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【2】

 乱れたシーツの上から逃げるかのようにバスルームに向かった友規は、体に飛び散った自らの精液を丹念に洗い流した。つい先程まで浅ましく客の肉棒を咥えこんでいたその場所を指でなぞると、まだ快感の余韻がジワリと脳ミソを震わせている。 『俺は……いいと思う』  尚登の低い声が不意に蘇って、シャワーのハンドルに伸ばした手を止めた。  頭上から降り注ぐ湯が視界を遮る。顔に張り付く髪を煩そうに払いのけ、友規は何度も首を振る。 「何がイイ……んだよ。チャラくて……男のチンポでよがり狂うヤツの、何がいいんだよ」  今夜の客は常連の河野(かわの)という男で、前の店から贔屓にしてもらっている友規の良く知った顔だった。年齢は三十代後半で自称営業マンと言っているが、本当のことを知ろうとも思わないし、詮索しないのがルールだ。見た目もテクニックも申し分ないし手酷いこともしない。  だが、体の鍛え具合といい、時に見せる鋭い眼光といい、ただの営業マンではなさそうだ。飄々とした性格で掴みどころがない彼だが、得体の知れない何かを囲っているようにしか思えない。  そんな彼は誰より安心出来る相手だったにも関わらず、友規の心は満たされなかった。  いつもならば体を売り、快楽を与えられ、お金を貰うだけで自分はこの場所で生きていると実感できた。  ウリ專のボーイとして客を喜ばせ、自分も満たされることがステータスだと思っていた。  それなのに――今日は違った。  物理的な刺激を与えられれば体は自然と反応する。でも……心は?  乳首を吸われながら激しく体の中を突かれていても目の裏に浮かぶのは尚登の切なげな表情ばかり。  セックスに集中しようとすればするほど、尚登の声が耳の奥で何度も聞こえてくる。たった一晩、体を重ねたわけでもない彼が友規に残した鮮烈な印象。  何人もの男に抱かれても、顔を覚えている者など数えるほどしかいない。そのほとんどは今夜のような常連客か、ブラックリスト入りした要注意人物だ。  何をするでもなく、他愛ない会話を交わしながら朝食を食べただけ――。 「――トモキ?」  カチャリとバスルームの扉が開き、河野が顔を覗かせた。  驚いて勢いよく振り返った友規を見て、彼は小さく吐息した。 「お前……好きなヤツでも出来た?」 「え……」 「何度もお前抱いてるから分かるんだけど、今日のお前……ちょっと変だった」 「変? 俺が?」  ハンドルを回し、シャワーの湯を止めた友規は小首を傾げたまま彼に向き直った。  白くキメの細かい滑らかな肌をいくつもの滴が流れ落ちていく。さんざん責められた乳首は赤く色づき、細く引き締まった腰から尻にかけてのラインが情事のあとの気怠さを物語っている。  濡れてウェーブのきつくなった髪をかきあげながら彼のもとに近づくと、媚びるように首に両腕を絡ませて笑って見せた。 「気のせいじゃないの? それとも……河野さんが疲れてたとか」  湿った肌を密着させて掠れた声で問う友規の細い腰に手を回した河野は、そのまま手を滑らせて肉付きの薄い双丘の奥へと指を忍ばせた。  未だ火照ったままの蕾をぐるりと円を描く様に撫でてから、指先をグッと押し込んだ。 「んぁ……っ」 「ここ……。俺じゃない『誰か』のモノを欲してただろ? いい声で啼いてたし、感じていたのは演技じゃないって分かるけど……ここは何より正直だぞ」  河野の目がすっと細められ、友規は咄嗟に顔を背けた。  そんなはずはない――そう否定する自分の中で起きていた変化。河野に図星をさされ、焦っている自分がいる。  絶対に気付かれるはずはないと思っていたことがいとも簡単に露呈され、友規は唇を噛んだ。 「まあ、それがいけないって言ってるわけじゃない。お前だって好きな人が出来てもおかしくない歳だし、むしろいない方が不思議だ。――なあ、そいつを本当に好きになったんだったら、この仕事辞めろ」 「なに言って……っ。そんなの河野さんに関係ないことだろ」 「ああ、関係ないよ。でもさ、俺以外の客に気付かれるようになったら、もう時間の問題だぞ? 演技じゃ限界があるからな」  河野は名残惜しそうに友規の後孔に突っこんだ指を中で捏ねくり回している。