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第1話

 人類がいつから衣服を身に纏っていたのか、未だ明確な結論は出ていないという。  2万5千年前の先史人類はすでに複雑に織り込まれる衣類を作っていたと提唱する考古学者もいるから、その歴史はずっと古い。  聖書においてアダムとイヴはイチジクの葉で局部を隠したことで禁を破ったと知られてしまう。知恵の実を食べても服を纏いさえしなければ、二人は追放されることなく永遠に神の元にいられたかも知れないのに。  飢えも死も苦しみもない、エデンの楽園に。  そんな原罪の根源になってしまった衣服の原料、繊維工場の管理を一色保は任されている。いつものようにスーツのジャケットを脱いだら個人ロッカーの扉を開ける。  ハンガーに掛けてある白衣に触れると生まれたての冷気を生地いっぱい含んでおり、保の指先を冷たくさせた。今日はうまくいけば初雪が降るかもしれないと、家を出る前見ていたニュースが言っていた。どうかうまくいかないでほしい、と保は願う。雪が降れば交通網は麻痺するし地面はいつまでもじくじく濡れるし、いいことがない。無邪気に銀景色に心躍らされていた頃がいつだったかもう思い出せなかった。  寒い日には左の小指がうずく気がする。無意識にテーピングの生地、表面の凹凸を親指でなぞる。ああ、ここにもそういえば繊維が入っていたな。縦横規則正しく編まれた糸。  陰部を隠すイチジクの葉のように、小指が粘着質の肌色に纏われている。  白衣を羽織って事務所に入ればデスクに座る前、佐上部長から早速お呼びがかかった。 「一色くん。今日午後イチ、時間ありますか?」 「はい」 「うちの大手取引先でファストワールド社あるでしょう。そこから品質管理の監査入るみたいみたいで、来たら対応してほしいんですが」 「ずいぶん急ですね」 「二日前かな? 他社からの納品に異物混入が見つかっちゃったーってうちにも連絡が来てね。生産過程を見直す、とばっちり監査なんですって」 「なるほど。了解致しました。何人ですか?」  プリントする資料の部数を決めなくてはいけない。 「先方からは一人。それとその連絡くれた、取引担当してるうちの営業さんも一緒に来るんだって。あ、もしかして一色君と同期なんじゃないかな? 喜久川くんっていうんだけど」 「ああはい、一応存じております」  同期といっても、本社の営業とはほぼ接点がない。  参加を余儀なくされる入社式などで同じ空間に居合わせたことはあっても喜久川という名前と顔を認識している程度で半径一メートル以内に近づいたこともなければ当然話したこともなかった。  なぜ顔と名前が一致しているかというと、年末の全社表彰式などでよく前に立っていることが多いからなんとなく覚えたのだ。 「じゃあお願いしますね」  きっかり一三時に件の取引先と匡樹はやってきた。 「お疲れさまです、営業本部の喜久川と申します」 「すみませんね、ご無理申し上げまして」  いかにも課の上司っぽい腹に貫禄のあるおじさんが頭を下げる。 「いえ、事情は伺っておりますので。品質保証担当の一色と申します」  型通りの名刺交換を済ませたらあいだを取り持つ匡樹に改めて視線を移した。  襟足やサイドの髪は短く、見える耳が清潔感を保ちながらトップが長めにセットされた髪型。  ショートで髪をつんつん立たせるよりも優しい印象だ。そうそう、こんな顔だった。  平行で太めの眉毛は内なる自信を表していていかにもできる男といった容姿。  それもそのはず、保と同じ入社七年目で大手を扱えるのはなかなかの出世コースといえる。さっき調べた社内名簿では喜久川匡樹という名前の前に営業本部課長と役職が付いていた。  同じ会社の同じ社歴でも、繊維生産部門に属する保とは給与モデルが違うが、おそらく倍くらいは差があるだろう。それでいてあけすけな笑顔は人の良さを感じる。  全てが印象第一の営業になるべく配置された、顔の造形だ。匡樹のように大きく口角を動かして笑顔を作ったことなどない保は単純に顔の筋肉疲れそう、と思う。 「では早速工場の方に」 「一色さん。お忙しいのに急な対応してくださり、ありがとうございます」  先導して生産現場に向かう途中、先方にばれないよう小声で礼を言われる。  律儀な気回し、さすがだ。きっとこうやってみんなが好感を抱いていくのだろうが保には響かない。 「大丈夫です、仕事ですから」  原料をストックする倉庫から順番に案内する。  加工前のチーズみたいな円盤状に巻糸が完成するまでを説明しながら歩く。先方が細かく見ていく途中で、匡樹も一緒になって熱心にメモを取っていた。   あ、左利きだ。  気づくのと同時に左薬指にはめられた銀色の細い輪を見つける。他人に婚姻関係を示すだけの白金族元素が無意味に光っている。  なんで好き好んでそんな金属に縛り付けられ社会的地位を保持したいのか保には到底わからない。否定的になってしまうのは自分が婚姻届という紙っぺらを役所に提出することはないと諦めているからだろう。ろくに話もしないうちからこの男のどれもがいけ好かないな、と思っていた。  応接室に戻り、生産過程においてより細部に渡る質問回答コーナーが終わったら用は済んだと世間話の流れになった。  