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【1】

 ユニットバスの擦りガラスに映るのは、ぼやけていても長身で筋肉質であると分かるシルエット。  断続的に降り注ぐシャワーの音を聞くともなしに聞きながら、友規は濡れて重みを増した尚登の上着を持ち上げるとポケットを探った。下心がないと言えば嘘になるが、クリーニングに出すという大義名分のもとでの作業だ。  そこには二つ折りの財布と名刺入れ、おそらく自宅のものであろう鍵が入っていた。  黒革の名刺入れを開くと厚手の台紙に印刷された名刺が数枚あり、それも水分を含んで皺が寄り始めている。 「――Sアドバイザリー株式会社、代表……取締役? 須美(すみ)尚登(なおと)……」  どこかで聞いたことのある社名に「あぁ……」と思い出したように小さく呟く。  駅の構内に貼り出されているポスターに、ビルの屋上に掲げられた看板、企業イベントのスポンサーになっていたこともある総合コンサルティング会社だ。  企業に所属していない友規でも一度は目にしたことのある会社名。しかも、その肩書きに息を呑んだ。 「社長って……マジかよ」  人通りの少ない路地沿いのラーメン屋の軒先で、なぜ大企業の社長ともあろう彼がびしょ濡れのまま座り込んでいたのだろう。  今の時間ならば運転手つきの送迎車で自宅であるタワーマンションに乗りつけ、シャワーを浴びふわふわのバスローブ姿で窓から見える夜景をつまみに高級シャンパンなどを煽っていてもおかしくない。我ながら、いかにも庶民がイメージするであろう社長像に友規は苦笑いを浮かべた。  だが、尚登の容姿を見れば誰もが想像し、異議を唱える者なく皆が納得するであろう。  一瞬、彼の瞳の中に見た野心と自信。その裏付とも言える彼の正体に、友規は腑に落ちたような気がした。  社長ともあれば財布の中身もさぞ潤っていることだろうと興味本位で二つ折りの財布の中を見ると、ゴールドカードが一枚と千円札が二枚だけ入っていた。  現金を持ち歩かないタイプの男かとも思うが、さすがに所持金二千円はあまりにも心もとない。 「どこに住んでるか知らないけど、二千円あれば電車移動は可能だよなぁ。カードもあることだしタクシーも使える……。家の鍵だって失くしてるわけじゃない」  それなのに……。なぜ彼は家を失くし、すべてを失ったと言ったのだろうか。  友規の自宅であるこのマンションに帰る途中、ポツリポツリと話す彼の様子は記憶を失っているようには見えなかった。現に、自分の名前を友規に告げた時点でその可能性は消えている。  友規よりも四つ年上の二十九歳と言っていた彼が、自宅の場所を忘れるとは考えにくい。最近は数分前の記憶を失ってしまう記憶障害もあると聞くが、尚登の話しぶりに違和感は感じられなかった。  上着のポケットから取り出した物を洗面台の端に纏め、洗濯機の中に彼の下着や使用済みのタオルを放り込んでから音を立てないようにその場をあとにした友規は、後ろ手にドアを閉めながら小さく息を吐いた。  自分が一番嫌っている人種を拾ってしまったことを少しだけ後悔した。正確に言えば、尚登が大企業の社長であるということは今知ったことであり、それまでは放っておけないほど惨めな様相をしたずぶ濡れの子犬のようだったのだから、今更後悔してもどうしようもない。  でも……正直、怖かった。  体を売って金を稼ぐ自分を穢れた存在のように見下し、そのくせ己の性欲をこれでもかとぶつけてくる。  友規が下手に出れば出るほどつけ上がり、まるで性奴隷のように扱うエリートが嫌いだった。  今までも有名な政治家、議員、芸能関係者、大企業の役員、エリート官僚など数多くの男と寝てきた。その中でサービスを終え、友規の事を労った者が何人いるかと問われれば片手で事足りるほどの人数しかいない。  その度に何でも言い合える仲である杉山に愚痴ったが、返ってくる言葉はいつも同じだった。 『彼らはね、俺たちとは違う人間なんだよ……』  人の一生はきっと生まれた時から決まっている。裕福な家庭に生まれ、両親の愛情を一身に受けながら名門進学校の門をくぐり、エリートへの階段を着実に上がっていく。ブランド物のスーツを着て高級外国車を乗り回し、金にも夜の相手にも困ることのない生活。  それが羨ましいと思ったことは一度もなかったが、友規が歩んできた今までとのギャップの大きさに、どうしても苛立ちを覚えてしまう。  