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第1話

 阪口楓(さかぐちかえで)は、重い足取りでマンションの階段を昇っていた。4階建ての単身者向けのマンションの3階。入居を決めた際は、エレベーターの有無より家賃の金額の方が優先だった。しかし、こんな精神的にも肉体的にも疲れている日は、3階までの道のりは果てしなく遠い。同じように、重い足取りで階段を昇る住人の足音が聞こえる。  ――はぁ、また、今日も怒られた。いつになったら、一人前になれるのだろう……  ピザの配達のバイトを始めて3か月になるのに、いまだに失敗ばかりで店長の三好潤(みよしじゅん)に毎日のように怒られている。  三好は店長といっても、まだ21歳の野性味あふれる顔立ちのイケメンで、大学生になったばかりの楓より3歳年上。21歳で店長というのは、例がないことらしく、今どきの若者のような外見に似つかわしくなく、仕事は厳しく容赦がなかった。  楓は三好が苦手だったが、公正で兄貴分肌なせいか、男性女性問わずバイト仲間には慕われていた。 「気にするな。俺は地元だからここらの地理はよくわかるけど、楓は大学でこっちに来たんだし、まだ慣れてないから失敗しても仕方がないよ」  そういって励ましてくれるのは、森本健(もりもとけん)。楓と同い年の18歳で、同じサークルだった縁で話すようになり、どうせなら知り合いがいる場所で働きたいと、楓を追いかけるようにバイトを始めた。  健は、元気で明るく要領が良いタイプで1ヶ月もあとに入ったというのに、もうすっかり一人前。注意されるのは楓ばかりというのが、より一層、楓を落ち込ませるのだった。  そもそも方向音痴の楓には配達の仕事は向いていないのかもしれない。落ち着いたら、もっと自分にあう仕事を探そうと思いつつ、日々の生活に追われて実行できないでいた。  ようやく玄関にたどり着き、カギをあけるとベッドに倒れ込んだ。  もう、何もする気力が無い。そのまま寝転んでいるうちに、いつの間にかウトウトと眠り込んでしまっていた。  けたたましい音楽に、眠りを中断された。時計を見ると夜中の2時。  隣人は夜中に帰宅するようで、帰宅後、すぐに重低音の音楽を響かせる。何度か管理会社に苦情を言っているが一向に改善するようすはない。  ――引っ越しをするにもお金がいるし、バイトを頑張らないと。でも、そのバイトがなぁ。  その日、何度目かになる溜め息を吐いた。      ◇  ◆  ◇ 「お兄ちゃん、ありがとう。これ、あげるわ」  応対に出た50代のおばさんにピザの代金とともに箱入りキャラメルを渡された。 「困ります。規則でこういったものは受け取れないことになっています」 「お兄ちゃん、美人さんだし、お礼よ。黙っていたらわからないでしょ」  無理矢理、押し付けられてしまった。  線が細くて優しい見かけのせいか、昔から楓は子供や老人に話しかけられやすく、電車や病院の待合室などでは、何故か飴を渡されることが多い。  さすがに、今回のように配達で貰うのは初めてだったが、ありがたく頂戴することにした。無理に断っても、機嫌を損ねることになりかねない。  店に戻ると、目ざとく健が話しかけてきた。 「あれ? キャラメル?」 「あ、うん。さっき、お客様に貰って」  三好がいるのに気付いて、慌てて言葉をにごしたが遅かった。 「おい、そういったものを受け取るのは規則違反だろっ! トラブルのもとになるんだよっ! 研修で教えただろ?」 「すいません」 「申し訳ございませんだろっ?」 「はい。申し訳ございません」  ロッカーに戻ると、「キャラメル、1つちょーだい」とニヒヒッと悪戯っ子の微笑みを浮かべながら、健が手を差し出してきた。落ち込む楓を励ますつもりだろう。さりげない思いやりに感謝しながら、キャラメル箱を開けた。 「あれ? 何これ?」  箱の中には、キャラメルは1つもなく、刺しゅう糸をぐるぐる巻きにして作ったような小指の先ほどの小さな人形が7体入っていた。手作りっぽくて、なんだか気持ちが悪い。 「これ、トラブルドールじゃねぇ? ほら、ちょっと前に流行ったじゃん?」  健によると、インディオに昔から伝わるトラブル解消のおまじない人形らしく、夜寝る時に悩み事を人形に打ち明けて枕の下に置いて寝ると、次の朝には悩みが消えるらしい。 「楓、悩み事多そうだし、ありがたく使ってみなよ」 「俺、信じないし、もしよかったら健にあげるよ」 「ダメだよ。楓が貰ったんだから。大丈夫だって、早速、今夜やってよ。絶対だよ?」  気持ち悪いし、呪われそうで、持って帰るのは嫌だ……という言葉は、すんでのところで飲み込む。