そっか」
伍塁は実玖のプライベートについて全て知っているはずだ。日曜など休みだから自由にしたらいいのに実玖はいつも家にいる。いつでも伍塁のそばにいたい、それが実玖の目的だから当然だ。
そして今日一日一緒にいて、実玖がそんな気持ちになることがあったと伍塁が気付けるはずがなかった。
俯いたままで「申し訳ありません」と呟く実玖の横顔を見る伍塁は、苦い顔をしている。
「僕に話せないなら他に相談できる人はいないの。話したらすっきりするかもしない」
「家政ふ紹介所の未差さんか雑貨店の憂差さんなら話を聞いてくれると思います」
「わかった、そこに行こう」
実玖は驚いたが伍塁が「場所はチラシの場所でいいよね」と言うと同時に車は走り出した。さっきまでの運転と違い動きが荒くスピードも出ていることと、伍塁が何を思っているかわからないことに実玖は言葉が出ないまま不安になる。
真宝野雑貨店の前で車を停めたが伍塁はしばらく無言だった。
「伍塁様」
ここに来るまでの沈黙に耐えられなくなった実玖は伍塁に呼びかけた。伍塁はハンドルを握って何か考えてるのだろうか。いつもより横顔が冷たく感じる。
「僕は実玖のこと、まだ知らないことばかりだなと思って。何でも相談してくれればいいのに。勝手にすごく仲良くなったような気がしてた」
深呼吸をした後に伍塁は気まずそうな笑顔で実玖を促した。
「相談しておいで。終わったら迎えに来る」
実玖は自分の気持ちをうまく言葉にできないのと、伍塁まで苦しそうに見えることに戸惑っていた。
「伍塁様、わたくしは伍塁様にお仕えすることが一番の幸せです。伍塁様に不自由なく過ごしていただくことが、わたくしの仕事なのに。申し訳ありません。自分のことをうまく動かすことが出来ないのです。考えることと体が別になって言うことをきかないのです」
実玖は今の状態を実玖の表現できる言葉で伍塁に伝えた。
「僕にも自分の気持ちがわからないこともある。実玖はずっとうちにいてストレスがたまってるんじゃないかな。遊びにも行かないし。息抜きできるなら行っておいで」
実玖は歩道で深くお辞儀をし伍塁の車を見送ってから真宝野雑貨店の扉を開けた。
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