32 / 41

第32話 ハーブとマーガレット

 ひそひそと小声が聞こえている。  何を言っているのか、聞こうとして意識を向けても誰もいない。  とぎれとぎれの声が、また聞こえてきた。 『……って、……でしょ』 『あの猫……』 『伍塁(いつる)が知らないと思って……』 『……猫のくせに……』 『ヒゲでバレるから……』 (伍塁様の道具たち? わたくしが猫だとバレてる?) 『嘘つくからヒゲがはえたんだ』 『じゃあ、もっと生えてくるな!』 『めんどくさいから、伍塁に教えてやろう』 『おー! あいつは猫だぞ!』 「それはダメです! やめてください!」  手を伸ばして目を開けると、草花が天井からこちらを目指して落ちてくるかと、実玖(みるく)は慌てて起き上がった。 「大丈夫?」  木の丸椅子から立ち上がって近づいたハーブは、踏み台で背伸びをして、ゆっくり実玖の肩を押さえてソファに戻した。 「なにか不安なことがあるの?」  覗き込まれて、その心配そうな瞳と、夢から覚めてはっきりしない意識でつい本音が出てしまう。 「ご主人の伍塁様に、猫だったことがバレたらどうしようかと、時々思います」  ハーブは頷きながら実玖の髪を優しく撫で、ヒゲに貼り付けた葉を端からめくって様子を見た。 「キレイにとれたわ」  実玖に根元から抜けた長い猫ヒゲを見せて、踏み台から降りて行った。 「まださわらないでねー、クスッ」  ぼんやりとその後ろ姿を見て、ほっとした気持ちと不安な気持ちがないまぜになった。 「ニンゲンになってどのくらい?」 「……3ヶ月くらいです」 「ほんとに? もっと長いのかと思ったわ、落ち着いて見えるもの。クスッ」  ハーブは暖かいタオルで実玖の頬を丁寧に拭き取り、手で温めたジェルを顔に伸ばしてマッサージを始めた。  顔の上をリズム良く滑る感触に、強ばっていた顔の緊張が溶けてきた。実玖は気持ちよさを素直に受け止めると、力が入っていたのか体が緩んで、ふーっと息を吐く。 「心を落ち着かせるサプリを作ろうか。ヒゲが生えたのも、精神的に疲れてたり不安定になってるのもあるかもしれないね。ニンゲンになったら元に戻ることはできないから、動物のヒゲとか爪とか、もう生えなくていいよね。何で不安なのかわからないけど、迷っても仕方ないの。もうあなたは一人のニンゲンなんだよ。猫だったことは誇りに思って胸にしまっておけばいいと思う。ニンゲンとして堂々と生きればいいんじゃない? クスッ」  ハーブは、また暖かいタオルで顔を押さえて「はい、おしまい」と、リクライニングしていたソファをもとに戻した。 「みなさん悩みますか?」  実玖は駆け足でニンゲンになる修行をし、伍塁との生活を仕事としてこなし、悩む暇などない三年と三ヶ月だった。 「そうだねぇ、ニンゲンの生活にストレス感じて、もう無理ってなるのもいるわよ。赤んぼから生まれ変わったニンゲンなら、自分が元は人間じゃなかったなんて思ってないわけだけど。クスッ。あなたや私や未差(みさ)さん憂差(うさ)さん姉妹みたいに、ニンゲンになる前の記憶を持っていたら、そりゃあいろいろあるわよ。でも、そうしたかったんだからしょうがないわよねぇ。クスッ」  みんな悩みがあるのかと思えば、少しほっとする。 「未差さんや憂差さんもここに来るんですか?」 「そうね、時々来るわね」 「悩みがあるのでしょうか」 「それは守秘義務があるから内緒。クスッ」  実玖はハーブと目を合わせクスクスと笑った。未差や憂差だって自分と同じくニンゲンになりたくてなったんだから、きっと何か悩むことはあるのだろうと納得した。  自分のことは自分で決めて、困った時は相談して、疲れた時はここに来よう。 