時々クチュッと小さな音が漏れ、友規は明るいバスルームでの行為に顔が熱くなるのを感じた。 「もう……ヤダ。河野さん……抜いて」 「出来ることなら俺がお前の大切な人になりたかったなぁ……なんて」 「は? なに言ってんの?」 「冗談だよ、冗談。これで最後かと思うと、時間延長してもいいかなって思えてきた」  先程から腰骨のあたりに当たっている河野のペニスが力を持ち始めている。彼の社交辞令もまんざら口から出まかせではなさそうだ。 「残念。俺、忙しいの。それに――最後じゃないから。また指名してっ」 「はいはい……。ホムペのボーイ閲覧からお前の可愛い顔が消えない事を祈ってるよ」  河野の長い指が友規の感じる場所を掠めながら抜かれていく。「んっ」と息を詰め腰を突き出すと、その唇を河野が舌先で舐めた。 「――バカ」 ムスッと唇を尖らせて河野を責めた友規だったが、この人には敵わないと内心白旗を掲げていた。 ただの営業マンなんかじゃない――そう思った。 *****  河野と別れホテルをあとにした友規は、弾んでもらったチップで潤った財布をポケットの上から押え、コンビニへと入った。  明日の朝食にとサラダと簡単な惣菜、ミネラルウォーターのボトルをカゴに入れてレジへと向かう。  店員の「スプーンはお付けいたしますか?」の問いかけを不思議に思いながら、爽やか青年が手にしている物を凝視して目を見開いた。  その手には期間限定で販売しているプリンの容器がのっていた。蓋に付けられた帯に書かれたキャッチフレーズをテレビのCMで見たことがあったことを思い出す。 「え……あれ? あ、はい……」  甘いものは嫌いではない。友規一人が食べるのであれば一個で十分なはずのプリンが、なぜかカゴの中に二個入っていた。いつ入れたのか――いや、自分が入れたことには違いないのだが、友規には記憶がなかった。  一つは自分のために買ったものだとしよう。だが、もう一つは……。  深夜にも関わらず後ろに並び始めた人の気配を感じ、友規は素早く支払いを済ますとコンビニを出た。  外に出て、商品の入ったビニール袋を開いては首を傾ける。 「俺、何やってんだろ……」  マンションに帰ったところで尚登はもういないだろう。誰も待つ人もなく、暗い部屋の電気を灯すことで友規が肩の力を抜くことが出来る場所。 (今までと何も変わらない……)  そう何度も言い聞かせてみるが、心のどこかで尚登がいることを願っている。  大企業の社長の肩書を持つ尚登。彼は本来のあるべき場所に戻ればいいだけの話だ。  家を失おうと、帰る場所がなかろうと友規が知ったことではない。  ただ唯一気になっているのは、部屋の鍵がポストの中にちゃんと置かれているか……ということだけ。 「そこだよ! 一番重要なこと! アイツ……俺の話ちゃんと聞いてたのかなぁ」  洗面所からの友規の声が聞こえていれば、何事にも真面目な彼の事だ、間違いはないだろう。しかし、あの時電話をしていた相手も気になる。  彼をあんな状況に陥れた奴でなければいいが……と思う反面、声をひそめていたところをみると恋人、もしくはそれに近しい存在の人かもしれない。  容姿端麗、誠実で真面目で家事もこなす大企業の社長。これ以上の高望みがあるのだろうか。  すべてを兼ね揃えた彼に恋人がいないわけがない――そう、いないわけが……ない。  左手の薬指に指輪がないところを見ると既婚者ではない。だが、二十九歳ともなれば結婚する年齢としては丁度いい。今や肉食と呼ばれる女性からの猛烈なアプローチが想像できる。そんな彼女たちを蹴散らす様にして仕事に没頭するタイプか? はたまた、ああ見えて手玉にとって弄ぶ女ったらし?  尚登に限って後者は考えられない。じゃあ、特定の人はいない……のか。 「おい、ちょっと待てよ……。なぜ俺は『いない』を前提にしている?」  不意に足を止め、自問自答する友規の目に飛び込んできたのは今にも潰れそうな古い店構え。建物の脇には歩道にまではみ出したビールケースが積まれている。 「――マジかよ」  そこは昨夜、尚登と初めて出逢ったラーメン屋の前だった。  彼が力なく壁に凭れていた光景が浮かび、友規はぎょっとして何度も瞬きを繰り返す。  雨の降りしきる音、ビニール傘に弾ける滴、こげ茶色の長い前髪から覗いた野性的な黒い瞳。  