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第3話

 終業の一時間前、在庫の整理をしていた僕はラノベコーナーで中年の男を見かけた。初めは偶然このコーナーを通りかかった客だろうと思ったが、彼は通り過ぎることもなく、じいっと陳列棚を見つめていた。  珍しいなと思いつつスルーしていたら、男は深くため息をつき、そのまま文芸コーナーへ向かう。なんとなく気になって、僕はこっそり男の後を追った。  文芸コーナーで男が手に取っていたのは、ハードカバーでも一〇〇円の本。その列に同じ作家の本が、しかも同じものが三冊と別作品が一冊あり、男は全部かごに入れてレジに持っていく。  まさかな、と僕の心がざわつく。近くに店員がいなかったので、僕は慌てて応対した。  男が買った数冊の本は、なんと僕が敬愛してやまない緋室一久先生の本だった。先述のとおり、僕は彼の作品の大ファンで、もちろん全作持っている。 「この作家好きなんですか?」  僕は相手が客だということも忘れて思わず話しかけてしまった。悲しいオタクの性である。彼は下を向き、別に、と言った。 「別に、何です?」  閉店間際ということで他に客はいなく、僕は男に食い気味で質問を続けてしまう。彼は戸惑い、言葉を失いかけたが、ややあって僕の問いに答えてくれた。 「別に、好きでも何でもない」 「……へえ」  期待した答えと違っていたが、僕も多くは望まなかった。カシャカシャと僕がレジを打つ音が僕らの沈黙を満たす。 「四百二十三円です」  彼は千円札を出すときすら目を背けたが、大概の客はみな同じような反応をする。 「五六八円のお返しです」  硬貨をトレーに入れ、男に渡す。じゃらじゃらとした硬貨たちを、彼はめんどくさそうに一枚一枚手に取り、財布へしまう。数秒の間。やることもなくなった僕は男の顔を見て、心臓が飛び出るかと思った。  緋室一久だ。  僕が何度も何度も読み返した著者近影に写っていた男が、インタビュー記事や新聞を切り抜いてスクラップノートを作った男が、映画化やドラマ化もされたあの名作を生みだした、僕が敬愛してやまない男が、中古買取に出された自身の最大ヒット作を自分で買っているのだ。  彼は知らないだろうが、今、目の前でレジを打つ男は彼の一番のファンなのだ。感動のあまり手がわなわなと震え、二の句を告げない。 「まだかかる?」  緋室一久が――先生が僕に声をかけてくれた。先生は眉間にしわ寄せ、手のひらを差し出した。  先生の行動理由がわからない。視線をあちこちに巡らせると、ようやく先生が不機嫌になった理由がわかった。僕が商品を袋に入れておらず、先生を待たしてしまっていたのだ。 「すみません! すみません、緋室先生!」  中古とはいえ先生の本だ。僕はいつも以上に丁寧に袋に入れ、先生に渡した。しかしこの本を渡してしまったら、彼はどこかへ行ってしまう。憧れの人と逢えた千載一遇の機会だ。  レジ袋を受け取ろうと先生が腕を伸ばしたとき、すかさず僕は彼の手を取り、固く握手をした。 「あなたの一番のファンです」  先生の手のひらは見た目の繊細さとは異なり温かかった。

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