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酔いどれ話4

嘘だろ。 柔らかく、少し湿った唇の感触を感じながら漆黒は目を見開いた。 初な相手に対して「キスをするときは目を閉じるもんだ」、なんて(クサい)セリフを使うものだが、いざ自分がそうなってみると相手の気持ちが痛いほどよくわかる。 想定外の出来事が起きた時、人には余裕がなくなるものだ。 漆黒はこれまでこの淫花廓で数え切れないほどの人間を抱いてきた男だ。 初めの頃こそ何とも言えない葛藤はあったものの、今では相手をぐずぐずに泣かすことなんて朝飯前。 そんな自分がたかだかキスでこんなに驚いている事に驚いてしまっている。 それはきっと相手が青藍だからだろう。 同じゆうずい邸の男娼であって、いつも他の男娼たちに口煩く『規律、規律』と言っている青藍だからだ。 やめろと言う代わりに、漆黒は青藍の肩を押し返そうとした。 しかし、鍛えられた青藍の肉体にしっかりとマウントを奪われているため、びくともしない。 更に最悪なことに、青藍は暴れる漆黒をねじ伏せようとさらに身体を密着させてきたものだからいよいよ自力で抜け出すことはできなくなってしまう。 商売道具である顔や身体に傷でもつけたらいけないだろうと大人しくしていたが、これでは年上の威厳も何もあったものではない。 すると今度はぬるりとした何かが唇に触れた。 漆黒は思わずビクッとする。 それは唇をべろりと舐め回すと、ピッタリと閉じている上下の合わせを割って入ってこようとしてきた。 「んんっ(おいっ)…!!」 流石に(それ)はまずい。 この状態でも十分まずいのだが、それは超えてはいけない一線のような気がしてならないのだ。 しかし、青藍は漆黒の危惧などお構いなしに、頑なに閉じる唇を何とか開かせようと舌を捻じ込んでくる。 焦りながらキョロキョロと視線を泳がせると、視界の先に紅鳶の姿を捉えた。 目尻が険しく上がったその表情には、獣のような怒りがギラギラと光っている。 漆黒はハッとした。 好きな男(青藍)が、違う男とキスし合っているのを目の前に見て気持ちがいいはずがない。 きっと心の中ではハラワタが煮えくりかえっているに違いない。 しかし声を大にして言いたい。 紅鳶と青藍との仲に横槍を入れるような気持ちは一ミリだってない事を。 しかし誤解だと言おうにも、口を開けてしまうとますますややこしい事になってしまう。 どうしたものかと考えあぐねていると、我慢できなくなったのか紅鳶が青藍を無理矢理引き剥がした。 助かったと思いながらも、次の衝撃に備えて目を閉じる。 100パーセント確実に紅鳶に殴られると思ったからだ。 しかし、漆黒の危惧は全く無駄なものだった。 鈍い痛みの代わりに頬に添えられる手の平の感触。 次の瞬間、今度は唇に柔らかい感触が落ちてきた。 ふわりと漂う甘い匂い。 何ともいえないかぐわしい香りに、鼻腔が歓喜に包みこまれる。 紅鳶は名残惜しげに唇を離すと、触れるか触れないかギリギリの場所で止まった。 そして戸惑いの色を隠せない漆黒の顔をじっと見つめると、ふっと笑う。 凄まじい色気を纏った雄くさい笑みに、一瞬理性が吹き飛びそうになってしまった。 この男がなぜ圧倒的一番手に君臨しているのか一瞬で理解できてしまう。 「あんたの唇、想像以上に柔らかいな」 紅鳶はそう言うと、漆黒の唇を指でなぞった。 まるで蜂巣の中で交わされる睦言のようなセリフにドキッとしてしまう。 これは…不可抗力だ。 漆黒は己に言い聞かせた。 「それにタバコの匂いとこの髭…なかなかくせになりそうだ」 紅鳶は柔らかく微笑みながら、頬に触れていた指先を滑らせて漆黒の顎髭を弄った。 こんな顔でこんな事をされて、揺らがない人間がいるはずがない。 「あ、ちょっとダメですよ!俺を差し置いて二人でいい雰囲気になるなんて」 青藍が割って入ってきた。 「俺とも気持ちいいことしましょ?ね、漆黒さん」 耳元に落ちる低い声。 妖しく囁かれた後、耳朶を甘噛みされる。 ずくんと下腹部が疼いた。 同時に思い知った。 本来の実力を武器に迫ってくるトップ男娼二人を前に、為す術がない事を。 漆黒はぼんやりと二人を見上げた。 こちらを見下ろす青藍と紅鳶はすっかり雄の表情になっている。 もはや青藍と紅鳶の関係の事など頭から抜け落ちていた。 これはあれだ。 きっとアルコールのせいだ。 そう、酒のせいで正常な判断ができなくなっているに違いない。 再び近づいてくる紅鳶の眼差しに誘導されるように、漆黒は唇を開く。 同時に、青藍の手が青海波模様の着流しの襟元を乱しながら潜り込んできた。 全部酒のせいにしてしまえばいい。 全部… 「よぉ、そのくらいにしておくんだな」 場を断ち切るような鋭い一喝。 と、同時に漆黒の上に乗っかっていた紅鳶と青藍が低い呻き声をあげるとばたりと倒れた。 見ると、漆黒達のすぐそばで楼主がこちらを見下ろしている。 相変わらずの懐手スタイル。 皺の刻まれた顔には感情というものが一切窺えない。 二人に何をしたのか全くわからなかったが、周りに誰もいないことからこの男が何かをやったのは間違いなかった。 「随分楽しそうだがそういうのは俺の目のつかねぇとこでやるもんだ」 のんびりとした口調で楼主が言った。 「あんたが嵌めただろ」 「あ?なんのことだ」 「こうなるとわかって飲酒を許可したな?」 漆黒は頭を掻きながら楼主をジロリと見上げた。 しかし、楼主はどこまでもとぼけるつもりらしい。 肩をすくめると視線を逸らした。 「しらねぇな。とりあえず俺が見ちまった以上、この始末はちゃんとつけてもらうからな。三人纏めて座敷牢に入れてやりてぇところだが、てめぇらがいねぇと商売にならねぇ。そうだな、暫く俺の駒としてみっちり働いてもらおうか」 漆黒は小さく舌打ちをした。 どうやらソレが目的だったらしい。 この淫花廓を牛耳る楼主という男は、隙あらば人の弱味を握り自分の駒としてこき使うのがやり口なのだ。 しかし、漆黒自身もこのまま大人しく引き下がるようなタイプではない。 漆黒はそばにあった酒の入ったコップをグイと煽ると、楼主の襟首を掴み引き寄せた。 そのまま楼主の唇を塞ぐと、含んでいた酒を一気に流し込む。 「これはあんたの責任だ。あんたが許可した酒のせいだからな。なぁ、そうだろ?」 たっぷりの皮肉を込めてそう言うと、漆黒は伸びきった二人の身体を軽々と抱え上げた。 「続きが欲しけりゃ俺を指名してみな。いつでも可愛がってやる」 漆黒はそう言うと、中庭から去っていった。 その後ろ姿を横目で見ながら、楼主は指先で唇を拭うと、空を仰いだ。 「はっ、かわいくねぇ男だ」 その口元は僅かだが歪んでいた。 end.

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