「じゃあ、一緒にサプリを作りましょうね。クスッ。あの角の赤い実の付いた枝を取ってくれる?」 「これでしょうか」  実玖は天井に手を伸ばして、紐で結んである束をひとつ取った。 「背が高いといいわねぇ。便利ねぇ。クスッ」  沢山ある引き出しからトレイにサプリの材料を準備しているハーブの爪は、淡い桜貝色だ。憂差のラメの爪を思い出し、爪に色を付けるニンゲンがいるのだと実玖は理解した。  キラっと光る爪先で天秤計りに薄紙を敷き、茶色の物体を乗せる。 「これはタツノオトシゴ。特別よ、お高いけどサービス。疲労回復や夜の悩みにもいいのよ。クスッ」  クスクスと肩をすくめて笑うハーブはとても楽しそうだ。 「あの……さっき壁に貼ってあったので気になったのですが、『夜の生活』ってなんのことでしょうか」  実玖は赤い実を枝から外しながら聞いた。 「あらー! やだーもうっ! そういうことはあなたの伍塁様に聞きなさい。クスッ」  低い位置から背中をパンパンと叩かれた。  取り出した石鉢の中にタツノオトシゴと実玖が取った赤い実を10粒、透明の瓶の中からスプーン山盛り3杯の秘密の粉を。乾燥ライム5枚、ドクダミの乾燥葉ひとつかみ、フランキンセンスの欠片をふたつ入れ 「はい、これですり潰しましょう!」 と、乳棒を渡され、実玖は実を潰し、ライムをすり混ぜ、フランキンセンスを粉々にした。全体を混ぜてすり続ける。 「一度ふるいに掛けましょ。クスッ」  木の大きなスプーンですくい、ふるいにかけ、残った大きな物をまたすり混ぜる。三回繰り返して全て粉状になった。  実玖は、料理してるみたいだと思い、今晩伍塁様は何を食べたいかなと考える。 「カプセルに詰めていきましょ。クスッ」  大きなテーブルの端で、サプリメーカーにカプセル並べていたのは、大きなバッタのような虫だった。丸い穴がたくさん空いた枠に、透明のカプセルを一つ一つはめていくのは根気のいる作業だが、バッタのような虫は楽しそうだ。  実玖がその存在を気にしていると、それを察したのかバッタは喋りだした。 「私の名前はマーガレット。よろしくね。前もこの姿だったんだけど、ニンゲンじゃなくて同じ姿で生まれてきたの。ハーブさんに前世でとってもお世話になったから、お手伝いさせてもらってるのよ」  その間もカプセルを並べる手を止めることはない。器用に前足(手?)でカプセルを掴んでは置き、掴んでは運んで置く。  実玖は、ニンゲンと話す虫と出会ったのは初めてで目を開いたまま固まった。 「マーガレットちゃん、ありがとう。クスッ」  並べた所にスプーンで粉を上から敷き詰め、ギュッと蓋のようなもので押し付けて詰め込み、また粉を足して詰め込む。それから蓋になる側のカプセルをマーガレットが上から乗せ、ハーブが奥まで押し込んで蓋をする。  マーガレットは散らかった葉をいそいそと片付けて、ハーブはサプリを蔦の模様のチャック付きビニール袋にいれた。 「朝と寝る前にふたつずつ飲んでね」 「ありがとうごさいます」 「それからこれはおまけ」  10センチくらいの大きさの、スマートなクマとネコの編みぐるみとハーブティーをサプリと一緒に紙袋に入れてくれた。  お会計をして、白い紙に包んでもらったヒゲは、赤いがま口に大切にしまう。 「ありがとうごさいます。大変お世話になりました」 「その財布、憂差さんのお店の?」 「そうです。赤いがま口は三倍節約出来ると、買う時に憂差さんにおすすめされました」 「憂差さん、赤がすきだからねぇ、クスッ」  マーガレットを肩に乗せたハーブに見送られて、実玖は『Moon harp green 漢方館』を後にした。

ともだちにシェアしよう!