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漆黒(しっこく)は懐から取り出した煙草に火をつけると、青空に向かってゆっくりと紫煙を吐き出した。 昨夜は花冷えの厳しい夜だったが、今は一変して春光降り注ぐ小春日和となっている。 暖冬で遅咲きと言われていた桜の蕾もようやく芽吹き出したらしい。 開花を待ちわびる紋白蝶が漆黒のすぐそばをヒラヒラと横切っていった。 閉鎖的な場所であることを忘れてしまいそうになるほどのどやかな空気が流れるここは、淫花廓ゆうずい邸にある中庭だ。 ここにはちょっとした特別な場所がある。 中庭で一番大きな桜の木。 その真下には赤毛氈(あかもうせん)の敷かれた大きな床几台(しょうぎだい)が置かれていて、季節毎に変わる庭の景色を楽しめるようになっている。 しかし、そこは誰でも使えるというわけではない。 いつ誰が決めた決まりなのかはわからないが、そこはゆうずい邸のトップ男娼のみが使えるという特別な場所になっているのだ。 昼間の廓は静かだ。 昼夜逆転生活が日常の男娼たちは皆ぐっすりと眠っているし、男衆たちの数も少ないからだ。 漆黒はよく皆が寝静まった頃合いにここを訪れて、ぼんやりと時間を過ごすことがある。 誰にも邪魔されずに思い切り煙草を吸えるというのも理由の一つだが、ここが唯一気の抜ける場所でもあるからだ。 トップ男娼というものは常に気を張っていなければならない。 客に対してはもちろんだが、同じゆうずい邸の血の気の多い男娼(やろう)同士のいざこざや揉め事の仲裁役にはならなければならないし、不満や愚痴を聞いてやったり、時には悩みの相談にも乗ったりもしなければならない。 漆黒は基本そういう面倒臭いことはやりたくない主義だ。 しかし楼主には無言の圧力をかけられるし、男娼としての務めを果たさなければ本業にも支障をきたすため仕方なしにやっている。 しかし毎日続けているとどうしても息が詰まってくるものだ。 だからこそここで思いきり脱力するというのが日課になっているというわけなのだ。 しかしどうやら、でここを使っているのは漆黒だけではないらしい。 「あんたもどうだ」  野点傘(のだてがさ)を日除けにうたた寝をしている男に向かって、漆黒は煙草の箱を差し出した。 長い睫毛が持ち上がり男の瞼がゆっくりと開いていく。 チラリと煙草の方に目を配らせると、紅鳶(べにとび)はすぐに首を横に振った。 「いや、俺はいい」 漆黒は肩を竦めると、煙草の箱を引っ込めた。 「なんだ、ここの連中は血の気が多いわりに真面目な奴が多いんだな」 「真面目とか不真面目の問題じゃない。それはシンプルに身体に悪い」 紅鳶はのそりと起き上がると、大きなあくびをした。 漆黒は思わずその顔を凝視してしまった。 いつもは眉一つ崩さず凛としている色男が寝ぼけ眼で大口を開けたからだ。 紅鳶はゆうずい邸で一番手を張る男娼だ。 見た目やスタイルがすこぶる良いのはもちろんだが、知性も豊かで博学。 どんな相手だろうが常に紳士的(ジェントル)で、且つ圧倒的王者の威圧感を放っている。 しかし、今の紅鳶からは廓にいるときのような覇気が全く感じられない。 例えるならそう、だ。 「それに、そいつは肌が荒れる」 紅鳶はもう一度あくびをすると、今度は乱れた襦袢の隙間から手を入れ腹をぼりぼりと掻いた。 「肌ぁ?!あんた肌の事まで気にしてんのか?」 「あぁ。常に客と接近するんだ、当たり前だろ」 当然だという紅鳶の言葉に漆黒は苦笑いを浮かべた。 男娼ってやつは(つくづく)不憫な生き物だ。 閉鎖された廓の中に押さえつけられているというだけでも気が滅入りそうなのに、一番手という凄まじいプレッシャーの中でストレスを発散する事よりも客へのマナーの方を気にするのだから。 漆黒はちらりと紅鳶を見た。 ぼんやりと宙を見つめる横顔はいつも通り整ってはいるものの、どこか幼くもみえる。 きっとこれがこの男の素の表情なのだろう。 紅鳶という鎧を着ていないこの男の。 一体これまでどんな人生を送ってきたのだろうか。 ここにいる男娼は皆あまり自分の生い立ちを話したがらない。 もちろん漆黒自身も自分の生い立ちなど話したことは一度もない。 けれどこんな場所にいる時点で、少なくともまともな人生を歩んできていない事はわかる。 きっとこの紅鳶という男も決して楽ではない道を歩んできたのだろう。 まぁ俺には関係ないが。 漆黒は携帯灰皿を取り出すと煙草の先を押しつけて揉み消した。 「俺は今まで肌がどうこうなんて一度も考えた事がないな」 思惑を隠すように冗談ぽく呟くと、それまで気の抜けたライオンだった男の纏う空気が一変した。 恐ろしいぐらい音もなく立ち上がると、漆黒の隣に腰を下ろす。 なんだなんだ、力づくで説教か? 只ならぬ空気に戸惑いながらも、漆黒自身も静かに戦闘態勢に入る。 グイッと胸ぐらを掴まれ、漆黒も反撃に出ようとしたその時だった。 紅鳶の顔が漆黒の目と鼻の先ギリギリの至近距離でピタリと止まった。 「あんた…ニコチン中毒のわりに綺麗だな」 「は?」 「肌だ。もっと肌理(キメ)が粗いと思っていたんだが、予想外に綺麗だ」 紅鳶の言葉に、それまで張りつめていた緊張の糸がするすると解けていく。 漆黒はため息を吐くとぐるりと目を回した。 「なんだ…てっきり殴られるかと思った」 「俺が?あんたを?なんで殴るんだ?」 紅鳶は首を傾げると不思議そうに訊ねてきた。 全く調子が狂う。 いつもは非の打ち所がないほど完璧な受け答えをしているくせに、今の紅鳶はまるで別人のように緩みきっていて全く噛み合っていない。 まるであの菖蒲とでも話しているような気分だ。 しかし、その理由はすぐにわかった。 紅鳶の目が半分虚ろになっていたからだ。 それだけじゃない。 漆黒の胸ぐらを掴んだままコクリ、コクリと舟まで漕いでいる。 確かに今日はうたた寝をするには絶好の日和だ。 それにこの場所はポカポカと暖かく、静かで、心地いい。 流石の一番手もこの陽気には太刀打ちできないという事なのだろうか。 「春の陽気ってのは凄まじいな」 漆黒は呟くと紅鳶の肩を揺すった。 「おい、紅鳶、眠いなら部屋に戻って寝ろよ」 「あぁ…わかってる…」 わかっているといいながらも紅鳶の体からは少しづつ力が抜けていく。 そのままズルズルと滑ると、漆黒の肩口にすっぽりとはまった。 「お、おい…!」 そして、それ以降漆黒の呼びかけに全く反応しなくなってしまった。 無理矢理にでもどかす事もできるが、なんせ相手は紅鳶だ。 身体をずらす時万が一にも手を滑らせて顔にでも傷がついてしまったらと思うと、変に触る事もできない。

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