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第33話 実玖の葛藤

 伍塁(いつる)の前に土鍋を置き、熱くないように二重にした猫の手型の鍋つかみで蓋を取る。具材が溢れるように湯気の中で揺れていた。 「おー! おでん、久しぶり。美味しそうだね、いただきます」  実玖(みるく)は金縁の伊万里の小皿に、からしと焦げ茶色の練り味噌を添えて差し出した。 「味噌の作り方は、買い物したお店の方に教えていただきました。その表面がギザギザした、はんぺんのようなものは『角麩(かくふ)』というものだそうです」  実玖は食べたことのない物がほとんどなので、教えられたものは何でも作っている。夕食の献立に悩んでいたら、帰りに寄った小さな食品店で女性に勧められた。 「お兄ちゃん、おでんにしたらいいがね。昆布でダシとって。大根や人参ある? ふたりならハンペンや練り物はこのパックで足りるわ。ゆで卵とカシワと、この角麩も。味噌も付けたら名古屋風だわ〜」  押しの強いオバチャンは親切に自分の地元の味を教え、実玖は興味津々でメモをとる。こうしてレパートリーが増えていくのが楽しくて、大手スーパーではなく、地元の商店街に行くことが多かった。 「かくふ? 初めて食べるかも」 「伍塁様も初めて食べるものがあるのですね」 「そりゃあるよ。世界には知らない事、知らない物だらけだ」  そう言って湯気がたつ角麩を半分噛み切って咀嚼する。伍塁の喉が上下に動くのを見ながら、実玖は考えていた。今日の報告をしなくては。 「この歯ごたえは面白いな。ギュッと詰まったちくわぶか、柔らかくなったくず餅か……。ところで医者行ったの?」  実玖が話す前に伍塁から話題にした。先に聞かれてしまい実玖は焦ったが、伍塁から聞かれる方が自分から切り出すより話しやすいかもしれないと思った。 「今日は漢方の治療院に行ってきました」  漢字では漢方と書いてあったから間違いではないと思う。 「そうなんだ。漢方、どうだった?」  実玖は部屋の中にあった、引き出しがたくさんある古い家具の話や、干してある草花の話、家政ふ紹介所の未差がそこを紹介してくれたこと、サプリは一緒に作ったことなどを話した。 「西洋アンティークなのかな。引き出しがたくさんある棚って、なんかいいよね。使い道が無いけど欲しくなる」 「この水屋も下半分は、たくさん引き出しが付いてますね」 「そこは建物も古いの?」 「古そうな感じでした。木の床がツルツルじゃなくてボコボコしてて」  なんでも話したが、もちろんヒゲの話や、しゃべるバッタの話はしていない。   「面白そうなところだね。僕も行ってみたいな。ところで、風邪だったの? 花粉症?」  肝心なことを話さない実玖に伍塁が聞いてきた。  実玖はなんと言おうか、考えがまとまらないまま悩んでいる。 「病気ではないみたいです」  嘘ではない、ヒゲが生えたのは元々猫だったからだろう。実玖は生まれ変わったが、何かの不具合でヒゲが生えたのだ。 「ふぅん。じゃあなんだったの?」  伍塁は食事の仕方が綺麗だ。箸の持ち方は指が揃っていて、習った通りの持ち方で先の方だけ器用に使う。  それを目で追うのは自然な事だと思う。実玖はぼんやりと動きを見ていた。 「ねぇ、なんだったの? 変な病気じゃないよね」  お酒を飲まない伍塁は、白菜の漬物をサクサク噛みながら麦茶に手を伸ばした。実玖がつぎ足そうとするとそれを制して言う。 「言えないようなことなら、立ち入らない」  伍塁がはっきりと言葉を切ることは今まで聞いたことがなく、実玖はそこまで言われていよいよ説明しないわけにはいかないと思っている。だが、なんと言ったらいいのかわからなくて、ニンゲンは少し不自由だと思っていたが口を開いた。 「調子が悪いのは何か精神的なものじゃないかと。