そんなことを気にしているなんて、子供みたいでかっこ悪い。  いつものように、重い足取りでマンションの階段を昇る。階下で同じように重い足取りで階段を昇る住人の足音が聞こえる。今度、引っ越すときは絶対にエレベーター付きの物件にすると誓う。このマンションの3階、4階の住民は、みんな、そう思っているに違いない。  やっとの思いで、部屋にたどり着くと、ポケットからキャラメルの箱を取り出し、ヘッドボードに置いた。シャワーを浴びて寝る準備をした後、箱から1体つまみ出す。  人形の力を信じているわけではないが、約束は守らなくてならない。今、一番の悩みといえばこれだ。 「明日は、バイトで怒られませんように」  そういって、枕の下に置いて寝た。  次の日、バイトに行くと、珍しく店長の三好は休みだった。どうしたのだろうと不思議に思っていると、女子大生のバイト仲間が教えてくれた。 「店長、事故にあったらしいよ」 「ええっ?」 「あ、怪我はないらしいけど頭を打っているから、念の為、検査入院するんだって」 「そうか、怪我が無くて良かった」 「バイトが終わったら、お見舞いに行こうかな。心配だし」  三好は整った顔つきのせいか、特に女性バイトに人気がある。  三好の事を苦手だと思っているのは、毎日、怒られてばかりいる楓だけかもしれない。とはいえ、大事に至らなくてよかった。一体、どんな事故だったのだろうか。  その日は、特にトラブルもなくバイトを終えた。  家に帰り、寝ようと枕を動かすと人形がでてきた。    ――あ、店長は休みだったし、今日はバイトで怒られなかった。  偶然か、はからずも願いがかなっている。  でも、本当に願いがかなったといっていいのだろうか?  明日、三好が出勤して来たら、また、何かしら怒られるに違いない。  ――次は、もっと、難しそうな願い事にしよう  考え事をしているうちに、隣の住人が帰宅したようで、爆音を鳴らし始めた。  ちょうどいい。  楓は、箱から1体を取り出した。 「隣の騒音が無くなりますように。えっと、一日だけじゃなくて、これからもずっと」  まさか、本気で叶うとは考えていなかった。  次の日も、そのまた次の日も、隣から音楽が鳴らされることはなかった。  隣の住人は、願った次の日に、あっさりと引っ越してしまった。 「偶然だと思う? なんか怖い」 「偶然でしょ? じゃあ、もう一回願ってみる? 次が叶ったら、信じるよ」  健にこれまでの出来事を報告した。願い事が叶ったら、感謝をして土に埋めないといけないらしく、早速、マンションの植え込みのところに人形を埋めた。  二人とも、バイトが無かったので、そのまま楓の部屋に泊まることになった。 「楓さ、次の願い事はどうする? もっと、難しそうなヤツにしたら? ほら、好きな人いる? その人と両想いとか願ったら?」 「好きな人いないしなぁ」 「楓って、綺麗な顔をしてるから、女子よりも男に惚れられそう」 「健、それって洒落にならない。俺、昔から変質者に狙われやすいし……」 「えっ? マジで? じゃあ、何か困ったことがあったら言って……俺が守ってあげるよ」  健がじっと見つめてくる。いつもと違う雰囲気にドギマギして、慌てて言葉を発する。 「あ、思い付いたっ! お金が欲しい! パソコン欲しいし20万くらい?」 「それ、すごい具体的……でも、偶然かどうか判断しやすくて、ちょうどいいかも」 「じゃあ、そういうことで。もう、寝ようか?」  健は、ベッドの下に敷いた布団に横になった。電気を消す。 「20万円、手に入りますように」  そういって、人形を摘み出して枕の下に置いて寝た。  次の日は、何事もなく終わった。  バイトでは相変わらず、失敗をして三好に怒られて、トボトボと階段を昇る。  すると階段の先で、話し声が聞こえた。  訝しく思って、覗き込むと警察が現場検証をしていた。 「下の住人……夜中にガサゴソと………引っ越し……」  警察官が話しているのが聞こえるが内容までは聞き取れない。  泥棒でも入ったのだろうか?   ちょうど、楓の真上の部屋だ。なんとなく気になって、通帳をいれている引き出しを確認する。  泥棒に入られた形跡はないけど、念の為の確認。ちゃんと、通帳はいつもの場所にある。その下に、見知らぬ封筒を見つける。  ――なんだろう?  中にはお金が入っていた。ちょうど、20万。  先月、母親が泊まりに来た時にこっそりいれてくれたのだろうか?  ――偶然にしては重なり過ぎる……  楓は、残り4体となった人形を手に、粟立つ肌をそっと擦った。

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