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第69話
-鵺-
思った通りでした。美潮さんは来てくれていました。読んだんですね、元恋人への手紙を。とんだ検閲官です。
「偶然ですね、美潮さん」
でも、本当に社会科資料室に何か用がある可能性も無くはないのです。
「偶然じゃない」
「では必然ですか」
美潮さんは僕を睨みました。本当に綺麗な顔だと思います。ですがそれだけだと思います。顔面を粉砕されたり、濃硫酸をかけられたら、それまでだと思います。僕は能登島先輩の顔面が吹き飛んで頭蓋骨と頬肉でぐちゃぐちゃの挽肉になっても愛せます。ですが美潮さんは違うでしょう?美潮さんの美しい顔立ちだけをステータスにされているみたいに。
「礁太に何をする気なんだ」
「笛木先輩はご一緒じゃないんですね」
「質問に答えろ」
「いいですよ。答えます。能登島先輩を買うんです」
美潮先輩の手には僕の送ったラブレターがありました。僕の貯めていた2万が入っています。出処は両親や親戚、リサイクルアプリやネットコイン、インセンティブを換金したものです。僕にはお金のかかる娯楽がありません。それはきっと能登島先輩に会うためです。身を売る仕事の相場からいって2万はかなり安いです。それでも能登島先輩は応じてくれるのか、試してもいました。それに能登島先輩の家庭は火の車のようでした。お金は家族間であってもとてもデリケートな問題です。それに一介の高校生、それも後輩が寄付だなんて烏滸がましい。貧困に喘ぐ相手に同情しても腹は膨らみません、喉は潤せません。
「ふざけるな!」
「別に今すぐ見返りを求めるとは言っていませんよ。数年後でもいいわけです。その時にそっくりそのまま返してくだされば身を売る必要なんてありません」
「礁太がそうすると言ったのか」
偽善者だと思います。こんな偽善があるでしょうか。
「いいえ。独断です。だってこうしないと能登島先輩は痩せて痩せて、いつかカラダも壊しますよ。部活まで辞めちゃって。どうにかなっちゃってから、どうにか出来たんじゃないか?なんて倒叙 マウントの思考停止がすることです。侮蔑されようとも僕は構いません。痛くも痒くもない。能登島先輩がどうにかなっちゃうくらいなら」
僕は大仰に肩を竦めました。4割方詭弁方便なので真に受けなくていいです、美潮さん。
「礁太を踏み躙 るな」
「踏み躙ってますか?僕は。相手が女の子なら多少は考えました。今は性風俗とかありますけれど、昔は醜業なんていわれて、そのまま嫌悪感と拒否感は引き継がれているようですからね。それにこの性風俗が立派な仕事だ!なんてなっちゃったとき、美潮さんに女の家族がいるか分かりせんし、僕の家族もそうですけれど、一寸先は闇ですからね。何かしらの弾みで経済状況が一転したら、社会の支援を受ける前にそのカラダを売ればいいですよね?ってなるワケです。だから多少線引きして見ないと拙いって世論 の言い分は分かります。これは女の家族のみに当て嵌まる話ではありませんけれど、ま、需要という問題で。でも、需要でいえばやっぱり社会からはまだまだカラダを売れると言われても金にはならないワケです」
これも今僕が適当に考えて作ったので、真に受けなくて結構ですよ、美潮さん。美潮さんにとって身売りは最低最悪の人非人、巨悪がすることのようですからね。でも買う方買われる方どちらに対してですか、両方に対してですか。
「美潮さんは能登島先輩に何が出来たんですか。外面、個人の倫理に囚われてただ傍に居るだけではお腹が空いてしまいます」
美潮さんは僕を哀れむように見ていました。哀れんでいたように見えたのは僕の主観なので本当のところは分かりません。だって美潮さんはきっと自分以外みんなバカでくだらないものに見えているはずですから。もしかしたら能登島先輩のことだって。ああ、もしかして能登島先輩を筆頭にそう考えているのかも知れませんでした。
「これは返す」
「返す権利があるのは能登島先輩だけですよ。かといって育ちが良くてプライドの高い美潮さんはそれを使い込んだりしないでしょう?開けてしまったなら渡してください。僕からということを伏せてもいいです」
「返す。礁太に二度と関わるな」