友規にとって幼い頃に経験した両親の離婚が今でもトラウマになっていた。毎日のように繰り返される父親からの暴力、母親の泣き叫ぶ声、叩かれた頬の痛み。思い出すだけでも吐き気を催す。  耐えかねた母親はそんな父親との離婚に踏み切ったが、その一年後……知らない男を家に招き入れていた。いつまでたっても出て行かない男に対し、友規は不信感を抱きながらも一緒に暮らした。  スーツを着て毎日決まった時間に出勤し、月末になると多くの生活費を家に入れるその男は自分の事を『お父さん』と呼ぶように友規に言った。  その時初めて、母親が再婚したことを知った。だが、義父となったその男の行動に友規が恐怖を覚えはじめたのは中学生になって間もなくの事だった。  夜になると母親の目を盗んでは友規の布団に忍び込み、体を弄った。最初はただ触るだけだったものが、いつしか愛撫に変わり、互いの性器を擦り合わせては快感を得るようになった。  そして――義父に後孔を犯された。激痛に泣き叫ぶ友規の口を塞ぎ、抗う手足を紐で拘束したまま何度も最奥を突き、精を注ぎ込んだ。  赤黒く充血した太い肉棒が自身の体内から抜け落ちた瞬間、ボタボタと質量のある音を立てながら朱が混じった彼の精液が布団の上に落ちたのを今でも鮮明に覚えている。排泄器官である後孔に男性器を突き込まれ、男でありながらまるで女のような声を上げさせられる淫靡な行為。  そして、抗っても刷り込まれる意識を失うほどの快感……。  友規の体はいつしか男に抱かれることでしか絶頂を得られない体に作り変えられてしまっていた。  そんな自分のセクシャリティを隠しながら大学に行き、卒業してすぐに夜の世界へと身を投げた。  爛れた過去、穢れた身体。それを抱えたまま社会人として生きていく自信がなかったからだ。それと同時に、人を信じることはもとより愛することも出来なくなってしまった。  今まで歩んできた人生は消すことは出来ない。だが、これからも自身に向き合うことなく目を逸らしたままで歩いていくであろう長い道のり。  そのほんの一コマである今、初対面であるはずの尚登が自分の事を知ることに怯えている。  胸が苦しくなるほどの憂いを秘めた彼から蔑まれることが怖くて堪らない。  だから……ウリ專であることだけは内緒にしておかなければならない。なぜそう思ったのか友規は自身でも分からなかった。ただ漠然と「怖い」と思ったのだ。  ぼんやりと歩きながらリビングへと向かう。何気なく顔に寄せた掌から煙草と柔らかな香水の匂いがした。  尚登のスーツについていたものだろうか……彼の香りだとすぐに分かった。  その香りを肺一杯に吸い込んだ時、友規の心臓がトクンと音を立てた。  ギュっと目を閉じると彼の悲しげな顔がちらつく。初めて接する香りなのに、体の芯がぽうっと熱くなっていく。どこまで浅ましい体なんだろう――と、疎ましく思う。  スタイルが良く容姿の整った男なんていくらでもいる。友規の客にももちろんいた。  一時のトキメキがないと言ったら嘘になる。だが、恋とはまったく違う感情だ。  体を触れ合わせ、一夜を共にする相手がイケメンであればそれに越したことはない。ただそれだけの理由――。  尚登への感情も一時のトキメキであり、同情に過ぎない。  これ以上彼に深入りすることは友規にとっても危険だと、頭のどこかで警笛が鳴っている。  ソファに仰向けに倒れ込み、天井をぼんやりと見つめる。  手には彼の名刺入れから一枚抜き取った名刺が握られていた。 「これ以上も、これ以下もない……。俺はただ……哀れな子犬を拾っただけなんだから」  自分に言い聞かせるようにボソリと呟いて、ゆっくりと目を閉じた。  ユニットバスの扉が開く音が聞こえ、友規は音のした方に背を向けるように寝返った。  明日になれば彼はいなくなる。そう願いながら深い眠りへと落ちていった。  *****  リビングの硬いソファで一夜を明かした友規は、思った以上の寝心地の悪さに痛む体を擦りながら起きると、シャワーを浴び少し遅めの朝食の準備を始めた。  食パンをトースターに投げ入れたところで、尚登の存在を思い出す。  拾ったとはいえ客人には変わりない。一晩だけでもと友規のベッドを彼に譲り、自身はリビングで過ごした。友規自身、これほどの甲斐性がまだ自分の中に残っていたのかと驚いたくらいだ。  慣れない二人分の食事を用意する違和感と闘いながら、なんとか簡単な食事を用意し終えると寝室のドアを控えめにノックした。 「――起きてる?」  