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第4話
「あなたの作品全部読みました。昔からずっとファンです。特に『墨溜まり~』が好きで……もちろん『在りし日の~』も『夕闇に~』も好きです。ありきたりかもしれませんが、確かにあなた、いや先生の代表作ですが、僕は何十回も何百回も読み返すほど好きなのです。単行本も文庫本も映画もドラマも。『墨溜まり~』の初版が出たとき僕はまだ小学生だったので買えなかったのですが、働いて自分のお金を使えるようになってからようやく買うことができました。プレミア価格だったけど先生の初版本なので金額なんて気にしません。もちろん先生の学生時代の文芸サークル本も読みました。僕は先生の後輩なのです。大学もサークルも。偏差値が少し足りなかったけど先生と同じ大学に入りたくて毎日勉強しました。それから――」
「あの、まだですか」
僕を見る先生の瞳が陰る。先生に不快な思いをさせてしまったのだろうか。僕はなおも話を続けようとしたが、先生のほうが僕の話を遮った。
「早く済ませてください。それに人違いだ。私はそんな人じゃないし、ただの一般人だ」
「え、でも、緋室先生ですよね? 写真でも映像でも見たし、サイン会や握手会で何度もお会いしました」
「君がどう思おうとも人違いだ。早くしてくれ」
先生の語気が荒くなる。一度しか、もう今後一生ないであろう憧れの先生とふたりきりで過ごす時間なのだ。僕がどれほど先生のファンなのか知ってもらいたいだけなのに、僕は何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
「急いでいるんだ。君の態度が悪いと上司に言いつけてもいいんだぞ」
「あ、あの、その……すみません、僕はただ――」
「失礼する」
カウンターの袋をひったくるようにして、先生は僕の目の前から消えた。レシートも受け取らずに。
レシートには担当者として僕の名前が記されていたのに。僕の名前を先生に知ってもらうチャンスを逃してしまった。僕は先生に渡すはずだったレシートを制服のポケットにしまい、終業時間まで働いた。
僕の勝手な推測だが、先生はまた僕の前に現れるだろうという、かすかな希望を抱きながら。
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