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第3話
「……重い」
番になって、初めてのヒートがきてから十月十日。
僕のお腹も、とうとう張り裂けんばかりに大きくなって。
僕はオメガとして、臨月………を、迎えてしまった。
あんだけお腹の中で縦横無尽にパタパタ暴れていた赤ちゃんもだんだん落ち着いてきて、逆子気味だったのも正常位におさまってきた。
たまに、ぐーっと威力のあるキックが、体の中からお見舞いされるから、思わず「イテテテ」って呟くのが口癖になって。
お腹の皮膚がボコっとつきでるたびに、僕はその正体を想像しながらソッとなでるんだ。
不安の種でしかなかった僕の骨盤は、赤ちゃんの頭が通れるくらいギリギリ広くなって、このまま通常分娩で出産することが決まった。
それでも………なんとなく、不安であることにはかわりない。
そんな不安を忘れるかのように、僕は赤ちゃん用の産着やらガーゼハンカチやらを一心不乱に洗って、いつ生まれてもいいように準備している。
小さな、小さな。
人形の洋服みたいに小さな産着を干していると、ワルキューレが部屋の中から聞こえてきた。
その音に反応するかのように、浅い痛みを伴って僕のお腹がぐーっと張ってくる。
「この曲、好き?………ずっと、聴こえてたもんねぇ………」
僕は、張ってくるお腹をさすりながら呟いた。
「生まれてくるときに、かけてあげよっか?この曲。ドラマチックな曲だから、すごい勢いで生まれてきそうだね」
男の子でも、女の子でも。
アルファでも、ベータでも、オメガでも。
とにかく、無事で生まれてきて欲しい。
僕の願いは、それだけだ。
部屋の中では、相変わらずワルキューレをかけながら仕事に没頭していて、僕は座っている石神の体を後ろから抱きしめた。
「石神さん。実験のデータ、だいぶ収集できた?」
「うん。琥珀くんとお腹の中の赤ちゃんのおかげでね」
「どうして、この薬を作ろうと思ったわけ?」
石神は穏やかな優しい笑顔を僕に向けた。
「琥珀くんになら、本当のことを言ってもいいかな?」
「………本当のこと?」
「俺の中の兄弟、のためかな?その人に会ってみたくなったんだ。
でも、そんなこと叶わないし。
なら、作ってみようって。
子どもを生めないベータをクセのないオメガにして、そのまっさらで純粋な遺伝子と俺の遺伝子と結合させたら…………。
その子どもは、俺の中の兄弟に近いんじゃないか、って」
優しい、のに………寂しそうに石神は笑う。
「俺のエゴで琥珀くんを巻き込んでしまって、本当に悪かったと思ってる。
薬や、医療機器を開発するのは楽しいんだけど……。
今回の実験、正直、迷ってた………。
口では強気なことを言っていたけど………琥珀くんに嫌われてるって、ずっと思ってたし。
………少し前、琥珀くんが言ってたでしょ?
〝子どもを授かる機会をくれてありがとう〟って。………それで、救われた」
「石神さん………」
「俺、琥珀くんが、ずっと好きだった。
だからこの実験は絶対琥珀くんとじゃなきゃイヤだったんだ。
琥珀くんを無理矢理オメガにして、強引に犯して、孕ませて………。
ただ、自分の欲求を叶えるために………琥珀くんの気持ちなんて考えずに。
琥珀くんと、ずっとこんなことをしたかった。
こういう風に穏やかな生活を過ごしたかったんだ」
………う、わぁ。
石神のそんな顔、初めて見た。
無駄にイケメンで、無駄に澄み切った瞳に涙をたくさん溜めて………。
泣くまいと、声を震わせ必死に耐えて………。
不器用で、それでいて、甘く、優しく、切ない告白。
僕は女の子じゃないけど………。
こんなこと言われたら、胸がキュンってになるに決まってる………。
ずるいよ、石神。
今まで、僕は石神の本心がわからなかった。
この子の親になることを望んでいるようにも見えなかったし、所詮、実験の一部としか思ってないんだろう、って。
だから、だんだん石神に惹かれている気持ちを押し殺して。
寂しい気持ちも、苦しい気持ちも、なかったことにして。
石神に迷惑をかけないように、赤ちゃんを産んだら、僕は一人でその子を育てようって決めていたんだ。
決めていたのに…………。
石神の言葉に、胸が苦しくなって、お腹が張って………。
パンッ!!