だけど……彼の指先は震えていた。  通り過ぎる車の音も、歩道を歩いていく人の靴音も聞こえない。まるで二人だけが切り取られたかのような静寂に包まれた時間。 「誰を……待っていた?」  傍らに置かれたままの彼のスマートフォンの液晶が明るくなることはなかった。  もしかしたら彼は、たった一人の人を待っていたのではないだろうか。心から愛し、大切にしていた人を……。  その人はどれだけ待っても現れることはなかった。電話をすることも憚れるほど信頼していた人に裏切られたのだとしたら……。  友規に見せた切なげな表情、目尻から流れた一筋の涙。そして……冷えた指先から感じる憂い。  尚登が座っていた場所にしゃがみ込み、コンクリートの床にそっと手を触れてみる。  冷たい雨の名残はもうそこにはなかった。しかし、妄想でも思い込みでもない何かがそこには残っていた。 「尚登、さん……」  次の瞬間、友規は走っていた。繁華街を貫く大きな通りに出るとタクシーを止め、息を切らしながら乗り込んだ。 「N駅の西口、急いでっ」  彼が部屋にいるはずがないことは分かっている。でも、ほんの少しの望みを持ちたい。  ポストの中に鍵が入っていた時の落胆は覚悟している。それでも……友規の気持ちは体よりも早くマンションへと向かっていた。  *****  息を切らしながらマンションへと駆け込んだ友規が真っ先に向かったのは一階のエントランスホールにある集合ポストだった。自分の部屋番号のポストの扉に手を掛けてみるが開けるのを躊躇ってしまう。  それでも勇気を振り絞って銀色の扉を開いた。  そこにはポストインされたダイレクトメールとピザ屋のチラシ、そして変色したマンションの利用規約が入っているだけだった。それらをかき分けて奥まで手を入れて探ってみるが、鍵らしきものは見当たらない。 「まさか……だよな」  友規のまさかの意味は二つ。一つは鍵を入れずに帰ってしまったという説。もう一つは……尚登がまだ部屋に留まっているという説。  後者の確率は至って低い。では、友規の部屋の鍵は今どこにあるのか。  集合ポストのすぐ脇にある階段を駆け上がり、部屋の前まで行った友規は廊下に面した窓ガラスからわずかな明かりが漏れていることに気付き、逸る気持ちを抑えながらドアホンを鳴らした。  スチール製のドアの向こう側で人の気配がする。しばらく何かを窺っているようだったが、カチャリという金属音と共にドアが細く開けられた。 「――おかえり」  玄関から聞こえた低い声に、友規は信じられない思いでドアハンドルを掴み勢いよくドアを開けた。 「アンタ……。なんで、まだ……ここにいるんだよっ」 「シーッ。とりあえず入って」 「入ってもなにも……。ここは俺の部屋だし!」  尚登の大きな体を押し退けるように部屋に上がった友規はリビングのテーブルの上にコンビニの袋を投げ置くと、友規のあとを追うように入ってきた彼に向き直った。 「帰ったんじゃないのか? なんで、まだ……いるんだよっ」 「――食事は? 用意出来てるんだ。温めようか?」 「話、逸らすなよ。――アンタ、大企業の社長だろ? そんな人がここにいちゃマズイだろ!」  興奮と怒り、ほんの少しの喜びと安堵。  頭の中がぐちゃぐちゃになった状態ではマトモな思考は望めない。ゆえに、友規は尚登が社長であることを口走ってしまったことに気付かずにいた。  友規の言葉にゆっくりと目を見開いていった尚登だったが、すぐに小さく吐息して視線を逸らした。 「名刺……見たのか?」 ハッと息を呑んで口元を覆ったが、もう遅かった。 「あ……。え~と、その……仕方ないだろ。クリーニング出さなきゃいけなかったし……」 「気を遣ってくれていたことには感謝するよ。それに……いろいろと迷惑をかけてしまったことも」 「迷惑って……。そんなこと思ってない、けど……」  なぜだろう。真っ直ぐに彼の顔を見ることが出来ない。  数時間前、友規は男に抱かれあられもない声をあげて何度も絶頂した。自分の腹を汚した精液も、河野の匂いも全部洗い流してきたはずなのに、自身の体から男にしか分からない独特の匂いが漂っているようで居たたまれなかった。  チラチラと何度も尚登を盗み見る。見たことのないシャツを着ていた。  