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第14話
久しぶりに足を運んだクリニックは改装をしたのかソファーやテレビがより豪華になっていた。
同時に画面に診察番号が表示されると指定の診察室に勝手に入るシステムに変わっている。ついに名前すら呼ばれなくなっていた。別に以前も十分新しい施設だと感じていたのに、近未来感が増すことによってうさんくささも倍増している。
どこに目を向けてもちり一つ落ちていない。
「志保、何番?」
「56602」
「囚人番号みたいだ。レミゼラブルの」
そういえばノートルダムと作者が同じだ。自然と思考が、保のことに向く。元気にしているだろうか、漢方は続けて飲んでいるだろうか、誰かにいじめられてはいないだろうか。
「ん? レミ?」
「あれ、一緒に映画観なかったっけ? フランス革命の話」
「んー? 途中で寝ちゃったやつじゃない」
「そうだったっけ」
「そうだよ。だってまさくんの観るやつだいたい難しいやつばっかなんだもん」
もし00001から診察名簿をカウントしたんだとすると、この院だけで五万六千人もの患者が何かしら子作りに問題を抱えて医師に掛かっているのだ。
そう考えるとすごい。
ここに集まるのは年齢も状況も違えど同じひとつの目標に向かう人たちなのだ。全ての患者が成功できるわけはないとわかっているけれど、こんなにたくさんの人が新生児の誕生を願っているのなら少子化なんて本当はデマなんじゃないだろうかとさえ思えてくる。その中で匡樹は一人、居たたまれなさと申し訳なさに襲われながら順番を待った。
たっぷり二時間待ってからようやく診察室一に入る事を許される。
超音波検査をすると医師は椅子を匡樹に向けた。
「奥様の状態は良好です。では予定通り旦那様にはまず採精の為に三階のメンズルームに行って頂きます。その間奥様は待合室でお待ちください。それではこれから採精の手順をあちらでご説明しますね」
プラスチックの容器を看護婦から渡され、説明を受ける。個室は三畳ほどで二人用ほどのソファがあり、中から施錠できる仕組みだった。
めちゃくちゃ明るくて清潔なのに漫画喫茶の作りに似ている。明度に不釣り合いの卑猥なDVDと官能小説が数冊ブックスタンドに収まっていた。
ソファに座ってから小説を一冊取ってパラパラとめくる。もうこれ始めから終わりまで綺麗に読破してから出て行ってやろうかななんて考える。
保と最後に別れてからまだ一ヶ月しか経ってないのに、あの部屋も一人で暮らした日々も夢のようにおぼろげだった。今はもう、この無菌室で自分から絞り出される精子しか現実じゃない。
コンビニ弁当ではなく志保の作る健康的なメニューを食べ、安っぽい蛍光灯にかわって、オレンジ色のシーリングライトに照らされている。
温かな食事、暖かな光。
本当に?
そして今からその生活をつなぎ止めるであろう半分自分の遺伝子を受け継いだ、新しい人間がここで作られる。
保の言う、これがハッピーエンドというものか。
保まで巻き込んで、覚悟して志保との暮らしに戻ったのに、不妊治療を再開したのにいざ個室に入ったら、自分のものになんか触る気も起きない。
夫婦関係なんてとっくの昔に破綻していた。
子供は大切、子供を産めば全て解決する、子供を作って本当に志保を幸せにしてやれる。それが重荷になって、じわじわ離れる志保との距離に気づかないでいただけだ。だって保に会う前までは、頑張れると思っていた。頑張らなきゃいけないと思っていた。
でもじゃあなんで今更、言い訳みたいにこんな理由取って付ける?
なぜかすかに後ろ暗い?
その虚勢を崩してしまった人物が、好きだからだ。
なぜ志保に会ってから消えた保を、追いかけた?
無表情で無愛想で、心を開いてくれたと思えばすぐそっけなくなって、危なっかしくて、優しい保が、あの時既に好きだったからだ。
あの日ベッドで味わった保をもう一度記憶に蘇らせてみる。
薄くて白い皮膚、大胆に開いていく身体、それなのに時々恥ずかしげに伏せられる瞳。甘い吐息。
ほら勃った。
匡樹は窮屈に収まっている、熱くなった下半身に目を向ける。
「身体はよっぽど正直じゃん」
保の口調をまねた。それから急におかしくなって、小さい声で笑った。
「馬鹿だなあ、俺」
ひとしきり笑った後、息を大きく吐いた。読まなかった本を元の場所に戻す。
立ち上がってドアノブに、手をかける。
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