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【10】

 先程から煙草を咥えたまま、ぼんやりと窓の外を見つめている高成の背中にチラチラと視線を向けていた友規は、アウトプットしたばかりの資料を手に席を立った。  いつもならば、難しい顔をして裁判資料に目を通している彼が、今日は心ここにあらずという感じだ。  朝から降り続いている雨は夜になっても弱まることなく、自然と人の気持ちを沈ませる。  雨の滴が流れる窓に自身の顔を映した高成が、デスクの前に立った友規に気付いたのはしばらく経ってからの事だった。 「――高成さん。資料のチェックをお願いします」 「そこに置いとけ、あとで見る……。友規、もう帰ってもいいぞ」 「でも、まだ仕事が残ってますし」 「いいから帰れ。――尚登が迎えに来てる」  窓越しに尚登の車が見えたのだろうか。少し気恥ずかしさを感じながら友規は小さく頷いた。  自分のデスクに戻りかけて、ふと足を止める。  ゆっくりと振り返って高成を見つめた。 「あの、高成さん。この前は……その、いろいろとありがとうございました」 「んぁ? 俺、何かしたっけ?」  煙草を形のいい唇に挟んだまま振り返った高成に、友規は深々と頭を下げた。 「請求書……。ちゃんとクライアントにお渡しすることが出来たので」 「そうか。お前も、まともにお遣いが出来るようになったか」 「は?」  尚登と晴れて恋人同士になれたのは高成の気遣いのお陰だと、友規は心から彼に感謝していた。もしも高成が尚登のイトコでなく、二人の気持ちに気付いていなかったとしたら、二度と尚登に会うことは叶わなかっただろう。  女性と見紛う美しい相貌でありながら実に男らしい低音ボイスでサラッと毒を吐く高成だが、そういう優しさを人に見せることが苦手な人間なのかもしれないと思うと、少しだけ可愛くも見えてくる。 「――高成さんはデート、楽しめたんですか?」  聞けば機嫌を悪くすることは分かっていたが、友規の興味は高成の怒りを凌駕していた。  物憂げに前髪をかきあげ、短くなった煙草を灰皿に投げ入れた高成の強烈な毒舌が降りかかるのを覚悟した時、彼は友規の予想に反してわずかに目を伏せたまま小さくため息をついた。 「なにも失うものがない奴は怖いもの知らずで自我を強く保っていられる。でも……いざ、大切なものを手に入れてしまうと人間は誰しも弱い生き物になる。欲しいと願っても、それが怖くて言い出せない。それは相手も同じだ。どれだけ惹かれ合っても、その勇気がなければ踏み出せない」 「高成さん……?」  まるで友規と尚登の心の内を読んでいるかのような彼の言葉に、友規は息を呑んだまま動けなくなった。  普段、あまり自分のプライベートを明かさない高成が急にこんなことを言い出すのは意外だった。 「あの……何かあったんですか?」 「お前らは不安じゃないのか?――って、ラブラブ真っ只中のお前に聞くことじゃないか」  高成が自嘲気味に薄い唇を歪めた時、友規は咄嗟に声を上げていた。 「不安ですよ! 不安しかない……。俺、恋とかしたことなかったし、誰かに愛されることもなかった。でも、尚登さんは俺を愛してくれてる。こんなに幸せでいいのかって……毎日自分に問いかけてる。これが、ある日突然目の前から消えてしまったら……どうなるんだろうって。怖くて……その想いを素直に受け止められないでいる自分がいるんです」  ちらりと視線を上げながら友規を見据えた高成は、新しい煙草をパッケージから一本引き抜くと、それを唇に挟みながら言った。 「心配するな。尚登はその辺のバカな奴らとは違う。それに……アイツはお前と出逢って変わった。恋人がいても何より仕事を最優先するほど恋愛には淡白だった尚登が、今じゃどうだ? 大差をつけてお前を圧倒的に優先するほどの変わり様だ。お前の憂いは無用だ」  ライターで火をつけ、煙を燻らせながら目を細めた高成は、革張りの椅子におもむろに腰かけると、長い脚を組んだ。 「――欲しくても手が届かない。体が繋がっている間だけの恋人関係。そんなのとはまるで違う」 「高成さんの恋人はそういう人なんですか? 経験値少ない俺が言うのもなんですけど、好きなら好きって想いを貫いた方がイイですよ――って、俺も何度も諦めかけましたけど。運命なんて言葉は信じたことなかったけど、尚登さんとの出会いは運命だと信じたい。これ……ウリ專やってた時のお客さんからの受け売りなんですけど、同じ痛みを抱えている人は本能で分かる。痛みが分かるから寄り添っていたいと思うのが人間の本質だって……。あぁ、俺と尚登さんって同じものを抱えていたんだなって思いました。大切なもの、持つべきものを全部失って崖っぷちに立たされた時、人間誰しもロクな事を考えない。尚登さんは死を覚悟したし、俺は死ぬ勇気がないからこの体を売って穢した」  高成が指に挟んだ煙草から天井に向かって白い煙が真っ直ぐ上がっていく。エアコンの風に煽られたそれはふわりと形を崩し、ゆらゆらと形を変えながら揺らいでいく。  友規はそれを見るともなく見つめながら、自身と尚登への想いを重ねるように続けた。 「俺と尚登さんが恋人として体を繋いだ夜、初めて『怖い』って感じました。この幸せが、この人が消えてしまったらどうなるんだろうって。誰かを信じることなんて、今まで怖くて出来なかった。でも――お互いに信じることにしたんです。愛し合っている限り、絶対に裏切らないって決めたんです。尚登さんは一生って言ってくれました。だから俺も……生涯、彼を愛することにしたんです。永遠に変わらぬ愛を請求しましたからね」  高成が書いた特徴のある字を思い出して、友規はクッと肩を揺らした。 