昨夜と変わらないトーンでドアを細く開けて顔だけを覗かせると、尚登は布団を被ったままこちら側に背を向けていた。 「朝メシ、作ってみたけど……食べる?」  友規の問いかけに応えるようにモゾリと体を動かした尚登に少しだけ安堵する。このまま無視され続けていたら友規の方がへこんでいたに違いない。それに『社長』という自分とは別次元の生き物をもっと嫌いになっていただろう。   狭いながらもキッチンと併用しているダイニングの椅子にドカリと腰かけると、こんがりと焼けたトーストを頬張る。昼からはカフェのアルバイトが入っている。ウリ專が夜の顔であるならば、愛想のいいカフェの店員は昼の顔と言っていい。二つの顔を持つ友規だが根本は一つだ。上手く使い分けが出来ているかどうかなんて自分では分からない。偶然カフェを訪れた客が夜の客だった時もあったが、そこはお互い素知らぬ振りを突き通すのが暗黙のルールだ。  スマートフォンを指でスクロールしながら淹れたてのコーヒーを啜っていると寝室のドアが開いた。サイズの合わないスウェットの上下を着た尚登が寝癖もそのままに姿を現した。 「ぶはっ! すげー寝癖!」  思わず飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになって友規は慌てて口元を拭った。指先についたパン屑を払いながら尚登に向き直ると「おそよう」と揶揄するように言った。  最初、意味が分からずに茫然と立ち尽くしていた尚登だったが、ダイニングの壁に掛けられた時計に目をやり、その意味をようやく理解したようだった。時計の針はすでに午前十時を回っていた。 「時間的にブランチ……って感じだよな」 「ああ……すまない。久しぶりに寝た気がした」 「睡眠不足は美容の敵!……って俺らには関係ないかっ」  友規の冗談に薄い唇の端をわずかに緩めた尚登は向かい合うようにテーブルに着くと、両手を合わせて「頂きます」と頭を下げた。  尚登は容姿だけでなく礼儀も正しい。昨夜、部屋に入った時も自身の靴をきちんと揃えていたことを思い出す。躾の厳しい家庭で育ったか、はたまた良家のお坊ちゃまと言っても納得出来てしまうほど、尚登の動き一つ一つが洗練されたもので、無駄が感じられない。  友規にとってはあまりお目にかからないタイプの人間だけに、物珍しさの方が先行しつい見入ってしまう。  それに気づいたのか、尚登がふっと視線を上げて友規を見つめた。 「――そんなに酷いか? 寝癖」 「あ、いやっ! そう言うんじゃなくて……。なんていうか真面目だなって」 「真面目? この俺がか?」 「俺とは全然違うなって……。なぁ、夕べはスーツとか着てたけど、会社……行かなくていいのか?」  壁掛けの時計にちらっと視線を走らせ、友規は直後にしまったと後悔した。昨夜のあの状況を見れば訳ありなことは一目瞭然だ。尚登にしてみれば、友規が深く追及してこない安心感でここに来る事を決めたはずだ。  彼の名刺はまだデニムのポケットに入ったままだ。それを気付かれないように掌で押えこんで、友規は無理やりに作った笑顔で何とか誤魔化した。 「――スーツ、乾いてないもんな。無理か……」  このままでは余計な事を口走りそうで怖い。友規はチラッと尚登の顔色を窺いつつ、食べかけのトーストを大きめに千切ると無理やり口の中に詰め込んだ。  当の尚登と言えば、友規の発言に特に驚いた様子もなくコーヒーの入ったカップを口元に運んでいた。  一瞬、凍りついたと思われた空気も無言の時間が緩やかにしていく。  誰かと向かい合って食事をしたことなど、今までにあっただろうか……。  最初は落ち着きなくひたすら食べ物を口に運んでいた友規だったが、その動きは次第にゆったりとしたものへと変わっていた。  誰かが一緒にいる食卓――。両親と離れてからは未知の体験であり、気恥ずかしさもあるが何より穏やかな気持ちでいる。 「このスクランブルエッグ、美味いな……。料理、得意なのか?」  柔らかな時間の流れを揺るがしたのは尚登の低い声だった。弾かれた様に顔を上げた友規は照れたように頬を指先で引っ掻きながら小さく頷いた。 「カフェでバイトしてて覚えた。――何だか照れる。褒められたことないから」 「そうなのか? 今まで食べた中ではダントツに美味い」 「褒めても何も出ないよ? それに、こうやって作ってやるヤツもいないし」  その時初めて、尚登は顔を上げて真っ直ぐに友規を見つめた。 「彼女とかいないのか? モテそうな顔してる……」 「残念でしたぁ。