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「月曜日から雨とか……最悪だな」
カフェのカウンターに座り、ガラス越しに道行く人々をぼんやりと眺めていた奥部 友規 は、湿気でしんなりとしたミルクティーブラウンの前髪を指先で摘まむと、溜息をつきながら重い腰をあげた。
デニムの後ろポケットに入れたままのスマートフォンを取り出しながら店を出る。
週末になれば待ったなしに店から送られてくる客の予約確認のメールは、今のところ一件も来ていない。
通知のない液晶画面を眩しそうに見つめてから、コンビニで買ったビニール傘をさして歩き始める。硬い靴底のショートブーツで水を跳ねながら狭い歩道を足早に歩いていると、雨粒が流れ落ちる透明のビニール越しに車のヘッドライトが友規の顔を照らした。
眩しさに顔を背け、小さく舌打ちする。
その瞬間、道路に出来た水溜りの上をタイヤが通過し、跳ね飛ばされた水が容赦なく友規の上に降り注いだ。
「――ちょっ! マジかよ……」
反射的に歩道の建物側に避けたものの、友規が受けたダメージは予想以上に大きかった。
左半身がぐっしょりと濡れ、ただでさえ順調とは言い難い仕事に拍車をかけるかのように、友規の気持ちをより憂鬱なものへと変えた。
「最悪……。客はいないは、びしょ濡れになるわって……もう、今日は帰った方がいいかもな」
そもそも、月曜日の夜から男を買ってセックスするなんて奴は、金を持て余した暇人か性欲旺盛のゲイぐらいだ。
しかも、朝から降り続いているこの雨のせいで人通りは少なく、繁華街から一本脇に逸れたこの場所も普段ならカフェが並ぶエリアとして若者が行き来する通りではあるが今は閑散としている。
「こんな夜に出歩く奴なんかいねーっつうの!」
以前の友規なら迷うことなく店に電話して怒鳴り散らしていたに違いない。昨年までは店舗型の会員制ウリ專バーに所属し、指名率ナンバーワンボーイとして名を馳せ、この界隈で友規の名前を知らない者はいなかった。しかし、その店がスタッフもろとも買収されたのを機に友規は店を辞めた。今は、当時のホールマネージャーであった杉山 が立ち上げた無店舗型デートクラブのボーイとしてウリを続けている。
ここも会員制ではあるが会員登録は以前よりも厳しく、身分証明書の提示は絶対条件で支払いも現金のみとなっている。それだけにコース内容やシステムも細かに設定され、時間延長に関してもボーイ本人の承諾が得られない場合は受け付けない。事前にオプションなどの指定もホームページ上で行え、そのデータが指名されたボーイにメールで送信されるようになっている。それを確認したうえで指示されたホテルへ出向き、サービスをする。
ウリ專でここまで厳しくする理由は、安価で適当なサービスを売りにしている店は多いが、あとで客とトラブルになるケースが多く、相手が著名人や政治家、ヤクザ絡みとなればもっと面倒な事になる。それだけじゃない。ボーイに執拗に付き纏うストーカー対策にも配慮しなければならないのだ。
これらは前の店のずさんな管理に辟易していた杉山なりの心遣いなのだが、新入りのボーイにはなかなか理解されず、長い付き合いである友規だけが彼に感謝していた。
道沿いにあるバーの前でさしていた傘のシャフトを肩に乗せて顎で挟み込み、友規は滴が飛んだスマートフォンをシャツで拭きながら画面をタップする。店のシステム管理ページで自身の受付を中止すると、濡れた髪を煩そうにかきあげた。
「これで、よし……っと」
ホッと小さく息を吐き、冷えはじめた左の肩を震わせると再び歩き始めた。
月曜定休の飲食店が多いせいか、あたりは薄暗く冷え冷えとしている。早く帰って熱いシャワーを浴びたいという思いが友規の足をマンションに急がせていた。
ラーメン屋と雑居ビルのわずかな隙間に置かれたビールケースが狭い歩道を占拠し、それを避けるために車道へと出た時だった。
「――ん?」
数歩進んで足を止める。気のせいかと思ったが、友規の足を進んだ分だけ戻させたのは照明のないラーメン店の軒先で力なく座り込む男の存在だった。
ワイシャツの襟元を大きくはだけたままのスーツ姿で、片膝を立て長い脚を投げ出すように壁に凭れていた。していたであろうネクタイは見当たらない。ぐっしょりと濡れ、色が変わったスーツは誰の目にも哀れに映る。
ただの酔っ払いだろう――そう思って見過ごすには、少し状況が違っていた。
年齢は友規よりも少し上だろうか。びしょ濡れで地面に座っている割には身なりは小綺麗で、履いている革靴も安物ではないと一目で分かる。
酔っ払いの特徴である荒い息遣いも、睡魔に襲われている様子もない。
濡れたこげ茶色の髪が崩れ、利発そうな額に幾筋も影を落とす。その奥にあるくっきり二重の黒い瞳は一点を見据えたまま微動だにしなかった。
(まさか、薬キメちゃってる……とか)
出来ることなら面倒な事には関わり合いたくない。それなのに、彼の前で止まったままの足は動いてはくれなかった。傘から流れ落ちる雨越しに彼をじっと見つめる。
彼は毛先からポタポタと落ちる滴も気になっていない。まして、すぐ目の前にいる友規にも気づいていないようだ。