2万は社会から見たらきっと端金でしょう。ですが衣食住を親に保障されている高校生にとってはあまり触れる機会のない大金です。そうであるべきだ。僕は高校生のアルバイトの時給をあれからよく目にするようになりました。平均でも800円ほどでした。都会なら900円は届くのかも知れません。僕も学校に黙ってアルバイトをしている人たちを何人か知っています。ですがそれはあくまで親からの衣食住が保障されたうえでの話でした。人生に於いて学問だけが勉強ではありませんし、大切なことです。しかし能登島先輩の家庭はそうではないようでした。朝と夜、土日にまで働いて、変です。異常です。土日に部活に出られないことを気にしていましたし、大会に出場出来ないことが前提の部活は能登島先輩に何を思わせたのでしょうか。田舎の公立は残酷です。
「美潮さんはDV恋人 のケがあるようです。受け取るも断るも能登島先輩が決めることです。能登島先輩が受け取るというなら僕は浄財します。ただでは受け取れないというなら対価を求めます。受け取らないというのなら下がります。それだけの話ですよ。買えるかも分からない。一方的にそれを握らせてレイプするなんて真似はしませんから安心してください」
します。けれど能登島先輩が僕だと分かっている状態ではしません。僕は能登島先輩と付き合いたてのカップルのようなセックスがしたいんです。でも――…
「礁太が部室で深く眠っていた日があったな」
「ありましたね。アツい夜は過ごせませんでしたか」
「礁太に妙な真似したか」
「しましたよ」
一回瞬きしたらもう美潮さんは僕の目の前にいました。胸ぐらを掴まれました。皺になってしまいます。能登島先輩とナカヨクして付いた皺なら、もうアイロンなんて掛けてもらわないで、飾っておきたかったのですけれど。ダメです、僕みたいな高校生 は親に従わないと。だから僕は、ヤッホー知恵遅れだったか、ヤッホーゴミ袋に投げられた明らかに何かの課題だと思われる問題を解いてインセンティブ儲けたり、使い終わった参考書や本を売って自分なりに稼いでみたんですよ。でも結局は能登島先輩と違って衣食住が保障されたうえの児戯に過ぎないんですよ。
「暴力は自然主義ですよ、美潮さん。文化と文明の裏切りです。それを踏まえたうえで一発かましてください」
美潮さんは堪えているようでした。ですが僕は、きっと抑えられずに僕を殴ると思いました。そして本当に僕を殴りました。もう少し駆け引きに乗って、負けん気が強くて、プライドが高いものだと思っていたので少しだけ予想を外しました。
「よくも今まで礁太と顔を合わせられたな。礁太を縛ってレイプしたのも、中傷ビラを配ったのも、下駄箱に死骸を入れたのも、全部お前か!」
「そうですよ」
殴られて体勢を崩した僕に美潮さんは馬乗りになりました。人並みに人を殴れるんですね、この人は。白い皮膚の下で手の骨が折れているんじゃないかと思いました。
「なんでだ!どうして?礁太がお前に何をした!」
美潮さんってお腹から声出せるんですね。僕はそれが意外で意外で、少し滑稽で可笑 しくなってしまいました。
「嫌だな、美潮さん。これを報復だの怨恨の仕業だと思っている美潮さんには分かりませんし、説明するだけ無駄です。僕は無駄は好きですけど、この自分語りに付き合ってくれるんですか」
僕は床に打ち付けられました。もう殴らないんですね。骨を傷めたら大変ですから。
「礁太の前に二度と現れるな」
僕の胸の上に2万の入ったラブレターが置かれました。能登島先輩にちょっとはいい思いして欲しかっただけなんですよ。部活辞めてしまったのは僕だって寂しいんです。これが残酷な平等に与えられた不平等というやつなんだなって思いました。筋肉を作るために僕らは高タンパク低カロリーを勧められました。まだ成長期もありますからバランスも必要です。この僕等には普通の食生活は随分と贅沢なものでした。運動部は保護者協力のもと成り立つところもあります。保護者の援助のない能登島先輩は後輩よりも控えめなところがありましたし、大会にも打ち上げにもやはり来られませんでした。僕等が当然にしていたものです。こういう時説法の大好きな人々が引き合いに出しがちな海外だのの見知らぬ地、漠然とした知らない世帯の話ではなく、具体的な例としてすぐ傍にありました。お金で解決するのなら、多少のやりようがあります。
「ただの善い人は何も救えませんからね、美潮さん。その高潔さに見せかけた押し付けがましいプライドの高さが真綿になって、ぎりぎりじわじわ能登島先輩の首を締めるんです。それを傍観するのも僕のシュミですからいいですけどね」