「あなたも、恋人に『請求書』を出したら如何ですか? 高成さんとその人が出逢ったのは運命なんですから」  表情を変えることなく一点を見つめたまま煙草を口元に運んだ高成は、伏せていた目をゆっくりと友規の方に向けると、喉の奥で小さく笑った。 「運命か……。理詰めじゃなく、たまにはそういうものを信じてみてもいいかもな」  高成がいつになく穏やかな声音でそう呟いた時、デスクの上に置かれていたスマートフォンの画面が光り、着信を知らせた。  友規が視線を向けたその先に表示されていた名前に息を呑んだ。 「え……?」  高成は慌てるでもなくスマートフォンを手に取ると、画面をタップして耳に押し当てた。 「もしもし? これから会えるか?」  抑揚のない彼の声。それなのに友規には何かを吹っ切ったような力強さを感じた。  そっと高成のデスクを離れ自分の席に戻った時、オフィスの入口のドアが開いた。  反射的に立ち上がり、カウンターへと向かった友規に微笑みかけたのは最愛の恋人である尚登だった。 「尚登さん……」  迎えに来ていたことを思い出し、申し訳なさそうに俯いた友規の腰を、カウンターを回り込んできた尚登の手がそっと支えた。 「仕事は終わった――ようだな。一緒に帰ろう」  ちらっと窓際に座る高成の姿を見た尚登が、少し身を屈めて友規の耳元で囁いた。 「アイツも帰るだろ?」 「え? あぁ……多分」  先程の会話がどうなったのか気になるところだが、友規はいそいそと自分のデスクに戻り帰り支度を始めた。その間もスマートフォンに表示された名前が脳裏から消えない。 (河野さん……って、まさかだよな)  友規の常連客だった男であり警視庁刑事部捜査二課の警部補である河野と、同一人物なのだろうか。  もしも本人だとすれば、少々面倒な関係と言えよう。  時に国選弁護人として、容疑者がたとえ黒であっても白と覆さなければならない弁護士と、躍起になって容疑者逮捕に執念を燃やす刑事は絶対に慣れあうことはしない。いうなれば水と油。  そんな二人が恋人同士になることがあるのだろうか……。それに仕事だったとはいえ、河野と何度も体を重ねてしまった友規としては高成に対して罪悪感を抱かざるを得ない。  もし、高成に河野との関係を知られたら、おそらくこの事務所にはいられなくなるだろう。  仕事にも慣れ、ドSな高成のパワハラも上手くかわせるようになってきたというのに、また就職活動の再開かとため息をついた時だった。 「――出張サービス無料で、フルコースだと? 却下だ! 俺の部下に手を出したら殺すぞ」 「ひっ!」  高成の声に、肩を震わせて小さく悲鳴を上げた友規のもとに尚登が慌てたように駆け寄ってきた。 「大丈夫か?」 「あ、うん……。だ、大丈夫」  なんてタイミングが良すぎるのだろう。友規が考えていたことが高成に筒抜けているようで戦慄した。  尚登が友規の耳元に顔を寄せてそっと囁く。 「――安心しろ。真純はお前と河野さんのことをどうこういうヤツじゃないから」 「え?」  高成の方に視線を向けながらも、友規の耳朶を指先で弄りながら小声で続ける。  尚登の息が耳にかかるたびに、くすぐったいような疼きが体を火照らせていく。 「弁護士と刑事……。手放しで喜べない関係だよな。河野さんだって上にバレたらタダじゃ済まないだろうし、真純だって仕事に影響が出る。でも――出逢ってしまったからね。運命ってヤツかな……」 「尚登さんは知ってたの? 高成さんの恋人が河野さんだって……」 「あぁ。悩んでるみたいだったけど、真純はそういうこと口にしないから。恋愛には淡白なんだよ」  尚登の言葉に友規は思わず噴き出して、慌てて口元を押えた。高成の冷たい視線が友規に向けられたが、即座に彼に背中を向けて事なきを得た。  やはりイトコ同士。そういう血が流れていることを実感し、友規は口元が緩んでしまうのを堪えきれなかった。  帰宅の準備を終えた友規に尚登が手渡したのは、先日の『領収書』だった。高成の悪戯のような請求書に対し、律義に作ってきたようだ。尚登らしい気遣いに、友規は胸がふんわりと温かくなるのを感じた。 「これ、真純に渡しておいて」  友規は難しい顔でなおも通話を続けている高成のデスクに向かうと、その領収書を机の上に置いた。 「お疲れ様でした」  声に出さずにそう告げると、優しく迎えてくれた尚登の腕にしがみついた。 「ねぇ、運命の糸ってあると思う?」  端正な顔がゆっくり友規に近づき、何かを期待している唇をそっと塞いだ。 「すべてを失くしても手に入れたいもの。それが、赤い糸が導く運命の恋なんじゃないかな」 「そうだね……」  だから――高成もきっとうまくいく。  もう一人で迷うことはない。責めることもしない。  今まで失くしたもので出来た道に足を踏み出して、もっと大切なものを探していく。  友規は尚登が差し出した大きな手を強く握りしめると、そのぬくもりに笑みを浮かべながらオフィスをあとにした。    *****  静寂だけが残されたオフィス。  高成のデスクの上に置かれた領収書がエアコンの風に煽られてふわりと舞いあがった。  それに気づいて咄嗟に伸びた長い指がそれを挟み込む。  スマートフォンを左手に持ち替えて、その用紙を目の前に掲げた高成がニヤリと笑った。  尚登の自著と捺印がなされた領収書の日付――すべてを失くして、一番大切なものを手に入れたあの夜。  友規と尚登が運命に導かれるようにして初めて出逢った日が記されていた。                                        (終)

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