だが、彼の脇に置かれたスマートフォンと、膝の上に乗せられた長く節のある指が微かに震えていることに気付いた友規は、彼がただのホームレスや酔っ払いでないことを悟った。
「――誰か、待ってる? それとも……このマズいラーメン屋の熱烈ファン?」
長い沈黙を破ったのは友規の方だった。その声にはっと我に返ったかのように肩を揺らし、ゆっくりと視線を上げた彼は不思議そうな顔で友規を見つめた。
「風邪、ひくよ。そんなに濡れるまで待たせる相手なんかロクなヤツじゃないから、もう帰りなよ」
少しやつれてはいるが整った顔立ちだ。何かを見つめていた黒い瞳の奥には微かに野心のようなものが見え隠れし、一流企業で手腕を振るっているエリートと言っても過言ではない。友規は今までに何度もそういう男と一夜を過ごしてきた。
『金はいくらでもある。だから……抱かせろ』
まるで支配者のような口調で友規を見下し、力任せに組み敷く奴らは嫌いだった。
時にはサービスとはいえ酷いプレイを強要されたこともある。ウリ專の友規を性処理の道具としか見ていない彼らの冷めた目を思い出して、小さく身震いする。
それなのに彼の前から動けなかったのは、友規を見上げた瞬間目尻から流れた一筋の滴を見たからだ。
毛先から零れた雨粒なんかとは違う。もっと儚くて清くて尊いもの……。
「――帰れないんだ。もう……帰る場所が、ない」
「え……?」
呻くように掠れた低い声を発した彼は、俯きながら前髪を何度もかきあげた。
肩が微かに震えている。それが雨に濡れた寒さのせいではないと気付いたのは、彼の眉間に深く刻まれた皺から推測できた。
「帰れないって……。まだ終電まで時間あるし、今なら間に合う……」
「違う……。家が、ないんだ……。俺はすべてを……失くした」
「ちょ、ちょっと待ってよ! 状況が掴めないんだけど……。アンタ、どう見てもホームレスって感じじゃないよね? あぁ……でも、このままってわけにもいかないだろう? とりあえず警察、行く?」
友規の言葉にゆっくりと首を横に振った彼は、何かに怯えるかのように両膝を抱えて俯いた。
「もう……放っておいてくれ」
さっきまで彼の瞳の中にあった自信の欠片が弱々しい言葉と共に砕け散った気がした。大きな背を丸め、膝を抱えたまま震えている姿は、まるで捨てられた子犬のように哀れで悲しかった。
その光景はずっと昔、他人を寄せ付けないように拒み続け、自身の存在を疎み、両親をも恨んだ自身のそれによく似ていた。
彼に何があったのかは分からない。でも――友規は幼い頃の自分とラップするそんな彼を無視して帰る気にはなれなかった。
「放っておけるかよ……。もし、このまま放置してアンタが死んだら、気分悪いだろ」
ぶっきら棒に言い放った友規だったが、彼の二の腕を掴んだ手には自身でも信じられないほどの力が込められていた。
「うち、来いよ……。何にもないけど、シャワーとソファくらいなら貸してやれる」
「……」
驚いたようにゆっくりと目を見開く彼に、友規は急かす様に言った。
「ほら、風邪ひくからさ……。とりあえず立って!」
濡れて皺だらけになったスーツの見た目からは想像出来ないほど、彼の腕は筋肉質で引き締まっていた。友規の指も回らないほどがっしりとした二の腕を力任せに引き上げて彼を立たせることに成功すると、これ以上濡れないようにと傘を差し掛けた。
自分より身長の高い彼に傘を差し掛けるのは大変ではあったが、不思議と嫌な気はしなかった。
「いいスーツが台無しじゃん。クリーニングでどこまでイケるかな……」
泥が跳ね、掴んだだけで水がしみ出すほど濡れたスーツをしげしげと眺め、友規はすっかり冷たくなった彼の指先を握った。
急激に奪われていく自分の体温と引き換えに、彼の悲しみがジワリジワリと入り込んでくるのが分かる。
他人の心の中を読むことが出来る特殊な能力は持ち合わせていない。それなのに、先程の彼の姿が脳裏から離れないどころか、その指先に触れているだけで心がギュッと何かに締め付けられた。
「――いいのか?」
心細い小さな声が友規の耳に届いた。申し訳なさそうに視線を伏せたままの彼に向かい、心に入り込んできた憂いを払拭するように笑みを浮かべる。
「俺、他の奴には絶対こんなことしないから。アンタだから……連れて帰る」
「え?」
「小さい頃、こうやって子犬を拾って帰っては母親に叱られてた。でもさ、放っておけないんだよ……。俺にしか救えないって思うとさ」
「救え……ない?」
「そう! 運命の出逢いとかって信じない性質なんだけどさ、出来ることはやってやろうって……。やらないで後悔するよりマシだろ? あぁ……今日の俺、すっごくポジティブ!」
彼の手を引いて歩き出した友規は努めて明るい声で言った。冷え切った指先が友規の中に送り込む憂いに呑み込まれないようにギュッと彼の手を強く握ると、少し高い場所にある彼の端正な顔を見上げた。
「俺は友規。アンタは?」
「――尚登 だ」
雨が降りしきる月曜日の夜――。
道端で拾った大きなずぶ濡れワンコとの出会いが『運命』だったと友規が気付くのはもう少し後になる。
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