僕の足の間で弾ける感覚がした。
その瞬間、大量の液体が僕の太腿を伝って、足元を濡らす。
「………石神、さっ……」
「どうしたの?琥珀くん」
「…………破水、したかも……」
「………え?」
「…………どうしよう、破水した!生まれる!!」
動揺したら、急にお腹が痛くなった。
今で経験したこともないような激しい痛みが、赤ちゃんがいるお腹を締め付けるように襲ってくる。
赤ちゃんが落ちてくるんじゃないかって恐怖と、経験したことのないあまりの痛さに、僕はその場に座り込んでしまった。
…………陣痛、なのか……?
しかし………めちゃめちゃ、痛いっ!!
痛さに何もできない僕を尻目に、石神は僕を抱き上げてベッドに寝かせると、お医者さんに電話をしたりして、その間も僕の背中をさすりながら、テキパキ動いていた。
相変わらず、穏やかな笑顔で石神は僕を見つめていて………安心する。
するんだけど………痛さが勝って、それどころじゃない!!
「先生がすぐ来てくれるって。大丈夫だから、ね。琥珀くん」
「いしが、みさん………赤ちゃん、苦しくないかな………大丈夫かな………」
「大丈夫。俺がそばにいるから」
「…………僕とか、赤ちゃんとか………重荷じゃない?」
「どうして?」
「石神さんの本心がずっとわからなかった……。
こんな平凡で、なんの取り柄もない僕を好きだって言ってくれて………。
嬉しいのに………。
僕は、石神さんのそばにいたいって思うのに………。
実験の後ろめたさから、石神さんをそんな気持ちにさせてるんじゃないか、って思う僕もいて………。
いっ!!いたたたたっ!!」
「こ、琥珀くんっ!!」
陣痛の波に、僕は確実に体力を奪われていて。
こんな弱っちいの、ダメなのに………。
でも、でも!!
「石神さん!!」
「はいっ!!」
ありったけの力で腹の底から声を張り上げた僕に、石神は体をビクつかせて条件反射的に返事をした。
「ご迷惑じゃなければ、僕と結婚して!!」
無我夢中で。
意識がはっきりしていたのは、僕が陣痛によって引き起こされたであろうハイテンションで、石神にプロポーズしたこの時までで。
陣痛の間隔が短くなるにつれ、僕はなんとなく、断片的にしか覚えてない。
お医者さんのいつもとは違う、緊張感のある声が聞こえて。
石神の僕の名前を呼ぶ声が、いつもより大きく耳にこだまして。
………赤ちゃん、大丈夫かな……。
僕は、ちゃんとしてないから………赤ちゃんが苦しいのかも。
赤ちゃんを苦しくさせてるんだったら………。
僕はいいから………赤ちゃんを助けて欲しい。
「いしがみ、さ………赤ちゃん………たすけて……」
その瞬間、「ワルキューレの騎行」が頭の中で鳴り響いて………。
「ぁぁーっ、ぁぁーっ!」って、かわいい小さな泣き声が聞こえて………。
僕の、全身の力が抜けてた。
「ましろ!きょうのごはんは、なぁに?」
「そうだなぁ………茄子があるから、ナス味噌炒めにしようなかなぁ」
「やったー!まおくん、すきぃ!」
「真王、お味噌汁に何をいれて欲しい?」
「ねぎ!」
「ネギだけ?他には?」
「ねぎ!」
「………お豆腐と、かぼちゃもいれようね」
「うん!」
夕飯の話をしている、愛しい人と愛しい我が子の声が、だんだん近づいて、だんだん大きくなって。
「ただいまー!」
玄関を開けたと同時に元気な我が子の声が、家中に響き渡る。
「おかえり、真王。保育園楽しかった?」
「うん!おすなであそんだ!あのね!おだんごつくったの!たくさんできたよ!」
「そっかぁ、すごいなぁ!よかったねぇ」
愛しい人によく似た我が子は、僕の出っ張った大きなおなかに、ほっぺたをそっとひっつけた。
「あかちゃん、げんき?」
「元気だよ?……ほら、わかる?赤ちゃん、蹴ってる」
「あーっ!!あし!!あかちゃんのあし!!」
僕のお腹がボコっと飛び出た部分を、その小さな手で優しく触れる。
「赤ちゃんが〝真王、おかえり〟だって」