綿素材の至ってシンプルなデザインのシャツではあるが、尚登が着ているだけで友規の心をかき乱すには十分な要素だった。 「――それ。どうしたの?」 「え?」 「シャツ……。俺のじゃないよね?」 「あぁ……。知り合いに持ってきてもらったんだ。友規のをずっと借りているわけにはいかないからな」 「ずっと……って。アンタ、いつまでここにいるつもりだよ? そりゃ拾った以上、俺にも責任があるけど……。犬とか猫じゃない、アンタ人間の大人だからなっ」  友規は自身を庇うかのように腕をぐっと掴んだ。まだ外の湿り気が残るジャケットに指が食い込むたびに、尚登の視線から逃れようと足掻く自分がいる。  でも、彼はその動作を見逃すまいと黒い瞳を友規に向けたまま動かない。 「――恋人と待ち合わせをしていたんだ。行きつけのイタリアンレストランで」  不意に尚登の口から紡がれた突拍子のない言葉に、友規は面食らったように顔を向けた。 「え……」 「一緒に食事をしようって……。今思えばおかしいなと気付くべきだった」  薄い唇を皮肉気に歪めて自嘲する尚登に、友規はゆっくりと向き直った。狭い部屋の内部が真空になったような長い沈黙の後で、尚登は額を覆い隠す長い前髪を乱暴にかきあげて言った。 「アイツから食事に誘われることなんて一度もなかった。それに……株主総会前のこの時期に、重要な書類や印鑑、俺の私物を整理したいから持ち出すとか……あり得ない話だった。でも……俺は何一つ気付かなかった」 「尚登さん?」  毎年、決算のタイミングで開催される定時の株主総会は、株主を構成員として企業の基本方針や重要な事項を決定する最高意思決定機関。そこでの決定が企業にとってどれだけ重要視されているかということは、会社勤務経験のない友規でも知っている。  会社役員などを相手にすることが多い友規に対し、開催が近づく社内の緊張感を愚痴る客もいれば、いざ事に及ぼうとしても勃起しない客もいた。心ここにあらず……というよりも、体は顕著にその不安を教えてくれる。  そんな株主総会開催直前に、なぜ社長である尚登があんな場所にいたのだろうか。  友規は固唾を呑んで尚登の苦し気な表情を見守った。 「嵌められたんだよ……。俺はすべてを失った……。会社も親友も、そして恋人も……。情けない話だろ? 今の俺は社長でもなんでもない、ただのクズだ……」 「どういうことだよ?」 「副社長であった俺の親友と、秘書を務めていた俺の恋人は最初からグルだったんだ。奴らは俺を騙してあの会社を乗っ取った。それだけじゃない、俺のマンションの権利も銀行口座もすべて凍結させた。恋人との待ち合わせはもちろん嘘。俺を会社から遠ざけるための口実だったんだよ。そこまでして俺を貶めたかった理由が分からない。ずっと信頼してきたのに……」 「――自分の事、クズとかいうなよ。この世の中、もっとクズな奴はいっぱいいるぜ? その程度の事で自分を責めるのはやめなよ」  尚登は勢いよく顔を上げるなり友規の襟元を掴み上げると、端正な相貌に怒りの表情を浮かべて唸る様に言った。それまで穏やかに、まるで自身の闇を必死に抑えこむかのように話してきた尚登の中の鎖が音を立てて引き千切られた瞬間だった。 「何も知らないお前にとっては『その程度』のことかもしれないが、何百人もの社員、取引先企業からの信用、社長としての権威、プライド、自宅に銀行口座……そのすべてを一夜にして全部失った俺の気持ちが分かるか? しかも、一番近くにいた親友に恋人を奪われたんだぞ! 悔しさと悲しみ、腹の底から湧きあがる怒り……それを誰にもぶつけられない。なぜなら全部……俺のせいだからだ」  友規にはこの時、なぜか雨の滴を滴らせて憂いに沈む尚登の顔が見えた。  怒りもなければ悔しさもプライドもない。ただ……大切な人に裏切られたという絶望感だけを背負った彼の姿がビニール傘に流れる滴と共に落ちていくのを感じて、咄嗟に彼の腕を掴んでいた。 「――違うだろ。アンタは本当に失ったものの大きさに気付いてない」 「なに?」 「会社なんてまた作ればいい。信用だって本当にアンタを必要としてくれている人がいるならば、これからの頑張りでいくらでも盛り返せる。社員に至っては経営者が変わっただけで給料さえ貰えれば問題ないと思ってるはずだ。――そうじゃないんだよ。