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第93話

 「俺も前、那智を殴った」  「...っ、」  啓吾の言葉に那智は何も返すことができなかった。心臓はドクドクと早く動き、ひゅっ、と息を吸う。  思い出すのは啓吾に無理矢理犯された時のこと。  「あの時は...————」  「やめよう、その話は...っ、もういいから」  忘れたい記憶のうちの1つ。その時の話なんてしたくはなかった。  那智は掴まれている服を引っ張り離させると足早に扉へと向かった。    「殴ったりして、悪かった」  「え...」  「もうお前に暴力は振るわない」  啓吾の言葉に那智はただただ驚くばかり。まさか謝られるとは思わず、目を見開いたまま茫然としてしまった。  「何、急に...どうして、」  「...別に許してもらえなくてもいい。ただ、謝りたかった。」  真っ直ぐだった瞳を下に向ける啓吾。  那智の中には淡い希望が膨らみ始めた。もし、この場で啓吾のことを許せばあの時のことは水に流してまた親友に戻ってくれるのだろうか、と。  しかし、以前“親友”と言葉を発した時、啓吾は苛立ちを隠すことなくぶつけてきた。  そのことを考えると、那智はそれ以上何もいうことができず口を噤んでしまう。  「じゃあ、俺帰るわ」  言い終わるや否や啓吾は立ち上がり那智の横を通り抜けて部屋を出ていってしまった。  まさか帰られるとも思わず那智は慌ててその後を追いかける。その額には汗が一雫流れた。  「も、もう帰るのか?」  「何、帰らないでほしいの?」  玄関で靴を履いた啓吾は目を細め楽し気に笑う。  「そういうわけじゃ、ないけど...」  ― ただ、なんか呆気ない...というか、なんというか...  急に恥ずかしさが出てきて、それを紛らわすかのように那智は視線をせわしなくあたりに向けた。    ― そういえば、無理矢理犯ったことに対しては一切謝られてない...。俺的にはそっちの方を謝ってもらいたかったけど...  だが、そんなことをこの場で言ってぶり返すのも嫌だった。そう思えば自然と出かかった言葉も飲み込み、黙り込む。  「那智...」  「...何、」  突然、そっと握られる手。那智の肩はビクリと震えた。    「お前に暴力を振るったやつが憎い...でも、同じことをお前にした俺も...————」  「だ、だから啓吾っ、このケガは転んでできたもので...」  「...そうだったな」  啓吾は眉をしかめさせたまま顔を上げて那智を見た。しかし、それもすぐに誤魔化すような笑顔になりじゃあな、というなり今度こそ啓吾は扉を開け外へと出ていった。  「...やっぱり、誤魔化せないよな」  深いため息を吐き出し、床に蹲る。  複雑な気持ちがグルグルと体の中を回り、泣きそうになった。  

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