80 / 80
#11 ペトリコール
常連さんの煙草を覚えた。言われる前に出したら喜ばれた。お年寄りと世間話とかするようになった。たちばなくん、とか呼ばれるようになった。
「すぐ辞めるんじゃなかったのかよ。板についてきてんのウケんな」
「うっさいな。もうすぐ辞めるし」
「千亜貴あるある、現状に甘んじがち」
「あー傷ついた。あーもう辞める。明日から来ない」
悪い悪い、とルルちゃんがへらへら笑う。そうしているあいだにも客足はちらほらと途絶えない。
早朝に来るのはほとんど常連さんだ。いつも同じものを買っていく人が多く、そういう、他人の生活の破片みたいなのを観察するのは割と楽しい。
「……お、止んだな、雨」
ルルちゃんの呟きに外を見る。昨夜からずっと降り続いていた雨が、いつの間にか止んでいた。まだ空は曇り模様で薄暗い。アイスグレーの布地で覆ったようなぱっとしない空だ。
「ルルちゃん、今日は休み?」
「おう、昼からな。久々だぜ。飲みにでも行くかな」
「啓吾ママんとこ?」
「かなあ。つーか千亜貴よぉ、ママすげー寂しがってるぞ。一回顔出してやれって」
かれこれ一ヶ月以上、「フランダー」には行けていない。というかそういうところに近寄ってない。夜はほとんどここでバイトだし、そうじゃない日も家にばかりいる。俺は肩を竦めた。
「あいつ連れてってびっくりさせたいんだけどさ。まだ口説き落とせてなくて」
「あー」
「でも、近いうち行くよ。よろしく言っといて」
やがて早朝バイトの学生が出勤してきた。俺と入れ替わりだ。
例に漏れずルルちゃん好みの、線の細いイケメン。ルルちゃんは毎日長時間働いていて大変だなあと思っていたが、趣味と実益を兼ねているため苦ではないらしい、ということが最近わかった。
タイムカードを切って、ユニフォームを脱ぎ、事務所を出る。傘を忘れて一回戻る。
ひんやりとした湿り気の残る、秋の早朝の中に踏み出す。
目覚めたばかりの街を突っ切って帰宅するのもすっかり慣れた。がらがらの電車に揺られる。ぼんやりした眠気がやってくる頃に電車は最寄り駅に停まる。閉じたままの傘をひきずりホームを抜ける。
ランニングとか犬の散歩とか、俺の日常の中にはないことをしている人たちと、たくさんすれ違いながら帰路を辿る。
まだ濡れているアスファルトの匂いで街は満ちていた。俺はこの匂いが結構好きだ。懐かしいような、知らない世界に来たような、でも落ち着く匂い。
やや肌寒い首元と、シャツの長袖に包まれた腕との差異が不思議と心地好かった。
マンションが見えてくる。癖で見上げる自室の窓に、違和感を覚える。
ベランダに出る掃き出し窓。そこからカーテンが外に小さくはためいている。つまり、窓が開いているということだ。
閉めずに出たどころか、昨日はずっと雨だったから、開けた記憶もないのに。
ベランダは柵ではなく壁に囲まれていて、ここから中は見えない。その見えない空間に、窓を開けた人物がいるのを想像する。
立っていればその姿が見えただろうが、あそこで煙草を喫うとき、あいつは大抵しゃがみこんで、足下に灰皿を置いているから。
――いつも俺が帰って、シャワーを浴びて、ベッドの隣に潜り込むまで熟睡しているくせに。
珍しいこともあるもんだ、と思いながらエントランスに入る。この時間にエレベーターに乗ると、機械音がやたら響くような気がして、いつも少し居心地が悪くなる。
ポケットから鍵を取り出して、自宅の玄関を開けた。中はしんとしていて、扉を閉めると暗く、リビングのドアに開いた縦長の窓だけが、白く浮き上がって見える。
靴下でひたひた進み、そのドアを開くと、いつもと違う匂いの部屋があった。
大きく開放された窓から、冷たい外気が入って室内を満たしている。
甘いような雨上がりの匂い。外にはみだしながら揺れている薄いレースのカーテン。
その向こうに善がいる。こちら側に背を向けてしゃがみ、曇り空を仰ぎながら、白い煙を吐き出している。
俺が声をかけるより早く、善は振り返った。鉛色の空の下、金色の髪が静かで鈍いきらめきを放つ。
眠たげな目で微笑んで、
「おかえり、千亜貴」
そう言う善に、「ただいま」と返す。
懐かしいような、知らない世界のような、そんな匂いがしている。
了
ともだちにシェアしよう!