アンタが失くしたものは……」  友規も自身の中で欠落しているものがあると気づいたのは、義父に犯された翌日の事だった。  あの日以来、誰も信じられなくなった。自分を守ることもやめた。 うわべだけの笑顔、薄っぺらな同情、口先だけの慰め。  自身に向けられるすべての物が色を失いモノクロに変わった。  そして、誰も愛せなくなっていた……。  そう――見知らぬ男に脚を開き、貪欲に快楽を求め、欲望を撒き散らし体を穢す自身さえも。  店のオーナーである杉山でさえも、ただ付き合いが長いというだけで全てを許し委ねているわけではない。いつ彼に裏切られ、この体を金に換えられるかも分からない。  友規とは違う世界に住む尚登もまた、ビジネスという戦場で腹を探り合い、相手を落とし、陥れて成長してきたはずだ。  その唯一の拠り所であった気の許せる親友と、愛し愛されていたはずの恋人に裏切られた彼が失ったのは、人を信じる心と自分を守る勇気、そして……誰かを愛すること。  尚登と初めて会った時に感じた不思議な感情――その正体が何か分かった気がした。  境遇は違えど、失うものは変わらない。  だから、これ以上堕ちていく彼を見ていられなかった。  友規の襟元を掴んでいた尚登の手が力なく離れていく。ゆっくりと視線を上げた友規の目に映ったのは、尚登の頬を伝う幾筋もの涙だった。 「――同情はしない。気が済むまでここにいればいいよ。俺は構わない……でも」  不意に言葉を切った友規を、尚登は濡れた睫毛を瞬かせて真剣に見つめた。  彼の腕を掴んだままの指がじんじんと痺れている。無意識ではあったが、どれだけの力で彼を救い上げようとしていたのだろう。 「死ぬとか……絶対、やめとけよ。アンタはまだ這い上がれる……」 「友規……」 「俺だって必死にしがみついてる……。手を離したら、もう……ダメだと思ってるから」  今まで、自分の胸の内をこうやって吐露したことがあっただろうか。  毎日のように義父に犯され、性処理道具として生きてきた自分。何度も死にたいと思った。  自分は生きていても必要のない人間だと、生まれてきたことを疎ましく思ったことなど数えきれない。  でも、ギリギリのところで何かにしがみついている。それは離婚して独りになった母親だったり、仕事終わりに食べるコンビニのプリンだったり……。  些細なことではあるが、それが喜びであれば尚更、明日は生きていようと思える。  あの夜、尚登の冷えた指先から入り込んでくる憂いに気付いたのは間違いではなかった。指先を掴んだ手に力を込めた理由(わけ)。救いたい――そう思った。  ふっと体の力が抜け、掴んでいた尚登の腕から手を離した。 (大丈夫……。もう、大丈夫) 「あぁ~、今日も疲れたなぁ。さっさと飯食って寝ようっと。あ! 尚登さんってプリンとか甘いモノ食べられる?」 「え? あぁ……嫌いじゃない」  その場の空気をガラリと一変するかのように、努めて明るい声をあげた友規に面食らったのか、涙を乱暴に拭いながら尚登は慌てたように相槌を打った。 「期間限定! その袋に入ってるから食べていいよ。俺、着替えてくるから」  ひらひらと掌を振りながら寝室に向かった友規は後ろ手にドアを閉めると、薄いドアに背中を預けたまま細く長い息を吐きだした。  先程から締め付けるように痛む胸を掌で鷲掴むと、薄い唇を強く噛みしめた。 「何なんだよ……。苦しくて……息が出来ない。アンタの顔、見てると……痛い」  ホテルで河野に言われた言葉が一瞬、頭を過る。 『俺じゃない『誰か』のモノを欲してただろ?』  客以外のモノなんて欲してない……。いや、そう言い切れない自分がいる。  でも、それを認めてしまったらこの関係は成り立たなくなる。それにウリ專ボーイに懐かれたとなれば尚登だっていい気持ちはしないだろう。  すべてを失った自身に、その権利は認められるのだろうか。  自分を貶め、欲望のままに男に身を委ねる淫乱な体……。 (もしも、それが赦されるのならば最後に一度だけ……)  友規は自身の中に芽生え始めた今まで経験したことのない『想い』に戸惑い、己との葛藤を余儀なくされていた。

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