さっきチラリと見えたチェックリストは二重丸でうまっていたので場も和やかだ。  無駄話より早く仕事に戻りたい保はちらりと時計を流し見する。 「喜久川さんは結婚何年目でしたかな?」 「もうすぐ三年目になります」 「ほお、もうそろそろ子供でもって頃なんじゃないのかね」 「そうですね、こればかりは授かり物ですから。励んではいるんですが」 「はっ?」  信じられないカミングアウトに思わず変な声が出た。  今会ったばかりの男の性生活なんて誰が知りたいというのか。  それとも営業流の鉄板ジョークなのだろうか。 「あっ、いや、えっとすみません」  保の思いっきり潜めた眉に、意味をようやく察知した匡樹が慌てて謝る。  保の困惑とは対照的に、向かいに座るおじさんは受けている。 「それは仲が良くていいねえ。一色さんは、ご結婚はまだですかな?」  ほらきた、この質問。男も女も猫も杓子も、やれ恋人は、結婚は。  近頃ではお年頃なのかその質問を投げかけられる機会も格段に増えている。  LGBTだ何だと騒がれる昨今で目の前の男が異性に興味がない可能性を少しも考えないのだろうか。とはいえ保は同性さえ眼中に入ってはいないけれど。  うんざりしながら保は答えた。 「はい、気楽な独り身です」  あけすけにプライベートを公開する男にむっとしたついでに生物全般に興味がないので結婚はしませんとよっぽど言い放ってやろうかと思ったが、最大の妥協点でとげとげしくそう言った。  短いやりとりで先方と匡樹が親密であることは知れたから、多少保サイドに無礼が混じっていても勝手にフォローするだろう。 「ははは、お二方は対極ですなあ」  予想通り、からっとおじさんは笑う。 「って、そろそろおいとましないとね。あー会社に戻るのが今日は息苦しい。山本繊維さんで異物混入があってこっちはもうてんやわんやなんだもん」 「山本繊維さん、まだラインの復旧はしてないんですか?」 「だめだめ、ボビンに織り込まれちゃってたから、巻き込んだ紡績機械も止まっちゃって」 「それは大変ですね…」  匡樹が神妙な顔を作る。  現場を担う保には自分の身にそのミスが起こったらと思うとなかなかぞっとする話だ。  もちろんリスク回避を怠ったことに言い逃れはできないだろうが、少し気の毒になって説明を加えた。 「トヨアケの紡績機械は精密であるが故、巻き込みに弱いですから。重要部品は倉庫でいくつか確保しているくらい、弊社工場でもたまに全解体が発生します」 「へえ、そうなんですか。とにかくだから、混入の原因をまずはひとつひとつ調べてるとこ。もうどうなっちゃうんだろうね、生産率このままじゃ一日あたり三十パーダウンなんだって」  まるで他人事のように言いながらおじさんは顎をかく。 「うーん、三十パーですか…」  匡樹がソファの革を見つめながら少し考える。 「もしかしたら弊社の生産性少し上げて、今抱えてる在庫も動かしたら山本繊維さんが持ち直るまでの間、十数パーセントくらいには減らせるかも知れません」 「そうだったら喜久川くん、救世主だよ」  匡樹は今度は一色に向き直る。 「一色さん、今うちの稼働率って見られますか? ちょっと計算してみてもいいですか?」  さっきまでのほのぼのした雰囲気は消えていて、瞳に鋭い光が宿っていた。 「あ、はい」  応接室に先方をしばし待たせて事務所に匡樹と戻る。データを起こしてみれば確かに空白の時間をつなぎ合わせ稼働率を上げることは可能だ。  しかし人数調整をしなくてはいけない。保も一週間分の工場職員の出勤表を見比べる。 「人は、動かせそうですか?」 「一週間くらいならどうにかいけそうです。許可が下りるならやってみます」 「ありがとうございます!」  と、今まで眺めていた保のデスクトップから本社のプログラムに入り直し、書類を諸々プリントしたら保の部長を捕まえ捺印を獲得、その足でまた応接室に戻る。  所要時間は十分も経たない。自分の部署に電話をかける様子はなかったので、この大手クライアントを一任されているのだと知る。 「予想通り弊社工場の稼働率を上げて一日あたり十五パーセントまで押さえられそうです」 「本当かね? じゃあお願いするよ」  プリントした書類に迷いなく印鑑が押される。  営業職ではないから初めて契約現場を目撃したが、こんなに何気なく、そして鮮やかに何千万が流れ込んでくるのかと保は圧倒された。しかも、ちょっとした世間話の一環で。  これにはさすがに、同い年で道理で営業本部課長だと、実に面白くないが思うしかない。いけ好かないやつだが一応肩書き通り、仕事はできるようだ。   その日の夕方改めて内線がかかってきた。 『今日は対応頂き、契約のお手伝いまでしてくださり本当にありがとうございました』 「僕は何もしてませんから」 『いえ、一色さんが製造過程と品質管理の現場を丁寧に説明してくださったから、先方もひと安心してくださいました。上乗せ契約が取れたのは一色さんのおかげです』 「それはよかったです」  心にも思ってない一言を無感情に発してそのまま電話を切った。まあそうそう会う相手でもないし、と律儀な男はすぐさま記憶の彼方に追いやって、保は業務を再開した。

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