能登島先輩、非力でごめんなさい。無力なクソガキで。美潮さんと堕ちてください。僕は返されたラブレターを受け取りました。喜捨します。浄財です。お金は大事なものです。朝も夜も土日もアルバイトが無ければ能登島先輩は僕と遊んでくれたはずです。土日の練習試合にも大会にも出られたはずです。貧困家庭の前に高校生 の稼いだ2万は端金です。それでも自分のことに使って欲しかったんです。間違っていてもなんでもいい。すぐに使ってくださらなくても。能登島先輩、あなたが部活を辞めただなんて言うから僕はこの年齢 でもうimpotenzです。僕と能登島先輩は先輩と後輩として繋がっていたんですよ。能登島先輩。貧困は子供を巻き込むテロです。子供に労働を押し付けるハラスメントです。まだ何の弾みもなく変わりなく平穏に暮らしている人間の施しは傲りですか。僕は煤けた天井を暫く眺めていました。何となく…虫の知らせなんて言い方はファンシーですが、能登島先輩の退部を知った時、僕は直感しました。知り合いの家が借金苦で無理心中したみたいに、これがろくな死に方なのか分かりませんが、僕の物差しからいえば能登島先輩もきっとろくな死に方をしません。ぼやぼやしていると予鈴が鳴りました。僕は起き上がって、これからどうしようか考えました。僕はもうimpotenzで能登島先輩を感じることが出来ないのです。もう先輩でも後輩でもないんですよ。関係はリセットされたも同然で、僕は能登島先輩を強姦もできないし、能登島先輩とカップルのようなセックスも出来なければ、能登島先輩でmasturbationもできないんです。能登島先輩でorgasmに達せないのに生きている価値があるでしょうか。ありませんね。能登島先輩のクラスメイトがしたみたいに僕もダイブしてみるのがいいでしょうか。ですがやはり訃報は聞いていないのでまだ生きていると思います。僕が聞いていないだけでしょうか。後頭部を相当強く打っていたので無事ではありませんでしたが、2階から落ちたのではそんなに死亡率は高くないようです。人体は意外にも頑丈だな。
「もう予鈴鳴ってるぞ?」
僕の足はどこに向かっているのか分かりませんでした。ただ新寺先生とすれ違ったことは分かりました。暗い廊下でしたが白衣でしたから。総合理科の緋野先生も実験中は白衣を着ていましたが療養中です。鬱病でしょうか。大人の社会は荒んでいます。
「はい」
先生、僕はこの若さでimpotenzなんです。治りますか。治らなかったらこれからどう生きていけばいいんですか。ああ、能登島先輩が居ないなら、erectionなんてしても仕方ないですもんね。能登島先輩が居ないのに能登島先輩でmasturbationをして一体何が楽しくて、そんなorgasmはいずれ病みます。
「先生」
「なんだ?どうした」
「いいえ…やっぱり何でもありません」
「そうか…?悩みがあるなら遠慮しないで、なんでも相談してくれよ?」
新寺先生は僕の目線に合わせて屈んでくれました。この人にとって僕は小柄な子供なんです。だって新寺先生は背が高いから。僕の両肩に温かい手が乗りました。心地の良さみたいなのがあってそれが却って不快でした。他人の体温は往々にして気持ちの悪いものですから。
「はい」
身体が泥人形になったみたいでした。能登島先輩がどこか遠くに行ってしまったみたいな。会いにいけないことはないです。会いに行けないことはないですけれど、何かが僕を能登島先輩のいる教室に向かわせてくれませんでした。能登島先輩、美潮さんの言ったことが能登島先輩の本意でもあるんですか。僕は能登島先輩の本意を汲めない負け犬です。美潮さんはきっとあなたの代弁者だ。そして僕はきっと論破されたのです。それはそれとして、それなら僕が出来ることというのは能登島先輩を傍観することのみということです。
本鈴が鳴りました。僕の中でもひとつ区切りがつきました。家の写真、PCの中のデータ、全部ここで遠隔操作でもして破棄できたらいいのに。だって僕だけが知る能登島先輩を他の人が目にしてしまうだなんて、そんなのは許せませんよ。僕は階段を上がりました。渡り廊下を抜けて裏校舎に出ました。青春ドラマでは屋上は解放されていますが実際は施錠されているものです。
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