僕の言葉に、その真っ直ぐな瞳をキラキラさせて、僕のおなかに口を近づけて言った。
「あかちゃん、ただいまーっ」
約3年前、僕は真王を産んだ。
ベータの僕は、愛しいマッドサイエンティストの実験でオメガになって、その人の子をこの身に宿して、育てて。
出産して………僕は、一人の子の親になったんだ。
そして、今………もうすぐ二人の子の親になろうとしている。
「……はく、く……!!……琥珀くんっ!!」
気がついたら。
僕の目の前には、今にも泣きそうな顔をした石神が僕の右手を握りしめて、僕を凝視していた。
体の上にのっかっている左手の感覚がいつもと違って、お腹の方に目を向けると、お腹の出っ張りが小さくなっていて………。
一気に不安が押し寄せて………。
背中が、スッと冷たくなる。
「いしがみ……さん……赤ちゃんは?………赤ちゃんはっ!?」
「先生たちが体を洗ったり、体重を測ったりしてくれてる。大丈夫。元気な男の子だったよ」
…………よかった。
無事だったんだ………でも、さ。
我が子が生まれた瞬間の記憶が一切ない。
僕、一体どうなってしまったんだろう………。
「心配した……琥珀くん………」
そう言って、石神はのしかかるように僕を抱きしめると、肩を震わせた。
………泣いてる?
顔が見えないから、よくわからないけど………。
石神は、確実に泣いてる……!!
「石神さん、何?!どうした?!僕、何かした?」
「出産中、琥珀くん血圧がものすごく上昇して、意識も混濁してて…………産んだ瞬間、血圧が急激に下がったから、意識がなくなって」
……う、わぁ、、、マジで?
石神がこんなに取り乱すのも無理はない。
僕が石神の立場でも、きっと同じになるはずだ。
僕を抱きしめる石神の腕により力が入って、その肩の震えがますます大きくなった。
「………また、大事な人を…………愛する人を失ってしまうかと思った。………俺に関わる人は、みんないなくなる。………俺が好きになった人は、みんな………職場の人が言うとおり、俺は〝死神〟なんじゃないだろうか、って」
………やばぁ。
リーパー石神って、あだ名……知ってたんだ。
しかも、かなり気にしてる………。
「大丈夫だから。石神さん!泣かないで!僕は大丈夫だから!」
「琥珀くん………」
「僕はいなくならないよ!!ほら、僕は生きてる、大丈夫だったでしょ?石神さんは死神じゃない!!だから………だから、そんなこと言わないで………石神さ………眞白さん」
僕の肩に顔を埋めていた眞白は、涙で真っ赤になった瞳を僕に向けた。
「………名前で、初めて呼ばれた」
「だって………僕と結婚してくれるんでしょ?」
「………琥珀くん」
僕はまだ小刻みに震える眞白の肩をそっと抱いて、例えるなら、泣きじゃくる子どもをなだめるように眞白の体を引き寄せる。
「琥珀くん、俺のそばにいて………子どもと一緒に………ずっと、そばにいて」
「もちろん。ずっと、ずっと………眞白さんの中の兄弟以上に、ずっとそばにいる」
眞白が泣きはらした顔を笑顔にして。
僕もつられて笑顔になって。
どちらからともなく、唇を重ねる。
今までのキスとは、どこか違う。
優しくて、軽いキスなのに…………。
無理矢理、深く舌を絡めなくても、互いの気持ちや考えているコトの細部まで………。
分かる、繋がる。
なんか、もう………このままでいい。
「ねぇ、眞白さん」
「何?琥珀くん」
「子どもの名前………僕、考えたんだけど……言っていい?」
「うん、どんな名前?」
「真王って、つけようかと思って。
眞白さんの眞からヒと縦棒を取った真と、僕の琥珀の琥から虎を取った王で、真王。
僕たちの遺伝子を持つ、でも僕たちの完コピじゃない、足りない部分があるオリジナルな存在」
その足りない部分は眞白の中の兄弟の部分でもあり、自分で見つけて切り開いて欲しい部分でもあり。
型にはまらず、自由な意思を持って、その人生を楽しんで欲しい。
だって、そうでしょう?