なので不安を和らげるサプリとお茶をいただいてきました」  何気なく、普通に、平静を装って報告をしたつもりだが伍塁は、皿の上でゆで卵を崩しかけている手を止めた。 「精神的なもの? 実玖は何か心配ごとがあるの? 今の仕事の不安とか僕の態度とか? それとも待遇? 隣の部屋じゃ落ち着かない?」  いつもの伍塁らしくない、一方的な問いかけに実玖は視線を横にずらした。絶対にそんなことはないと思いながらも、伍塁の顔を見たら怒られそうな気がした。 「……そんなことは、ありません」  隠しごとをしていることにまた、後ろめたい気持ちになる。何か言おうとしても上手く言葉にならない。  伍塁が溜めた息を吐く音が聞こえて、唇を噛みしめた。手も握ったまま固くなる。 「伍塁様にずっとお仕えしたいです」  うつむいたまま、そう答えるのが精一杯だった。更に下唇を噛んで、逃げ出したくなる気持ちを抑えようと足先まで力が入っている。  実玖の苦しそうな様子に、伍塁は穏やかな声をいっそう柔らかくした。 「ごめん、怒ってるわけじゃないんだ。言い方が悪かったね。不安とか心配ごとがあるなら、ちゃんと言ってほしい。実玖がいると助かるし、毎日楽しいって僕だけが思ってるのは嫌だよ。こうやって食事の時間が楽しいと思えるのは、実玖が来てから感じてることだし。家のことだって一人じゃ無理。だから、僕もこの生活を続けたいと思ってる」  伍塁は震えそうなほど固まっている実玖を焦らせないよう見守っている。実玖が考えるのに時間がかかるのを知っているのに、畳みかけるように言ってしまったことを少し後悔していた。  実玖は伍塁の言葉に目がヒリヒリしてきた。伍塁は「毎日楽しい」と言った。 ヒリヒリするのをまばたきで誤魔化して、上をむく。早く誤解を解きたくて、きつく目を閉じてから伍塁をしっかりと見つめた。   「初めてのことが多くて、気が付かないうちに緊張してたのかもしれませんが、毎日楽しくて自分では不調かどうか、今もわかりません。少し疲れてるかもと言われて、そうなのかと思ったくらいです。なので、大丈夫です」  口を横に引くように笑顔を作って、不自然じゃないよう伍塁の顔を見た。視線もしっかり合わせたが、伍塁はまだ冷たい空気を含んだような顔をしている気がする。 「とりあえずご飯をたべよう。冷めないうちに。あ、実玖のは冷めてもいいのか。はい、実玖の分も取り分けたから」  そう言った伍塁を見るといつもの笑顔だった。実玖の猫舌を知って、熱いものは冷めやすいように分けてくれている。  割りかけてたゆで卵に味噌をつけて口に運び「これはご飯に乗せたらいくらでも食べられそう」と、残り半分の卵をご飯に移した。  伍塁が美味しそうにしているだけで、実玖は萎んでいた気持ちがまた膨らんで報告をつづける。   「そういえば、今日サプリと一緒にこれ貰ったんです」  ハーブにもらった編みぐるみのクマと猫を見せてプラプラと動かした。それからクマを伍塁の方へ差し出す。 「ひとつ伍塁様に」  受け取った伍塁も紐をつまんでプラプラさせた。細い糸で丁寧に編んであるペパーミントブルーのクマだ。 「こういうの、幼稚園くらいの時、好きだった気がする。なんだか懐かしいな、ありがとう」 「わたくしのはこれです」 「なにそれ、ミルクそっくりだ!」  猫の編みぐるみをミルクそっくりと目を見開く伍塁は、子どもの頃にもどったような顔をしていて、実玖の胸の奥がトンと叩かれた。 「わたくしがクマを伍塁様が猫を持つように交換しましょうか」 「ありがとう、嬉しいな!」  アイボリーの猫。ところどころに掠れたような茶色が混じっている。  自分はこういう姿だったのかと、しみじみと編みぐるみの猫を見ながら、冷めはじめたコンニャクをかじった。不思議な噛み心地と独特の風味が美味しいのかどうか、まだ実玖にはわからなかった。  

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