今はフリーで~す」  おどけてみせた友規だったが真剣な表情のままでいる尚登に気付くと、すぐに顔を背けてあらぬ方向に視線を泳がせた。 (恥ずかしい……。いつまで見てるんだよ)  人の内面までを見透かしてしまいそうな彼の黒い瞳から逃れるように、友規は後ろめたい自身のセクシャリティを隠した。  最近はLGBTに対して認知度も理解度も上がってきてはいるが、まだ一部の人たちには認められていないこともあり、自身のセクシャリティを明らかにするにはいつでも警戒心が付き纏う。  今までも友規がゲイと知った途端に距離を置く友人や、あからさまに避ける人たちを見てきている。さすがに慣れたつもりでいるが、やはり心の奥がギシギシと軋む音だけは何度経験しても体に馴染んではくれない。 「意外だな……」 「そ、そうかな?」 「見た目はチャラ……あ、いや……今どきの感じだけど、素性も知れない他人を部屋に招き入れてこうやって食事まで振る舞ってくれるなんて、奇特な存在だと思うけどな……」 「そこっ! 言い直すとこじゃねーから! チャラいだけ余計だ――って、完全否定出来ないのがツライわ」  母親譲りの女顔に緩くウェーブしたミルクティーブラウンの髪。耳朶にはピアス、そして服装も言動も緩めな友規。身長は一七〇センチと男としては標準より少し低めだが、何より体の線が細い。ガリガリというわけではなく、薄っすらと筋肉はついているものの全体的に華奢に見えてしまう。こういう体型ゆえにウリ專のネコとしては人気があるのだが、本人としてはもう少し男らしい体になりたいと常に思っている。  今どき、ホストでもこんな中性的なキャラは流行らない。 「――俺は、いいと思う」 「え?」  ボソリと呟いた尚登に顔を向けたタイミングで、彼が席を立った。 「ご馳走様。片付けは俺がやるよ」 「え? あ……それは、どうも」  予想外の申し出に驚いた友規だったが、彼が一宿一飯の恩を感じていると分かっただけでも、ここに連れてきた甲斐があったなとホッと胸を撫で下ろした。  エリート然としていた昨夜のイメージから一転、キッチンに立ち手際よく洗い物をこなしていく広い背中を見つめながら友規は出かける準備を始めた。バイト先のカフェはマンションがあるこの地区から三駅ほど移動しなければならない。  オフィスビルが多く立ち並ぶエリアで、ランチタイムにはかなりの賑わいを見せる。 「ねぇ! 俺、ちょっと早めに家出るから……。鍵、置いとくから戸締りだけよろしく。あ~と、鍵は……集合ポストの中に入れといてくれればいい。あとさ、住所……どっかにメモっておいてよ。スーツ、クリーニング終わったら送るからっ。タクシー拾えば、その格好で帰っても大丈夫でしょ」  洗面所で髪をセットし歯ブラシを咥えたまま叫ぶ。キッチンにいる尚登には聞こえているはずだが返事はない。 (もう、会うこともないんだろうな……)  マトモな生活を送っている者であれば夜の友規を買う必要はない。もしかしたら昼のカフェで偶然再会する可能性もあるが、バイト先の場所を明かしていない今、それはものすごい確率の話になってくる。  都内にある多くのカフェの中から友規がいる店を探し出すことは容易ではない。  何より、一晩泊めただけの彼がそこまでして友規を探す必要はないだろう。お互い何も知らない。知っているのは名前と顔だけ……なのだから。  鏡に映った自身の顔がどことなく寂しそうに見える。ひとときでも、自分以外の人間と一緒に過ごしたせいだろう。どこにいても自分の居場所を探し、ずっと孤独だった友規が飾らない自分を見せた相手だったから。 「――ちょっと、尚登さん? 聞こえてる?」  洗面所を出てキッチンを覗き込んだ友規は、冷蔵庫に向かってスマートフォンを耳に押し当てたまま小声で何やら話し込んでいる彼の姿を見て慌てて口を噤んだ。 「電話中かよ……」  知り合いがいるのであればそれに頼ればいい。大企業の社長ならばツテはいくらでもあるはずだ。友規が心配することは何一つない。  深入りしたくないクセに、つい焼いてしまうお節介。  友規はそんな自分を戒めるようにわざと大きな足音を立てて、自分の存在をアピールするかのようにキッチンに足を踏み入れた。その音に気付いたのか尚登が顔を向けたタイミングで、ニッコリと笑いながら声を出さずに唇を大きく動かして言った。 「バイバイ……」

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