平凡すぎる僕は、このまま平凡に生きて行くんだって思ってたんだ。
でも、愛しいマッドサイエンティストに出会って。
ベータからオメガになって、妊娠して出産するくらい。
人生は、予想だにしないことが起こる。
だから、しなやかに、負けることなく。
アルファでも、ベータでも、オメガでも。
その人生を、楽しく生きて欲しい。
「………すてきな、名前」
僕の意を汲むかのように、眞白は穏やかに笑って言った。
この、眞白の笑顔………僕、大好きだ。
「僕は当初の予定だと、あと1か月でベータに戻っちゃうけど………。
眞白さんを愛しいと思う気持ちは変わらない。
眞白さんのことも、真王のことも、眞白さんの中の兄弟のことも………。
みんなひっくるめて………。
僕と一緒に、これからの人生………楽しく生きようよ、眞白さん」
それからは、とても慌ただしかった。
育児休業を取得した僕は、母親に手伝ってもらいながら、真王のお世話に追われて………。
もちろん、真王は泣くことしかできないから、なんで真王が泣いてるのか分からなくて、ヘタレな僕は、泣く真王と一緒に泣いてしまうくらい切羽詰まった時期もあったりしてさ。
〝親〟初心者の僕たちと〝人〟初心者の真王と、毎日バタバタ過ごして。
その合間に、僕と真王は実験のデータ採取をしたりして………。
真王が寝返りをしたらビックリして、ハイハイやつかまり立ちをしたら涙が出るくらい嬉しくて。
僕が作る離乳食には複雑な顔をするのに、眞白が作った離乳食は美味しそうに食べて。
あっという間に。
真王は、もうすぐ3歳になる。
そして、また僕は、眞白との子を宿した。
………まぁ、真王のスキと折を見て………。
久々のヒートに乗じて、激しくヤってしまった結果で。
でも、僕は今、すごく幸せなんだ。
「琥珀と真王のおかげで、新薬の臨床実験の認可がおりたよ」
眞白は〝リーパー石神〟から〝イケメンのイクメン〟に華麗に変身して、今、ナス味噌炒めを作りながら嬉しそうに言った。
「よかったね!結局、不妊治療の新薬で申請したの?」
「うん。不妊のオメガや女性のベータに一定の効果が見られそうなんだ。
ただし、男性ベータは服用禁止にしなきゃならなくなったけどね」
死神の領域並みに天才な眞白でも、予測不可能な事態が起きた。
それは、僕。
眞白の予想では、僕は服薬してから12カ月で元のベータに戻るはずだったんだけど。
予想に反して、12カ月たっても、2年たっても僕はオメガのままで。
きっと、憶測でしかないけど。
予想外に眞白にハマった僕が、ヒートに耐えかねて、眞白と番になったせいだ。
番の繋がりは、にわかオメガの遺伝子変異でさえも凌駕する。
………それくらい、深いんだ。
だから、また、赤ちゃんを授かることができたのかもしれない。
「琥珀………ありがとう」
「いきなり、何?」
「……俺の、家族になってくれて、ありがとう」
「どういたしまして。僕も眞白さんにお礼を言わなきゃ。毎日、幸せをありがとう」
そして、僕たちは、真王が生まれた日にしたみたいなキスをする。
「ましろー!あれ、ききたい!!あかちゃんもききたいって!!」
空間を切り裂く真王の声に、密着していた体を僕らは慌てて引き離す。
………なんだよ、これ。
新婚さんじゃあるまいし………でも、なんか照れる。
「僕が行くよ。眞白さんはご飯お願い」
「うん。わかった」
リビングのCDプレーヤーの前で、ボロボロになったCDケースを抱えた真王が、僕を見て小さな歯を見せて笑った。
「ワーキューレ!こはくもいっしょにきこう!!あかちゃんも!!」
「いいよ、赤ちゃんも真王も、好きだもんねぇ」
カラヤンのワルキューレの騎行。
ドラマチックで印象に残る、ワルキューレが軽快に響き渡る。
元々はすれ違ってる、接点すらない僕と眞白の人生が交差して、絡まって。
真王という奇跡が生まれて、そしてまた、奇跡が生まれようとしていて。
僕は真王を膝にのせて、そっと目を閉じた。
不安もないわけじゃないけど、こうしているとなんだか変に安定してきて、大丈夫って思えるんだ。
せまい、この空間に………。
ワルキューレが鳴り響く。
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