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――時々、見る夢があった。  うすぼんやりとした、はっきりとしない視界の中。  大きな池をバックに僕の前に立つ男は、優しい瞳を携えて僕に微笑みかける。 『紫乃』  名を呼ばれながら伸ばされた手に、その手をすり抜けて僕は彼の腕の中に飛び込んだ。  見上げてもはっきりと顔は見えない。でも僕は、彼の事が大好きで、彼もまた僕を好きなのだと伝わってきて……それだけで胸が満たされて、ギュッと互いに抱きしめ合う。  言葉もなく感情を伝える行為、でもそれだけで十分だった。  夢の中の僕は、彼の事が何よりも大切で、大事で、愛おしくて。  触れ合えるだけで喜びを感じていた。  彼の僕の頭に回された手は、隙間もなく僕を引き寄せる。 『――』  僕が何か単語らしきものを発した。  その音は街に潜む雑音のようにジリジリと僕には言葉を成さなかったけれど、彼には届いたのか、手の力が強くなる。  耳につけた心臓の音が自身の音と混ざり合い、やがて一つの音になった。  目を閉じてそれを味わっていた僕は、いつまでも彼の腕の中に居たかった。  だがやがて白の靄に包まれて、現実に引き戻される。  それに暫く気づかなくて僕は、ボウッと天井を見つめていた。 「夢……」  そしてかけがえのない時間が終わったのだと知り、虚しいような寂しいような気持ちを味わうのだ。 (あれは……誰なんだろう)  時々見る記憶にはない夢、けれど妙にリアルで、それが夢だともはっきり断言できないような。  あの男が現実に存在しているのか、それとも自分が作り出した妄想の権化なのか……それすらも僕には分からなかった。  ただはっきりと言えるのは――この胸に残る、確かな感情の痕跡。  彼が愛おしいという、想い。 「紫乃、そろそろ起きないと、遅刻するわよ~」  階下から聞こえてくる母の声に、僕はハッとなって慌てて「はーい」と返した。  枕元に置かれてある時計を見てみれば時刻は七時を過ぎており、確かにそれは常ならば朝食を食べている時間であった。  慌てて着替えて、階段を下りる。  気持ちを切り替えて、さっきの夢を一旦忘れて、明るい笑顔を僕は浮かべた。 「おはよう、母さん」 「おはよう」  そして、いつもの定位置である四人テーブルの右側に腰を下ろしたのだ。

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